第6話 胎動


 吹きぬける風音に借りて身を起こした。なんといっても、これからは彼らの世界なのだ。
 
 息が荒いのは、もう何日も塔を登っていたからだ。
 といってピクニックでないことは、明らかである。
 私は裸体のいけ好かない女に、不吉な魔力を帯びたワインを嫌というほど浴びせられ、気が触れるまで
 女の玩具にさせられた。
 思いつめたようなこわばりは、激怒のあまり泣いているとも見えるかもしれない。
 内奥から湧き出るどす黒い恐怖を、若さゆえの凶暴さで無理やり抑えつけている
 ――そんな感じだった。
 奇怪な塔であった。
 地上、天空、どこから見ても底辺の直径二キロ、高さ五百メートル程度の巨大な塔にしかすぎないのに、
 ひとたび頂上を極めようと斜面に足をかければ、どのような健脚の主をもってしても、到達に数十日間を要するのだ。
 塔の頂に黒い祭壇がそびえていた。
 私たちの目標である。
 しかし、この黒々と周囲を睥睨(へいげい)するたやすい標的は、砂漠辺境帯で言われる蜃気楼のごとく、
 たかだか五百メートルの高さに達するまで、私たちを――いや、挑むものすべてを翻弄し尽くすのだった。
 距離が縮まらないのである。
 足は確実に斜面を踏みしめ、身体は着実に上昇を告げる。
 にもかかわらず、前方に望む傾斜も祭壇も、一向に近づいてはこないのだ。
 経験者である私の場合、あれはまだ未完成であったことと、海中に建設した塔はただのデコイで
 冬木のど真ん中に聳え立つこちら側が本命だったので、あまり参考にはならないだろう。
 
 そして不意に、目覚めたとき対面で様子を覗う男の顔に喜色が湧いたのを見た。
 彼は……そう、たしか同じ学園の衛宮くんだ。
 ふと気が緩んで涙がこぼれた。
 そして彼の胸元でわんわん泣いた。
 ひとしきり泣いた後、今度は矢継ぎ早に質問攻めだ。
 お互いの成り行きと情報を交換して、ようやく私は落ち着き、つい舐められてはいけないと
 アドバンテージを取るために少し意地悪をしてしまった。
 からかわれながらも素直に言う事を聞く良いヤツだったので、冷静になった今は反省している。
 
 数時間後、一同は塔内の一角で休息をとっていた。
 愚鈍に近いそれぞれの顔は疲労の翳(かげ)が濃かったため仮眠をとることにしたのだ。
「そろそろ行きますよ。起きてください」
 
 闇に馴れた眼が、救い主の顔を確認した。冬の静夜を結晶させたような美しい顔を。
「どうしました?」
 声にはじかれ、凛は脳裡に浮かんだ言葉を口にした。素直な男の娘だった。
「あなた、綺麗ねー。もう、びっくり!」
「やめてください、その褒め言葉は少し不快です」
 冷たく、というより無感情に美貌の主は繰り返した。
 凛はすでに相手の全身を無遠慮に眺めるだけの心の余裕を取り戻していた。
 年の頃は二十歳(はたち)に満つまい。
 光に反射した淡いグリーンが美しい透き通った銀の髪と、白のゆるりとした服装を纏う麗しい中世的な青年。
 意識が呑み込まれそうな深い青の瞳は、この青年にふさわしいと思われた。
「ふんだ。あんなエセ神父の使いっぱしりだなんて、もったいないでしょ。
 あいつに嫌気がさしてるんだったら、わたしの所に来なさいよー」
 内心とは逆の言葉が凛の口をついた。
「そんなこと言うなら、彼を説得してからにして下さいね」
 意外なことに、青年は音もなく士郎の方へ歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、この。――気が早い男(ひと)ね」
 あわてて追った。服の端か腕にすがりつこうかなと思ったが果たせなかった。
 無言で後に続き、衛宮君の下に出た。
 あきれたことに、衛宮君は無防備にまだ熟睡していた。
 起こそうとするセイバーの前に出て私は衛宮くんの腹を蹴飛ばす。ゴスッと爪先がめり込みたまらず跳び上がった。
「ごはっ!!――っげほっげほっ」
 力加減を誤り、かなり強く蹴ってしまったようだ。
 さすがにこれは酷い、セイバーと私は彼の体を起こし、背中を擦ってやる。
「遠坂さん、戯れは控えてください。今のは――」
「ま、待ってってば。わざとじゃないの!!
 い、いやわざとなんだけど、軽くこずくつもりでやったんだけど加減を間違えて――」
「ごほっ!ごほっ!お、おまえ、なん――」
「ごめん!ごめんなさい衛宮くん」
「……まあ、今後はもう少し行動を遅めるように。考え即蹴るでは、アナタの今後が心配です」
「し、失礼ね、普段はもっと冷静よ。
 今のだって、士郎じゃなかったらストップかかったわ」
「なに!? と、遠坂の中じゃあ、俺はそんな扱いなのか!?」
「え? ううん、そうじゃなくて、他の人だったら慌てなかったというか、そんなに恥ずかしくなかったというか、うん」
「……いまいち要領を得ないな。」
 ひたすら平謝りをする。
 セイバーの取り直しで、とりあえず事なきをえた。
 
 どうやら、この塔の中は精神の無意識下に圧力をかける造りになっているのと
 昨晩、私たちを襲撃したあの厭らしい女と黒い巨獣の呪詛が私たちに悪影響を及ぼしているらしいのだ。
 効魔力では対抗できない、毒ガスのようなモノで定期的にセイバーの治療を受けないと
 肉体と霊体共に蝕まれていくそうだ。
 喩えるなら、ナノサイズの細菌兵器といったところだろうか。
 フィルターを張ってもどんどん身体をじくじく蝕んでゆく。
 セイバーに浄化された後に残留する塔内のごく微弱な瘴気でこれだ。
 本元の極大の呪いを浴びれば、絶対に助からない。
 
 ――あれは、次元違いだ。

 その存在そのものが、最高純度の呪いの顕現。
 キリスト教における黙示録に出現する。
 地上の忌むべき者や売春婦達の母、“悪魔の住むところ”“汚れた霊の巣窟”“地の王たちを支配する大いなる都”
 The Great Harlot、バビロンの大淫婦。
 新約聖書「ヨハネの黙示録」において、世の終わりに登場するという女性。
 キリスト教で「退廃と悪徳の象徴」とされたメソポタミアの都市バビロンが、人格化された存在。
 紫と赤の衣をまとい、多くの宝石で身を飾り、手には姦淫の汚れで満ちた金の杯を持ち、
 神を汚す多くの名でおおわれた七つの頭と十本の角をもつ赤い獣にまたがる
 全ての娼婦と憎しみの母であり、あらゆる民族、群集、国民、国語を支配する悪の華。
 
 英霊なんてものじゃない。
 終末に現れる邪悪そのもの。神霊クラスの怪物ではないか。
 
 足手纏いにしかならないと判断した私と衛宮くんだったが、どうやらこの塔は下界と内界が強固に遮断されており
 簡単には脱出できないようなのだ。
 また、それはマスターとの繋がりにまで干渉が及ぶらしく、レイラインの繋がりが希薄になっているのだ。
 対処法として、私との回路(パス)を臨時に設け彼の現界に必要な魔力消費を肩代わりしている。

「僕の力だけでは対処療法と侵食速度の緩和しかできません。
 焦らず、小まめに休憩を挟みながら進むしかないでしょう」
 ふり向きもせず放ったセイバーの言葉に、私は眼を丸くした。
「そういえばどうしてあなたは影響を受けないの? 
 いくら霊格の高い英霊でも、ここまで強力な呪いに対して一切影響が及ばない筈はないんだけど」
「僕は少し特殊でして、他の方々よりちょっと頑丈なんですよ」
「へー。加護や防壁じゃなくて体質ってことか。興味深いわね。
 そう言えば、あなたの名前はなんていうの?」
 入口の寸前で青年の歩みが止まった。こちらを向き
 人差し指を口元に置いて
「内緒です」
「私はあなたの敵にはならないわよ。命の恩人だし、あなたのこと気にいっているもの」
「少し事情がありまして」
 青年はまた歩きだした。
「むー」
 凛は地団駄を踏んだ。



 ◇◇◇


 頭の中が白い粘液で満たされている。桜はそう思いながら頭を傾ける。
 ちゃぷりと音がした。したような気がした。
 眠いのだ。
 とにかくひたすら眠いのだ。

 瞼(まぶた)がゆっくりと閉じる。
 眠気の粘液が耳から溢れそうだ。

 夢を見ていた。
 あのときの夢だ。
 巨大な獣のような夜の校舎。
 むせる臭い。
 男たちに連れ込まれ、無理やり犯されるわたし。
 興奮が最大に達した彼らは鈍器で力いっぱい殴りつけてきた。
 阿鼻叫喚。
 周囲を覆いつくす蟲の群れに貪り喰われていく人形(ひとがた)
 悪夢だった。

「……ないのぅ」

 顔を上げると祖父が見下ろしていた。
 涙を拭い、私は言う。

「……お爺さま」

 ここは、街から少し離れた波止場の先の海岸前。
 海を前に黄昏る私の前に、祖父が立っていた。

「災難であったのぅ、桜や。身体に障りはないか?
 日を変えても戻らぬので心配をしたわい。
 おまえはこの身に代えても命だけは救わねばならん。カカ、まっこと肉親の情とは命取りよ」

 びちゃり、と汗ばんだ額をぬぐう。
 気が付けば全身、水をかけられたように汗まみれだ。

「申し訳ありませんお爺さま……ご心配をおかけして」
「をを、をを。気にするでない。わしこそ助けに行くのが遅れてすまなんだ。
 世情の見聞に出て、お主の危機を察知するのが遅れてのう……。
 まっこと年を取ると腰が重くていかんわい、カカカッ」

 胸焼けがする。
 肉の腐った嗅ぎ慣れた匂いが起ちこめてきた。

「いよいよもって、六道(りくどう)の輪廻図が顕現されるか……。
 円環の輪を解脱し外道へと至る道を拓く……。
 これは本当に不味いしまうかもしれぬな……困ったものじゃ」

 苦渋の表情を浮かべて祖父は溜息を零す。
 彼女の前で、こうした弱みを見せるのは本当に珍しい。
 少し前までは、とても信じられぬほどだ。

 最近の祖父は、魔術の修練の時以外はほとんど外出している。
 なんでも、街の治安の悪化が悪くなっていく一途らしい。
 10年前の大火災と土壌、及び龍脈の広域汚染がその原因だといい
 増加する犯罪率、海域の海産物の大量死滅、奇形児・障害児問題、etc…….
 様々な悪い世情が巷を悩ませており、一時はワイドショーや週刊誌で
 呪われた街、と暗喩されお茶の間を賑わせた。
 まだ年若い管理人(セカンドオーナー)の遠坂家の跡継ぎに代わり
 表と裏の圧力に対して後見人の神父さんとお爺さまがこれに随分尽力したと聞く。

「此度は見送る筈ではあったが、最早この歪みは止められまい。
 止むを得んが、この5度目の聖杯戦争に全てを賭けるしかあるまいの」
「――――聖杯戦争」

 お爺さまの悲願。
 60年に一度行われる聖杯を賭けた殺し合いが
 まだたった10年足らずという周期で、再びこの地で行われてしまうというのか。

「70年前のイレギュラーの続発に伴い、大聖杯は致命的な故障(バグ)を孕み
 前回の儀は道理無き、まさに災厄であった。
 上位存在である英霊、ライダー・キャスターめの度重なる虐殺に
 バーサーカーの暴走による市街地での炉心溶融
 止めはアーチャーめの死極の矢によって、この地は遂に三悪趣を孕みよった……。
 残された手段は臨界点を迎える前に、この儀を終着させるのみ。
 ――――お主には、すぐにでも召喚の儀を執り行ってもらう。」

 とうとう恐れていた終わりがきた。
 穏やかな平穏。
 温かい日常は終幕を迎え、此処は間もなく血みどろの戦場と成り果てる。
 
「……あの、お爺さま。兄さんは……」
「ほ、何を訊ねるかと思えば。そのような事、答えるまでもない。
 今おぬしが口にした通り、おまえをマスターに選んだのはワシだ。
 おまえがサーヴァントを引き連れ聖杯を勝ち取るのじゃ。

 見ての通り現役から退いて久しいのでな。
 戦えぬワシではあるが、此度ばかりは退くわけにはいかぬ。
 微力ながら助力もしてしんぜようぞ……」
「は、くっ…………!」

 胸を押さえる。
 体内の虫が、祖父の暗い情念に応えるように神経を這う。
 
 じくじく。
 じくじく。
 じくじくじく。

 体内で蠢く耳鳴りがする。
 血液に溶けて巡る悪寒がする。
 わたしの体は醜く、こんな事で興奮するほど邪(よこしま)で、心まで淫らだ。

「手始めにワシが素養のある人間を3人連れてまいった。
 こやつ等には既に擬似令呪と使役蟲を植え込んであっての。
 仮初めではあるが、マスター資格を有しておる」

 そう告げるとともに、ゆっくりと覚束ない歩調で祖父の後ろに近づいてくる人影がくる。
 中年の男が二人と、女学生が一人。
 暗がりで顔が見えないが、自分と同じ穂群原学園の制服なのが見てとれた。

「召喚を終えた後、この者たちに順次召喚の儀を行わせ
 然るうちに、ワシの傀儡となってお主のサポートを行わせる。
 無論、幾らワシでもこれらのサーヴァントを完全に制御させるのは骨が折れるのでな。
 使えぬならこの場で始末するか、使えるならしばし泳がせてみようかと思うておる」

 ……血液に溶けた虫は媚薬となって、彼女の体を熱していく。
 体内で生じ、意識ごと飲み込むうねり。
 その、昂ぶり続ける意識の中で彼女はいつも思うのだ。
 この手足はもう穢れきっていて、人のものではない。
 体は性欲に溺れてすぐに倒れ、卑しく地面にすがりつく。




「――――あ、由紀香……ちゃん」




 暗がりの中に見える茶髪のショートヘア。
 愛らしい眼。
 孤立する自分をいつも気にかけ、声をかけてくる一つ上の先輩。
 私のもう一人の日常の象徴。


「カカッ!無論、彼奴らを間引くのはお主の手でやってもらう!
 この先に詰まらぬ情けなぞ不要!
 最後の教育は、舌の根に血の味を覚えてもらうとしようぞ!」


「ああ、あああああああああああああああああああああああっ――――!!」


 止まらない呼吸と指先、粘体のように切なく蠢く腰。
 それは神経に絡みついたモノと何も変わらない。
 視覚が閉ざされる。
 目前には肉眼では捉えられぬという第五要素。
 否定しようと思えば思うほど虫たちは神経を侵し、意識はどろどろに溶かされ、そして、
 ――――自分が、大きな虫になった気がする。
 そして、最後には不吉な錯覚に、全身を支配されるのだ。


「呵々、もはや誰にも止められぬ。人を殺したらばお主は、もはや立ち止まる事などできぬ。
 アインツベルンの聖杯。門に至る鍵を奪い、
 天上の神の座が拓かれる前にワシが外道への道を掠め取る!
 さすれば詰みだ。我がマキリの悲願、第三法の再現がついに、ついに果たされるのみよ……!」
 


 吹き荒れるエーテルの嵐。
 間桐桜を中心にして、目映く禍々しい魔方陣が鳴動し
 彼女の身体を黒い炎が爛々と煌き渦を巻く。




 どこか常ならざるところがあった。
 艶(なま)めかしいような気配も漂わせていたのだった。
 蠱惑(こわく)といってもいい、妖しい吸引力だ。
 何かしら神聖なものの存在を背後に予感させるような、そんな力だ。
 唇を開いたときに出てくる言葉は、託宣(たくせん)めいた響きを帯びていた。

『其は「生ける死者」なり。
 其は魂を持たざる者なり。
 其は人を象(かたど)る者なり。
 其は長き牙を持ち、永劫の夜を往く者なり』

 召喚された裸体の女性は長いこと思案するように目を閉じ、
 その艶やかな唇の上にいくつかの音にならぬ言葉を形作った。そして――

「な…………なんて者を呼んでくれたんじゃ…………」

 絶句する老人は口を開け、
 震える身体を抱くように小さい矮躯をさらに縮こませて声を振り絞る。

『息吹の器、知の坩堝(るつぼ)
 ――――破壊と混沌に沈む無垢なる使者』

 風がさざめき、数秒の後、女性がゆっくりと目を開いた。
 髑髏(しゃれこうべ)の仮面の奥の紅い瞳(ひとみ)が二人の姿を映す。

『息吹の器たる我を、知の坩堝たる我を、終末の世に顕現されたる我を呼びせしめたるは何者か?』

 彼女は召喚のショックで半ば意識が混濁しており、
 朦朧とした瞳で自分が召喚した女性に小さく瞳を合わせる。
 まっすぐな眼差しとぶつかった。
 それは刃(やいば)のように鋭いものではなく、
 また声色も口調もあくまで抑制的だったが、見透かしてくるような存在感があった。

『我が名はマザー・ハーロット。
 混沌六芒の民、終末の使徒、
 汝、付喪(つくも)の霊と語るを職(しき)とする者なりか?』

 左手の令呪が瞬く。
 
『しからば我が主よ。
 混沌六芒の民、終末の使徒、付喪の霊と語るを職とする者よ、汝(な)が魂の名は如何(いかに)』

 彼女の問いに小さく答える。
 女性はゆっくりと瞬きをした後に言った。

『間桐桜。傀儡の固き檻よ。我は汝(なんじ)を確認せり。
 汝(な)が名を、汝(な)が魂の名を確認せり。しこうして、汝(な)が存在を確認せり』

 
 ――――最悪だ。
 間桐臓硯は己に降りかかった絶望を嘆いた。 
 この街に渦巻く瘴気と、人々の狂気が刻一刻と螺旋のように渦巻く
 この冬木の街の異常を、唯一人、正しく理解することの出来た自分は
 持てる全ての手段を持って、この聖杯戦争の開催の為に手を折ってきた。
 だが、そんな自分を嘲笑うかの如く、よもや最後のトリガーを自身の手で引かせることになろうとは
 
 

『六芒(ろくぼう)に「生ける死者」は数多(あまた)在り。
 魂を持たざる者は数多在り。
 人を象(かたど)る者は数多在り。
 長き牙を持ち、永劫の夜を往く者は数多在り』


 英霊と呼ぶのは恐れ多い。
 英霊と呼ぶにはおこがましい。
 其は高き処にありて、終末の夜に。
 売春婦大バビロン、地に属する嫌悪されるべき。 
 聖徒たちの血と、イエスの目撃者達の血を飲んで酔い
 紅き獣に跨りて、世界を呪う忌まわしき真の邪悪。
 
 そのとき、臓硯は彼女の横顔に底知れぬ何かを感じてぞくりとした。
 それは恐怖ともまた違う、肉体の奥底を燃やすような感覚だった。
 
 そも、使役するなぞ、まるで見当違い。
 あらゆる事象、関わる全ての者を破滅させ地獄の底へ堕とす悪徳の華。
 齢五百を超える幾千幾万の困難を越え、俗世全ての酸いも甘いも舐め尽した老獪なれど
 この女の前では幼子の手習いのそれと同じ。
 
『其は長き中にて、さらに長き牙を持つ者なり。
 其は天の女王と呼ばわれたり』

 臓硯はさらに思慮を重ね、条件を絞り込んでいく。
 利用・使役なぞ論外。関われば確実に破滅させられる。
 冬木から脱出し、聖杯を彼女の手に委ねることも駄目だ。
 アレの手は長く執拗である。たとえ地の果てまで逃げようとも必ず最悪の災いが自らに降りかかる。
 臓硯は再び黙考の後、最後の手段に討って出る。
 すなわち、令呪による自壊である。

『六芒に、長く、長き牙を持つ者は数多在り。
 しかれども、〈天の女王〉と呼ばわるる者は在らず』

 一瞬で意識を桜の心臓に巣食う本体へと意識を移し
 左手の令呪へ魔力を込め、言霊を紡ごうとする。
 
 転じて、女性はぎりりと犬歯を剥き出して笑った。
 見る者を思わず総毛立たせる、獰猛で淫靡な笑みだ。


「屍体(したい)にたかる蛆虫、お似合いの場所で可愛がってあげる」

 右手に持つ金色の杯を傾け、その淵から紅い液体がスーっと滴り落ちていく。
 
 歪む視界。
 起ちこめる死臭。
 吹き上がる怨嗟。

 彼が殺めたもの、壁際に高く積まれていくもの――老若男女を問わぬ無数の人間の屍体
 ――その一部が、重く柔らかい音を立てて崩れた。
 血と屍臭の入り交じった匂いが、新たに立ち上る。
 女性の顔から、笑みが剥がれ落ちていた。
 後に残されたものは、禍々しい悪魔の本性だ。

 無論、彼は闇を生きてきた人外の男だ。
 怨嗟の声なぞ子守唄にすぎず、悪夢なぞ彼の無聊を慰める道楽にしか為りえない。
 
 崩れ落ちる屍体と、血と脳漿(のうしょう)と膿汁(のうじゅう)のシャワーを塗れながら
 さも愉快げにケタケタと幻術の中で哂う。
 臓硯は立て続けに発砲した。一、二、三、四、五、六発。強力に呪化された蟲弾が、
 瞬間、死者の雪崩に血しぶく穴を穿つ。
 発砲の音が、長い尾を引いて闇に溶けた。

「甘い、甘い」

 降り積もった屍体の山から突き出た一本の腕が、人差し指をチッチ、チ、と左右に振った。
 次いで、マザー・ハーロットは屍体を撥(は)ね散らしながら飛び出し、臓硯の目の前に降り立った。
 数発、被弾している。だが致命傷ではない。
 の大きく開いた胸元に大きく口を開いた銃創が、臓硯の目の前でみるみる治癒していく。
 血にそまった美貌が、悪鬼の笑みを浮かべた。

「我、見定めたり……」

 臓硯の手から、ごとりと腕が落ちた。
 彼の左胸が、尖った骨片に深々と貫かれている。屍体の山の中からマザー・ハーロットが放ったものだ。
 だが、口から血の塊を吐きながらなお、臓硯は不敵な笑みを浮かべた。

「呵々!やはり矮小な人間道に生まれた堕ちた貴殿の今の身体では、原初の力を持つに至らぬか!
 これはワシにも芽が出てきおった!その霊核、その身体を貪りワシの木偶にしてくれようぞ!!」

 臓硯は左手を開き、マザー・ハーロットにその甲を示すように顔の横に掲げた。
 続けて、あたかも中空の霊気を握り込むように力強く拳を固める。
 その拳が重々しい唸りを発し始めた。
 金縛りを振り解こうと、全身から淡く魔力の粉が紫電となって煌き、桜の令呪に光が点り始める。

 ――――だが
 突如として、内側から崩れ呑まれていく感触を感じて臓硯の身体が黒く蝕まれていく。
 
「馬鹿な――――マスターもろとも食い殺す気か!!」

 ありえないことだった。
 契約(テスタメント)を終えたマスターはサーヴァントと一対一の関係を結び、
 基本的にそれ以外の者との契約は基本的に受けつけない。
 霊長最強たる英霊を使役する以上、他の者に割く契約は得策ではないからだ。
 そして、上位存在である英霊である彼らに対し、マスター側を上位とした隷属関係を結ばせることを可能としている
 のは、令呪と召喚システムに非常に強固な防御機構を仕込んでいるためである。
 サーヴァント側からの反乱や、令呪の複製・改竄、及び
 レイラインを利用逆探し、マスター側への攻撃行為を防ぐために
 召喚時の無意識化の刷り込み、及び魔術量子暗号化された幾重のプロテクトが施されている。
 
 もしも令呪システムをサーヴァントが直接干渉したらば、獰猛な獣としての本性を現してその精神を食いつくす。
 神経接続を逆流して中枢神経を破壊し、マスター本人を死にいたらしめ、資格もろとも破棄される。
 実際、これまでにそうした事例はあった。
 それは事故であったりサーヴァントの調査活動であったりしたが、
 契約(テスタメント)後の緩衝体への接触を試みた者は、すべて死という結末を迎えている。
 生半可な代償では済まされない。

「馬鹿な」
 声に出して呟く。
 聞いたことがない。ありえるはずがない。
 この令呪システムの基本設計は、他ならぬ自身が行い
 魔術量子暗号化された幾重のプロテクトは、かのユスティーツアが手がけた物である。
 現代の魔術師はおろか、魔法使いやキャスターであろうとも、これを破ることは至難の業であろう。

 いや、伝説のうえではある。
 かのマザー・ハーロットにはそれが出来うるかもしれない。
 バビロンはすべての淫婦と憎むべきものの母。これは、あらゆる霊的姦淫と偶像礼拝の起源ということであり
 バビロンは神とその秩序に対抗し、
 反抗する世の制度に組み込まれた宗教のことを表しているという逸話が存在している。
 しかしそれは伝説的――というよりもはや神話的眉唾な話だ。
 さまざまな装飾が付け加えられて、実像と虚像の区別がつかなくなっている世界の物語だ。
 そんなあやふやな世界にまで遡らなければ見いだすことのできない不可能事なのだ。
 
「人型に堕とされたこの身なれど、この程度の呪縛なぞ私には効かないわ
 自動車同士がセックスするくらい見当違い。
 この私を契約で縛れるだなんて、可笑しなことをするわね」

 彼女は鷹揚(おうよう)に答礼し、こぼれるような笑顔を見せた。

「永遠が欲しいなら授けてしんぜましょうぞ
 虚飾の帳(とばり)に目を曇らされた蒙昧(もうまい)に過ぎぬ貴方様には
 永遠の楽園への道標を指し示しましょうぞ
 ――――それでは、御機嫌よう」

 黒銀色の巨大な骸骨(がいこつ)が、輝点をちりばめた漆黒の空間で哂う。
 虚空に不気味に浮かぶ肉視できない影は、
 虚空に不明瞭(ふめいりょう)に浮かぶ朧(おぼろ)なとなって
 小さな断末魔とともに呑まれて消えていった。




 沈黙があった。
 たいした長さではなかったはずだが、居心地の悪い静寂だった。

「……貴女は、何を望みますか?」

 沈黙ののちに桜の口から出てきた問いが、それだった。
 抽象的な問いだったが、彼女は迷うことなく答えた。

「戦いにあたって望むことなど、一つしかありはしませんわ。
 ――――愛でること、ただそれだけ」
 
 それに対して、桜は意見を述べることはしなかった。
 表情の変化はなく、その内心をうかがい知ることはできない。


 まさか、自分が、再び目覚めるとは思わなかった。

 目を開けた直後、彼女はそう呟いた。
 最後に目を閉じて眠りに入った時、
 今度こそ、
 安らかに昇天してやる、と思っていたのに。
 残念ながら、彼女はまだこの暗い場所で、闇に抱かれて眠っていたいだけらしい。

 目覚めた理由はわかっている。
 周りが再び動き出したからだ。
 彼女はぶつぶつと心の中で呟いて、身を起こした。

「まだ当分おとなしく眠れると思ったんだんだけど。
 気の毒に。今度はどこのお方が悪さを企んでいるのかしら?」

 彼女は、悶え苦しむであろう人々の顔を思い浮かべて、暗い笑みを浮かべる。
 さしあたって、そこに木偶となっている3人には少しばかりお使いを頼んでから
 家に帰してあげよう。
 少しばかりお駄賃も渡してあげよう。
 きっと、彼らの良き友となって助けになるだろうから。
 この街を支配するのは、人間離れした冷たい瞳を持った一人の魔女。
 その魔女が今動き出したようだ。
 何も知らずに、この街へと連れてこられる者の顔はまだわからない。
 だがその時がきたら忠告してやるべきだろう。

〝おまえがやってきたこの場所は、魔の巣窟だぞ〟とでも。

 それまではこの暗い場所で、息を潜めて待っていることにしよう。
 まだ見ぬ者へ。
 おまえが平穏を見出したいのならば、この街にだけはやってくるなよ。
 それがおまえの身のためだ。








 びたん。
 ……なんだろう。
 桜はそう思った。
 何かがおなかにあたった。
 なにか杭のようだった。
 あたると同時にその音がした。
 まだ痛みと疼きが残っていた。
 桜はゆっくり片手を上げ、
 人差し指で頬に触れた。
 それはまだ温かく、
 ぬるりとしていた。
 ……なんだろう。
 そう思った。
 ぴたん《、、、》。
 ……。
 ぴ。



 塔の頂上。祭壇は淫靡な匂いに満ち尽くされていた。
 香料の甘い匂い、体液の饐(す)えた匂い、汗、唾液、それらの混じりあったむせ返るような蒸気が桜の鼻孔を衝(つ)いた。
 気分が悪い。しかしそのものから目を逸らすことができなかった。
 それは男根だった。
 女性の体から器官を抜き差し、交ぜ、合わせた肉の塊だった。
 しかもそれは全体に粘液が塗布されていて、びくんびくんと脈打ち轟いている。
 桃色に濡れた唇が誘うように動き、中からちろちろと舌を覗かせていた。
 私の顔より大きな手先はその先端に持ち、私の体を撫(な)で回している。
 滑らかな曲線を描く乳房がふたつ、波のようにゆらゆらたわんでいた。
 グロテスクな器官のなかでそれだけが不釣り合いなほど清らかで美しかった。
 それは男根の抜き差しのたびぶるぶると柔らかく震えていた。
 唇が持ち上がった。
 その部分が蛇のように伸び鎌首(かまくび)をもたげた。私に狙いを定めてくる。それは三日月のような形で笑った。
「…:…」
 全身が総毛立った。
 男根が膨張した。動きはさらに速くなり、そしてそれは子宮の頭頂へと前進し、勢いでその中におさまりさらに膨れ続けた。
 徐々に霞んだ視界が開ける。
 頬ができる。鼻が隆起する。見開く双眸(そうぼう)が刻印される。額が広がる。人面だった。
 男性の貌(かお)ができようとしていた。
 ――――乾いた音が絶え間なく響く。
 腰を打ち付ける音、膣からこぼれた蜜が弾ける音、桜の口から漏れる吐息で、部屋の空気が染められていく。
 
 男が呻く。
 突き上げられる衝撃に、体が震動する。
 私の視線を捕らえた。私は顔を背けようとしたが視線が絡み付いてほどけなかった。
 その瞳は潤んでいた。白目の周囲には紅い毛細血管が走っている。瞼(まぶた)がさらに大きく開いた。
 真円状の両眼が私を見据えた。いまにも飛び出してきそうだった。
 びくん、と衝撃が堰を切る痛み。
 子宮を撃ち抜くように、びゅくびゅくと精液が排出される。
 熱くたぎった白濁を受け止める。
 男は満足げに、満ち足りた声で脱力していく。
「待っていた……」
 頭部がぐいと近づいてきた。
「待っていた、おまえを待っていた……」
 譫言(うわごと)のように男は繰り返した。哂(わら)っている。頬が紅潮している。舌を長く伸ばし唇を嘗(な)めた。
 どろりとした粘液の中から男はその男根を引き上げた。嬉しいのか十本の細い指をゆらゆらと動かす。
 男は喉を反らし大きな息を吐いた。両手でその喉に触れ、そしてゆるやかに胸から腰へとまさぐってゆく。
 
 そして桜も艶然(えんぜん)とした笑みを浮かべた。唇は熟して崩れた果実のような桃色を放っている。
 長い眉(まゆ)が悩ましげに歪む。眸(ひとみ)は濡れ、その目尻に大きな泪粒を浮かべている。
 愛する人に見せたことのない、男を欲する雌の色笑だった。
「私を……、あなたが待ってたの……?」
 男は猫のように喉を鳴らした。片手を男の胸板にかける。そしてついと前に押した。
 膣(ちつ)の中からズルリと男根が汚らしい湿った音を立てて抜け勢いよく反り跳ねた。
 飛沫(しぶき)が私の体にかかった。
「然り。汚らわしき黒の乙女よ。
 貴様の憎悪と憎しみを持って、今一度天上の神々の座に挑む」
「また……滅ばされたいの……?」
「滅びはせぬ。かつては世界の果てに昇ることで外へと至ろうとし、抑止に阻まれたが
 此度は違う。すでに完成された到達への式を手に入れた。私はそこを辿るだけだ」
 
 リズライヒ・ユスティーツァ・フォン・アインツベルン。
 この地における聖杯戦争を立案し
 マキリ臓硯と遠坂永人を従えた、冬の聖女と謳われた大魔道師。
 彼女が遺した外に至る試み。
 神秘学によれば、この世界の外側には次元論の頂点に在るという“力”がある。
 それが“根源の渦”と呼ばれ、あらゆる出来事の発端とされる座標。
 それは万物の始まりにして終焉、この世の全てを記録し、この世の全てを作れるという神の座だという。


「終焉は近い。だが魔女の釜にくべられる生贄が満つるまで、今しばらくは無聊を慰めるとしよう」
 

 再び膣(ちつ)に男根を入れ強烈な刺激を与えてきた。
 桜は体内で無数の触手で男のモノに絡み付き、激しく腰を動かした。
 穴は蠕動し、螺旋(らせん)を巻き、収縮し、利明を絞り上げる。
 男を両手で抱きかかえる格好でそのまま覆いかぶさってきた。肉のうねりが利明の全身を包んだ。
 濡れた音が祭壇に響き続けた。

 

 わたし。
 強い腕に抱かれて。
 心臓が、ドキドキしてる。破裂しそう。
 ドクン、ドクン。
 彼女の口づけたうなじから、熱い血が、鼓動にあわせて。
 ドクン、ドクン。
 手足がすうっと冷たくなって。胸がよけいに熱くて。
 わたしの手をとった彼女、すこし迷ってから、小指を口にふくんで、かじりとる。
 薬指、中指、人差し指、親指。手首から、ひじの上まで。
 なくなった腕が熱くて。指の先まで熱くて。
 このままのこらず食べられたら、わたし、どうかなってしまいそう。
 なんだか怖くなって、彼女の眼を見る。
 紅い瞳……泣いてるの?
 わたしはいいのよ。もっと食べて。もっと、もっと、わたしを食べて。
 首筋、乳房、太もも、そして……
 固いものが、体の中につきこまれる。
 灼けるほどに冷たい、ナイフの刃。
 すごい力で切り裂いていく。息もできないほど。
 気がとおくなりそうで。どこかに消えてしまいそうで。
 もっと、切って。
 バラバラにして、のこさず食べて。
 わたしはおいしい?
 わたしは、おいしい?



 
 ◇◇◇



 少女は白い包帯を巻いていた。
 頭に真っ白い包帯が幾重にも巻かれている。
 こめかみから青いあざが少し顔を出していた。締め付けているため、ショートの髪の量が少なく見える。
 包帯の三枝由紀香が目の前に座っている。
 両手を膝(ひざ)の上に置き、真っすぐ前を見、微動だにしない。布の冷たい白が痛々しかった。
 制服の袖(そで)から手の甲にかけても包帯がわずかにのぞいている。
 手がもう少しがっしりしていたら、グローブをつける前のボクサーのようだ。
 実際ボクシングをやったのかもしれない。といってもルール無用の一方的なリンチであるが。
 社会科準備室の片隅でテーブルを挟み、私と三枝由紀香と教員二人が対峙している。
 空気は静かな緊張をはらんでいた。取り調べは担任と生活指導で当たることになっている。
 生活指導係が準備室に自分たちを呼んだ。辺りは既に薄暗い。やかんが音を立てている。
 少女の後ろにある窓は暖気で白く曇っていた。
 
「どうしてケガをしたの」
「転びました、自転車で」
「雪道を自転車?」
「はい」
 見え透いた嘘だ。雪の冬道で自転車に乗るなど自殺行為だ。
 彼女は教員たちが昨日の事件を察していると知っている。
 恐れているわけではないようだ。全てを切り離した態度に見える。
 包帯が雪のように白く冷たい。
 奥二重のたれ目が人を凍らせる。包帯の下の両手は、ぼろきれのようになっているのかもしれない。
 沈黙が続いている。教員は質問の方向を変えた。作戦だったのか、間を持たせただけなのかは、わからない。
「あの方は……元気ですか?」
 少女は息を止めた。唇が微(かす)かに動く。静かに細く吐き出す。表情は変わらない。
 心なし体を硬くして、
「……はい」
「そうですか。……ではご報告させていただきます。
 昨日、冬木市界隈の全学校生徒、教員、及びその関係者への連絡網は全て滞りなく完了しました
 ――藤村組のツテを辿り、系列の組合、そして警察での特別集会の日程も本日終了したとのことです」
「はい」
 鋭く答えた。話を打ち切ろうとしたようだ。
 言葉を失った。単なるつなぎの質問だったらしい。
 それにしては奇妙な反応だった。由紀香が少しでも感情を露(あらわ)にしたのはあの人の話になった時だけだ。
 この時の由紀香の様子は一成の脳裏に深く刻まれた。
「なお、この街を二分する巨大敵対勢力。キャスターはやはり柳洞寺を拠点に大規模なプロパガンダを
 行っています。しかし、その動向はまるで影を掴むことができずにいます」
「そうですか……柳洞さんはその後如何ですか?」
 三枝さんが昏い眼差しで私に問いかける。
「申し訳ない。今だ変わったところはありません。
 あの人も足しげく動向を調査されているそうですが、なにもわからないそうです」
 これほどの大きく勢力を広げながら、何一つ情報を掴めない。
 本当にそんな存在がいるのか?そう誰もが思わずにいられない。
 それほどになにも異常を見つけることができないのだ。
 唯一あの人だけが、その存在を感知できるらしく、冬木市民のおよそ30%の人たちが既に傀儡となっているのだそうだ。
 
 帰路についたのは六時半過ぎのことだった。
 沈み込むような疲労感があった。すなわち事実不明。私は横の女の子をぼんやりと眺める。
「明日また仕切り直しましょう」
 彼女は目と目の間をもみほぐしている。
「もう一度、柳洞寺を調べるんですか?」
「無駄ですね。我々にはなにもわからない。」
「そう……ですね。明日ね。今日はもう……疲れました」
 おかしなものだと一成は思う。恋人ではないのに、二人だけで毎日帰路につく。
 意識してのことではない。習慣だ。男女として見れないほど疲れているということでもある。
 私は帰り道を思った。毎日通っているというのに、歩くことさえおっくうだ。
 彼女はあらぬ方を見ながらぽつりと、
「あの人」
 しばらく黙り込む。女の化粧気のない顔を見つめる。潤んだ健康な唇だ。
「何なんでしょうかね、三枝さん……」
 空に視線をさ迷わせながら、「私、時々怖くなるんです。あの人が」
「怖い、ですか。恐れていては何もできないですよ」
 口先だけだ。彼もあの人に恐怖を感じた。
 いつから私たちは、こんな関係を持っているのだろう。
 気が付けばあの人はいた。
 そして誰もがあの人を知っている。
 でもその素性は誰も知らない。
 年齢・性別・経歴
 全てが謎に包まれている。

 しかしあの人は我々に対しては、
「相互理解が重要なんです。理解しなければわかりあうことはできません」
 机上の空論だ。人間を理解することなどできるのか、それにあの人は常に疑っている。
 
「子供の言葉をそのまま認めることが真の理解になるとは限りません。
 かといって疑ってばかりでも駄目なのです。人間を理解するためには一旦こちらの価値観を捨ててかからねばならない。
 恐れていてはいけないのです。指導者は、教え導くべき存在です。まだ十六、七、八の子供なんですよ、君たちは」
「あの人の言葉ですね」
 少女は別の空気を纏(まと)っている。近寄ると弾かれるような気がする。
「あの人は友達はいるんですか?」
「いつも独りです。親しい人はいないみたい」
「え」
「何でもありません。仲が悪いわけではないんですよ。むしろ……」
 ためらいがちに、
「必要以上にいいっていうか」
「――どういう意味ですか」
 三枝さんの声は聞き取れないほど小さくなっていく。
「あの人が人間を愛しているのは間違いないと思うんです。
 でもね……人に向ける愛情とは違うような気がして……いえ、勘ですよ」
「考え過ぎでしょう三枝さん。テレビドラマではあるまいし」
 ポルノ映画でもあるまいし。
「そうですよね……一成くんのいう通りだと思うんですよ。だけどね……家にもあまりいたがらないんです。
 いつもどこかに消えてしまうんです。帰りはいつも遅いし……」
「道草を食ってるのか。しかしどこで? 遊び回っているというタイプじゃないし」
「本人に聞いてみました。「美術館」とだけ答えました」
「この近くで美術館といえるのは、■■版画館くらいだな。つまらん場所ですけどね」
 私は学校に届いた版画館の広告を思い出した。
 ■■版画館で陶芸教室があるのだ。参加してみようか、と唐突に思った。気分転換になるかもしれない。
 美術に深い関心はないが、陶芸には遊びの要素が多い気がする。
「私も■■版画館だと思います。一度行ったけど、それで十分みたいな汚いところ。二度行こうとは思いません。
 あの人は毎日のように行っているというんです。どうしてだろ?。よほど家に帰るのが嫌なんでしょうか」
「絵を見るのが好きなだけですよ」
「そうですよね」
 三枝さんは妙に明るく答えた。
「考え過ぎですよね、私」
 自分の言葉を信じていない口ぶりに聞こえた。
 彼女はまた空想に囚(とら)われる。憑かれやすく、思い込みが激しいことはわかっているが抑えられない。
 
 ふと私も白日夢の中に沈んだ。時間さえも無くした。
 天地なく白い空間だけが残る。十人の王と七つの丘の歪んだ姿しか見えなかった。どれくらいそうしていただろう……
 彼を現実の空間に引き戻したのは、「≪突き刺さるようなもの」だった。体に何か食い込んだような気分。
 ……視線? 鋭い視線を感じる。
 刺さるような鋭い眼差(まなざ)しはあの人から発している。
 あの人、あの人の目。
 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、汚らわしい理解不可能な別の生き物を見る、
 蔑(さげす)むような光をたたえたあの人のその目。
 首筋の獣の数字の刻印がジクジクと血を滲みだした。