第3話 汚れた嫌悪すべき獣の巣窟


 赤い陽射しが、螺旋の塔を照らしあげる。
 夜明けを間近に控えたオレンジ色の世界の中、ニムロデは生贄の祭壇へと足を踏み入れた。
 だが、これを祭壇と呼ぶには少し憚れる。
 中央部の一際大きい十字架と生贄を寝かす寝台を残し、辺りは瓦礫となって崩れているからだ。

「小羊(イエス)によって封印が解かれる時、神の玉座の周囲に座する四つの生き物、
 ケルビム(智天使)が、四人の天使を地上に派遣するだろう。」

 十字架には心の臓を槍で貫かれた男が両手を釘で刺され眠るように貼り付けられている。
 その眼前に蹲(うずくま)るニムロデは、苦悶の表情を浮かべていた。
 目はぎゅっときつく閉じられ、鼻は上を向いていた。
 紫色に染まった顔が、醜く歪んで皺だらけなのは、顎が外れそうなほどに目一杯、男が大きく口を開けているからだ。
 舌の裏側を覗かせた、その大きな口は、しかし断末魔の叫びをあげようとはしなかった。

「赤い馬に乗った天使は剣を持っており、地上から平和を奪い、人間たちに殺し合いをさせる権限を与えられる。
 黒い馬に乗った天使は秤を持っており、
 ケルビムに「小麦は一コイニクスで一デナリオン、大麦は三コイニクスで一デナリオン」と命じられる。
 一デナリオンは当時の労働者の一日分の収入であり、
 それでわずか一コイニクス(一・一リットル)の小麦しか買えないほど物価を高騰させよという意である。」

 闇の中に、その荒い呼吸音だけが響いていた。
 時間が迫っている……本能がそれを告げていた。それまでにもう一つ、済ませなければならない仕事があった。
(今回ばかりは、失敗するわけにはいかない。
 何しろ、こうして奇跡的な、それこそ千載一遇のチャンスを与えられたのだからな。
 これだけの好条件を与えられたからには、もう失敗は許されない。)
 ……それにしても危なかった。
 涜神の王――ニムロデは、悪魔的な笑みを浮かべた。

「青白い馬に乗った天使の名は「死」と言い、剣と飢饉と疫病と野獣によって人間たちを殺す権限を与えられる。」

 先の闘いは死闘を極めた。
 だが初戦としては、まずまずの結果である。
 
 神の血を持つ英霊の魂の捕獲。
 イレギュラーの排除。

 位階を別にする神は、その存在そのものが高次元体であり、物質界であるこの現世に留まることはできない。
 この物質界に現界させるのには、同じ物質界の触媒と現世と同じ位階を得なければならないのだ。
 なればこそ、既にこの世界から離れ、今はもうこの世界に存在しない半神の魂は希少である。
 これこそが、天上の神の座へと至る鍵の一つである。

「地上には地震が起こる。
 月が血のように赤くなり、天から星が落ちて、人々は恐怖するだろう。
 だが、それらはさらなる(破壊)カタストロフのほんの序章にすぎない。
 小羊が七番目の封印を解くと、いよいよ本格的な破壊が開始される。」

 だが、得たモノと引き換えに失った損失もけして少なくはない。
 この世界と自分を繋ぐ楔(くさび)と塔の半壊。
 そして、この男に負わされた癒えぬことのない数多の傷はかなり堪えている。

「第一の天使がラッパを吹き鳴らせば、血の混じった雹と火が降り注ぎ、地上の樹々の三分の一が焼け、すべての青草が焼ける。
 第二の天使がラッパを吹き鳴らせば、大きな燃えている山のようなものが海に落ち、
 海の生物の三分の一が死に、船という船の三分の一が破壊される。」

 外壁こそ、保ててはいるものの内部の損壊もかなり手酷い。
 内壁は崩れ、通路は埋まり、自分をこの世界に呼び出した男は
 この祭壇の寝台の上で瓦礫に潰され死んでいた。
 これらの損害は、地脈からの吸い上げを最大にしたとしても、修復・保持は容易ではないだろう。
 
「第三の天使がラッパを吹くと、燃え盛る大きな星が
 川という川の三分の一の水源に落ち、水が苦くなって大勢の人が死ぬ。
 第四の天使がラッパを吹くと、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損われ、地上は暗くなる。」

 だが、それも誤差の範囲内だ。
 計画は今も滞りなく順調に進捗している。
 不完全ながらも、塔の半壊によって生じる退廃の力がまもなく街を覆い尽くし
 終末の烽火を灯していくことだろう。

「第五の天使がラッパを吹くと、底なしの穴から蝗(いなご)の怪物が無数に出現し、
 尾にある針で人間たちを刺して、激痛で五か月もの間、苦しめる。
 第六の天使がラッパを吹くと、ユーフラテス川のほとりにつながれていた四人の天使が、人間の三分の一を殺すために解放される。
 天使が率いる二億の騎兵は、獅子の頭を持つ馬にまたがっており、
 その口から吐く炎と煙と硫黄によって人間たちを虐殺する。」

 ソラが近い。
 この街で一番の高層建築。その屋上は今夜も、一際強い光に照らされている。

「生き残った人間たちも、天使の残虐な殺戮からは逃れられない。
 鋭い鎌を持った天使が、その鎌を地上に投げ入れ、葡萄を刈り取るように人間たちを切り裂く。
 その死体は大きな搾り、桶に入れられ、踏みしだかれる。
 桶からあふれ出た血は馬のくつわに届く高さになり、一六〇〇スタディオン(約三〇〇キロ)にわたって広がる。」

 街を一望する事はない。
 視線は常に上を向いている。

「七人の天使が金の鉢(はち)を傾け、その中身を地上に注ぐと、さらに大規模な災厄が襲う。
 人々の皮膚に悪性の腫れ物ができ、海や川の生物は死滅する。
 太陽の炎が人々を焼く。かつて起きたこともない規模の大地震が都市を襲う。
 すべての島は沈没し、山々は消え失せ、一タラントン(三四キロ)もある雹(ひょう)が地上に降り注ぐ。」

 陽が近い。
 欠けた太陽が、どことなく杯のように見える。
 
「国王から奴隷にいたるまで、あらゆる階級の人間が殺される。
『わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。
 この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。』」
 
 ふと、ここからなら手が届くのでは、と馬鹿げた妄想を抱いた。
 気が遠くなるほど長いハシゴでもない限り辿り着けまい。

「『―――混乱せし全地の言之葉(エテメナンキ=バラル)』
 さあ、神の大宴会に集まれ。
 王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。
 また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ」……』」



 
 虚空(ソラ)は此処に。
 高い塔をもってしても、まだ、始まりには届かない。








 カーテンの隙間から、キラキラとした光がこぼれていた。すっかり夜が明けている。時計に目をやると、六時をまわっていた。
(朝練に行かなきゃ)
 上体を起こし、両脚をベッドから床に落として、いざ立ち上がろうとしたその時、
 ふっと気力が萎えるのを感じて、間桐桜はふたたびベッドの端にペタンと尻を落とした。
 身体が重い。そして鈍痛……。
 手を下腹部に充て、溜息を吐く。

 月曜日の朝であった。今日からまた、憂鬱な一週間が始まる。
 間桐という閉ざされた檻の中で、飽きもせず毎日のように繰り返される日常。
 敷地内のどこへ行こうとも、見合わせるのはいつも同じ顔ばかり。
 
 そうした狭い人間関係において、しかも桜には、
 なるべくなら顔を合わせないで一日を済ませたいと思うような相手が、二人もいた。
 ……その険のある顔を見ると、こちらまで気分を毒されてしまいそうだ。
 
 衛宮士郎。
 入学してから約五ヵ月間、二人で仲良く過ごしていた時の追憶が、桜の視界を滲(にじ)ませる。
 今では彼女自身も認めていた。認めざるを得なかった。自分がいかに、士郎という青年を愛していたかということを。
 そして今でも変わらず、自分が士郎を愛しているのだということを。

 遠くから見て憧れていただけの、当時の衛宮士郎に対する憧憬の情とは違って、
 今は生身の存在として、いつでも桜の隣にいた。

 桜の心にあるそれは確かに、士郎への愛であった。
 だからこそ――士郎を愛しているからこそ、その士郎が他の人の顔を見て、フイと目を逸らすのを見るのがイヤだった。
 自分以外の少女と話しているのを見るのがイヤだった。
 好きだから――たまらなく好きだからこそ、桜は士郎が他の人と顔を合わせるのがイヤだった。

 窓の外からは、鳥の囀(さえず)り交わす声が聞こえている。
 建物の中でも誰かが動いている音がしている。水を使っている音。ペタペタと階段や廊下を歩くスリッパの音。
 まだ早朝だというのに、部屋の中はもう暑いくらいで、うっすらとかいた汗でTシャツが肌に粘りついている。
 もうじき――と桜は思う。あと一週間。もうあと今週だけ我慢すれば、とりあえずこの檻からは解放される。
 冬休みが終わる。そうしたら――三学期になったら、学校が始まるのだ。
 学校に戻って、先輩と友人とともに昔みたいに過ごすのだ。中学の時の友達とも会おう。教会にも行こう。
 あるいは街に出て、大勢の見知らぬ人たちが行き交うのを、ボンヤリと眺めているだけでも良い。
 とにかくこの檻から出られるのだ。あと一週間……。

(……あっ!)
 下腹部に差し込むような痛みを感じて、桜はベッドの上で身を折り曲げた。
 息が詰まりそうであった。月に一度、必ず自分が女性であるということを認識させられる痛み。
 その痛みが、今回はいつもより以上に激しく、桜には感じられていた。
 こういうのを重いと言うのだろうか、その痛みに耐えなければならない期間にしても、今回はいつもよりも長びいている。

 精神的な不安定さが、肉体的な面での不調をもたらしているのだろうか。
 ……桜はそう自己分析をして、またひとつ大きな溜息を吐いた。
 思念が宙に浮き、そして気が付けば、そんなことをボンヤリと考えている自分に気づく。
 いま現在、ベッドに横たわり、下腹部の痛みに耐えながら、桜はやはり同じようなことを考えていた。
(女の子って、どうしてこうなるんだろう……)
(それはいつか妊娠するために、身体が準備しているから)
(妊娠するって、どういうことなのかしら?)
(妊娠……)
(……先輩)
(今日は朝練は休もう)
 桜はそう決めた。そう決めたらほんの少し、痛みが和らいだような気がした。

     

 カランカランと鳴るチャイムの音に、桜はハッと顔を上げた。
 クラスメイトの少女たちの整然と並んだ後ろ姿が目に入る。
 自分と同じように垂れていた頭を上げ、背筋を伸ばしたり、首を振って髪を背中にはね上げたりしている。
 ペンケースがカタカタと音をたてる。それまで沈んでいた空気が、いっせいに動き出す。
 教卓の女教師はそうした生徒たちを見渡して、姿勢を正し、それでは、と言った。
 後に何かゴニョゴニョと続けたようだったが、それは桜のところまでは聞こえて来なかった。
「起立」
 タイミング良く発せられた号令とともに、ガタガタと音を立てて、少女たちは立ち上がる。
 桜も立ち上がった。前のほうでクスクスと誰かの笑う声がして、それを別な誰かがシッ、と止めた。
「礼」
 面を伏せ、そして上げる。教室の中はその一瞬だけ、静かになる。そして次の瞬間には、ワッと弾けた。
 四限目の終わりであった。授業は先週から半日になっており、今日はこれでお終いである。
 教壇を下りて出て行く女教師を見送りもせず、少女たちはそこかしこに輪を作っては、はやお喋りを始めていた。
「ねえねえ、どうだった?」
「アタシもうサイテー」
「えーっ、うっそぉ」
 中には、受け取ったばかりの答案を見せ合い、お互いの身体を肘で突き合ったりしているグループもある。
 そうした顔のどれもが、解放感に満ち溢れていた。こぼれる白い歯が眩しい。
 桜はそうした輪からは外れて、ひとり静かに帰り支度をしていた。
 机の上の答案を手早く折り畳むと、教科書とノートで挟み、鞄の中へと放り込む。
 そこでフウと思わず洩れたのは、溜息だったろうか。何とはなしに、視線を窓の外へと向ける。
 外は雲一つ無い快晴で、南中した太陽から溢れる陽光がグラウンドへと、容赦なく注がれていた。
 その光景が、今の桜には別世界のもののように見える。

(ひどい点とっちゃった……)
 ボンヤリとそんなことを考える。今の教科だけではない。
 今日の各授業で、返された答案の点数は軒並み、クラスの平均点を下回っていた。
 試験の終わった先週の時点である程度の覚悟をしていたとはいえ、それは桜にとってはやはり、かなりのショックであった。

「ちょっと桜」
 その時、不意にそう声を掛けられた。振り向くと、話し掛けて来たのは、美綴綾子であった。
「あんた大丈夫? ボーッとしちゃって。少し変だよ」
「うん……。何だか、ボンヤリしちゃいまして」
「熱あるんじゃない?」
 心配そうな目つきで桜の顔を覗き込んで来る。その心遣いに、桜は顔を緩ませた。
「ううん、大丈夫」
 心配だ、とその目が語り、
「じゃあ、あたし、お先に」
 綾子はそう言い置いて、待たせていた別の少女と一緒に教室を出て行った。
 他のクラスメイトたちも三々五々、教室を出て行く。
 清掃当番が机を片付け始め、ガタガタというその音に追われるようにして、桜も慌てて教室を後にした。
 
 そして、階段を下り玄関の前に差し掛かったそのとき、不吉な笑みを浮かべる慎二がそこにいた。

 



 慎二は薬品棚から、今度は別な大口の瓶を取り出すと、蓋を開け、中の透明な液体をスポイトで吸い上げて、試験管へと注いだ。
「あの……それは……?」
 桜の問いに、慎二はさも愉快そうに、試験管を振って見せた。
「これかい? これはただの蒸留水だ。……こいつを薄めるために使う」
 そうして、先ほどの小さな薬瓶の蓋を開ける。
「これがいま僕が開発中の、自慢の薬だ。
 ……まあ一種の、媚薬のようなものなんだがな。強烈な作用があって、依存性が高い。
 ……おっと、そんなに嫌がることはないだろう」

 慎二は自分の行っている作業を、桜へと見せつけるようにした。
 透明な液の中に、褐色の雫(しずく)がポタリ、ポタリと垂れ落ちて、モワモワと拡散してゆくさまが見て取れる。
 その薬の匂いなのだろうか――甘酸っぱいような、そして何だか懐かしいような、不思議な匂いが、微かに感じられた。

「そうそう。これもあの淫蟲の出来損ないのやつから抽出したものでね。
 というのも、あれの宿主だった医者の女なんだが、オレが掻爬(そうは)してる時に
 ――つまりアレが何も知らずに、あの淫蟲から女の身体へと伸びていた神経をブチブチと引きちぎっていた時にさ
 ――あの女、何度も何度も続けざまにイキやがった。
 ……フン、思い出しても反吐が出そうだ。
 で、それを抽出して精製して、こんなふうに薬にして、そして実際に何人か、女を使って試してみたところ、
 培養したその液をほんの一滴、経膣投与しただけで、みんなイッちまうんだ。
 面白いくらいに。……でも、いかんせん、依存性が高くてね。
 たぶんβ-エンドルフィンか何か、脳内麻薬の強烈な誘導体が入ってるんだと思うんだが。
 結局その女たちはいま、淫蕩症と診断されて、精神科に入ってもらってる」

 慎二はそう言いながら、鞄を開け、中から細長い、金属製のチューブのようなものを取り出した。
 片端に注射器のピストンのようなものが付いている。

「で? ……そうそう、要はおまえだ。
 最近、やけに衛宮の家に入り浸っているみたいじゃないか。
 家の雑事を僕に押し付けていい身分になったもんだな?ええっ!?
 ……まあこれでも情けはあるほうでね。いちおうは黙認しといてやろうと思ってるんだが……。
 おい、もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ。
 まあ、いいや。それにあたって、だな。おまえにもこれで、あの女たちと同様に、良い気持ちになってもらおうと思ってね。
 ま、最近ご無沙汰だったことだからね」

 チューブの先端を試験管に入れ、ピストンを引いて、中の薄黄色の液体を吸い上げる。

「……そうだ。どうせなら、これを機に後継者を育ててもらおうか。
 おまえの気持ちが良くなったところで、僕の精を植え付けてやるから。
 ……そうだよ。間桐の後継者を、おまえに産んでもらう。こいつは名案だ。そうじゃないか、え? 
 ハハハ、そうか。どうせなら、あの出来損ないのほうがいいか? 
 なんなら、僕が女を紹介してヤリまくらせるか? ……おまえみたいな糞女(ビッチ)にさ!?」

 慎二はそこで背を反らし天井を向いて爆笑した。
 桜はギリギリと唇を噛んだ。
 さっきからこっそりと、背中で結ばれた両手の縛めを解こうとしているのだが、それがうまくいかない。

「さてと。じゃあ――」
「待ってください兄さん!……何でも言うことを聞くから。お願い――キャア!」

 慎二は、ただでさえ縛られて自由の利かない桜の身体にのしかかり、
 手足の動きを封じた後、片手だけで器用に、スカートの留め金とジッパーを外した。
 そして足首の縛めのところまで、一気に引きずり下ろす。

「やれやれ、面倒なものを穿いてるな、このクソ暑いのに……」
「やめてっ!」

 慎二の手がタイツへと掛かり――そして下着もろとも、一気にこれも足首まで引きずり下ろされる。
 下半身の肌が露出している。

「へえ。今日は下着まで黒なんだ」

 慎二はさらに、桜の上体を仰向けにさせると、縛られた両脚をグイと持ち上げて、膝が肩にくっつくまで、
 彼女の身体を思いっきり折り曲げた。そうして桜に、実に屈辱的なポーズを取らせた。
 やめてっ――桜は声の限りに叫んだ。
 両脚の力で相手の身体をはね退けようとする。しかしガッチリと抱え込まれていて、どうにもしようが無かった。

「あっ!」
 金属の冷たい感触が、身体の中にズブズブと潜り込んで来た。
 あまりの羞恥に潤ってしまっていたらしく、抵抗もあまり無いままに、奥まで一気に達する。そして――。
 身体の最奥部で、何かがはじけた。
 衝撃が全身を走り、筋肉がもの凄い勢いで収縮した。彼女は慎二を上に乗せたまま、ビクンと跳ね上がった。
 目の前が真っ白になる。延髄が痺れていた。大波は続けざまに寄せて来た。
 ――溢れる。
 ――毀(こわ)れちゃう。こんなの……。
 ――ダメ……。
 そして……桜は意識を失った。




 プルルルル……という電子音で、桜は意識を取り戻した。
 チッ、と舌打ちをして、慎二が身体の上から離れるのを感じた。しかし身体の自由は相変わらず利かない。全身が麻痺していた。
 カチャ、と受話器を外す音。

「僕だ。いまちょっと手が離せない。
 ……何だって? どうしてこんな時間に……。チッ、分かった。本人に替わってくれ。
 ……ああ、僕だ。どうした、こんな時間に。……いまは駄目だ。ちょっと取り込んでる」

 そこでチロリと、慎二の視線が自分のほうへと向けられたのを感じた。

「……本当にすぐ済むんだな? 分かったよ。じゃあすぐ行く」
 ガシャッ、と乱暴に受話器が置かれる。そして慎二は部屋を出て行った。
 ――今のうちに……。
 桜は意識を集中させるべく努めた。抜け出すなら今がチャンスだ。
 そう頭では分かっているのに、しかし身体がなかなか言うことを聞こうとしない。
 先ほど体内を駆け巡った官能の嵐が、いまだに小波となって、気怠く全身を覆っていた。
 
 ――あんなに……。
 あれほどの絶頂は、桜にとって初めてだった。
 脳のはるか奥のほう――盆の窪の奥のほうが、いまだにジーンと痺れている。
 ……これが本当の絶頂だとしたら、自分は今までいったい、何を悦びと感じて来たのだろうか。
 あの今までにない究極の悦びが、単なる薬物的な反応によってもたらされたということに、
 桜は今、大きなショックを受けていた。
 ……丁寧な愛撫の重なりによって、などではなく、ましてや心理的な情愛の念などとは全く無関係に、
 単なる薬物への反応という形で、いまだかつて味わったこともなかった、あの究極とも言える悦びが、もたらされたのだから。

 自分の信奉していた世界観が、ガラガラと音を立てて崩れて行くのを、桜は感じていた。
 ……喜びも悲しみも、そうしてみれば単なる、身体の中における化学反応にしか過ぎないのではないだろうか。
 両親を失った時のあの喪失感も、蟲に犯されたときの空虚な悦びも
 ――いや、生に対する執着、死に対する畏れすらも、あの圧倒的な絶頂感の前では、もはや無に等しかった。
 あの絶頂を味わってしまった人間にとって、それに取って代わる行動原理などといったものが、はたしてあるだろうか。

 ――ずっとこうしていたい。そうすれば、また兄さんからアレを貰える。
 ――いや。それこそ兄さんの思う壺ではないか。
 ――それでもいいじゃない。

 ボンヤリとした頭で、そう考えていた時である――。
 パン、パン、という破裂音が耳に響いた。そして誰かの叫び声。
 ――あれは?
 それまでフワフワと浮いていた自分の意識が、スウーッと身体に入り込むような、そんな不思議な感覚があった。
 聴覚がよみがえる。しん、と静まりかえった部屋の中、ゴウゴウと、外の嵐の音がかすかに聞こえて来た。
 パタパタと廊下を誰かが近付いて来る。そして――。
 バタンとドアが開き、入って来たのは慎二であった。
 顔は蒼白で、目は虚ろに剥かれていた。そして制服にはベッタリと赤い色が散っていた。

「あぐ……こ、この……」
 身を翻して、部屋のドアを閉めようとする。
 チィー……と微かな音がしていて、見ると赤い液体がその身体から細く噴出していて、銀色のドアに弾けていた。
 慎二がドアを鎖ざすよりも早く、それは外から勢い良く開けられた。
 反動で慎二がゴロゴロと、床を桜のほうへと転がって来る。
 そして戸口に立っていたのは――三日月のように口角を上げて哂う女性が立っていた。



  戸口には慎二が立っていた。
「へえ、ようやく顔を見せたか。桜、待ってたよ」
 その顔がニタリと嫌らしく崩れる。どうやら笑顔を見せたつもりらしい。
「またこれはそそる恰好をしているね。……前の僕が何をしてたか、ちょっと興味を惹かれるな」
 そう言って、ずいと部屋の中へと踏み込んで来る。
 前の慎二は自分の足のあたりに倒れたままの、私の様子を窺った。
 彼はぐったりとしたまま、ピクリとも動かない。その身体を中心として、血溜まりが刻一刻と広がっている。
 
 慎二の顔には残忍な表情が浮かんでおり、奥の目は大きく――彼にしては――見開かれていた。
 口元が終始動いており、どうやら何事かをブツブツと呟き続けているようだ。
「……さくら。……さくら」
 その様子は、まるで正気とは思えない。
 


 グルン

 グルングルン

 グルングルングルン
     


 風の咆哮が夜を切り裂く。ザザザッと建物に降り注ぐ雨の音。
 その戸外の掠しげな音が嘘に思えるほど、生徒会室の中は異様な熱気に包まれていた。
(だれ?……わたし……あの人を……知って……る?)
 桜はあまりの美のおぞましさに目を閉じ、顔を背けた。
 縄の拘束によって、身体の自由は奪われている。
「……」
 誰かが桜の上着を脇の下までグイとたくし上げた。
 別な誰かがスカートと、そして下着も一緒に、一気に足首のところまで引きずり下ろした。
 熱い夜気が、肌を直に撫でてゆく。この豪奢な宝飾で裸身を着飾る女性の見世物にされていた。






 ◇◇◇





 私は冬を待っていた。
 冬が好きなわけではない。雪が見たかったのだ。
 雪を見たことがないわけでもない。豪雪を知らなかったのだ。
 
 雪が降っている。夜のとばりの中、静かに舞い降りていく。
 一メートルは積もるだろう。県内では少ないほうだという。
 夜はもっと降るのだ。また雪を下ろさなければならないのか。
 先週の日曜日、初めて雪下ろしを体験した。屋根に積もった雪を落とすのだ。
 腰くらいまで積もっていた。

 柱時計は午前二時を指し示す。
 七時には起きなければならない。
 起きる瞬間が地獄なのだ。後五分もう三分、布団の中にいてしまう。
 
 私が学校を休むようになったのには、はっきりした切っ掛けがあった。
 九月半ば、不良グループに囲まれ、性的暴行を受けたのだ。五人のうち二人は角材を持っていた。
「むかつく」という理由からだった。何故むかついたのかはわからない。

 彼らにとって原因は重要ではない。むかつくこと、それが全てだった。
 腕とあばら骨を折られた。もともと日陰女と馬鹿にされ、目をつけられてもいた。
「本人の希望により」世間では交通事故に遭ったということになっている。校長の意志が働いたという噂もあった。
 以来、体調不良を理由に学校を休むようになった。週に一、二回は休んでいるのではないだろうか。
 
 近所に住んでいる。先輩は両親が不在で独り暮らしだ。
 無論、この事は彼は知らない。
 昨日のこともある。朝、迎えに行って一緒に通学しようか。
 そうしよう――と、決めた時気づいた。
 不安なのは、怖いのは、自分なのだと。先輩の存在を必要としている、自分自身なのだと。
 
 何もかもが憎らしい。
 この島もこの町も学校も職員も生徒も綾子も兄も祖父も先生も三枝もクラスメイトも、
 そして自分、間桐桜も。
 昨日の職員会議では盗難事件が報告されていた。
 理科準備室から毒薬が盗まれたのだ。誰が盗んだのだろう。そして何の目的で? 
 ひょっとしたら自分と同じタイプの人間が盗ったのかもしれない。
 彼(彼女?)は決まった目的があって毒を盗んだのではなかった。無作為に毒物を撒き散らしたかったのだ……。

 結果は無意味な大量殺人。
 青酸カリや亜砒酸(あひさん)が目の前にあれば、今の自分ならやってしまうかもしれない。少なくとも誘惑は感じるだろう。
 疲れているのに、神経が高ぶっているせいか眠くならない。
 電灯を点ける。ベットに放り投げてあった文庫本を手に取った。
 眠る前に少しずつ読んでいる。クライブ・バーカー『ダムネイション・ゲーム』。
 寝室の壁には本が雑然と積み重ねてある。
 本棚はない。ほとんどがホラーとミステリーだ。SFも少しある。
 子供の頃から好きだった。昔は夢やロマンを求めて読んだものだ。
 今は「逃げ」を求めて本を読む。
 疲れていて内容は半分も頭に入らない。
 しかし活字を追うこと自体が現実世界からの逃げだった。
 M・R・ジェイムズとウエィクフィールドとエイクマンを続けて読んだ時期にはさすがに悪夢にうなされた。
 それでも止めなかった。逃げたかったのだ。少しでも不安をごまかしたかった。

 今夜はいつも以上に手にした本に集中できない。
 さらって来た少女を薄くスライスして食べている場面で嫌気がさした。
 本を投げ出す。ベットに体を預けて、黒ずんだ天井をぼんやり眺めた。

 布団が冷気でじっとりと湿っている。布団乾燥機でも買って来なければなるまい。
 桜は電灯の紐に手を伸ばしかけて、止める。
 突然目の前にバベルの塔が浮かんだ。幻覚だがありありと見えた。
 網膜に張り付いてしまったのだろうか。黄土色の巻き貝のような形をしていた。

 私の描いた絵だ。塔は分断され、少女は涙を流していた。意味はよくわからない。
 学校で抱いた違和感を思い出す。もう少しで掴めそうなのだが、掴めない。あれは何だったのだろう……

 ……それにしても、兄が現れたのには驚いた。
 私の様子を見に来たのだという。無神経な男だ。家族でなくとも好きになれない。

 ……生徒会室に向かう途中では美綴先輩と三枝先輩に会った。ただならぬ雰囲気だった。
 あれからどうしたのだろう。デートでもしたのだろうか。
 いや……もっと重要なのは、それ以前、どうしていたのか、だ。
 生徒会室に顔を出した可能性もある。私の記憶の忘失に関して何か知ってはいないだろうか。

 ……今夜は眠れそうにない。
 昨日の出来事を繰り返し思い描くうち、辺りが白んできた。
 ヒーターは鈍い音を発しながら一晩中熱風を吹き出し続けた。
 通学三十分前に急に睡魔が襲ってきた。心が逃げたがっているのだろう。
 寒くはなかったが、ぎりぎりまで布団の中にいた。ため息を深く吐いてから、おもむろに立ち上がる。
 顔を洗う。鏡の中に青ざめた顔がある。目だけが異様な光を放っている。落ち窪み、充血し、隈(くま)ができていた。

 白い朝だ、空も町も道も。細かい雪が休みなく降り続けている。

 学校の玄関を抜け、階段を上って行く。
 階段は雪で濡れて滑りやすくなっている。寝不足のせいか足に力が入らない。
 二階に着く頃、足を取られた。落下しかけて、必死で手摺(てす)りに掴まる。呼吸が荒い。頭から落ちたら命はないだろう。
 立てないほど具合が悪いのだろうか。

 昨日、兄に連れられた生徒会室の前に来た。
 ノックし続けた。気配がない。中に人がいないかのようだ。この感覚には覚えがある。
 つい昨日だ。生徒会室と同じなのだ。胃がキリキリと痛みだした。あの時の……死体を発見した時の、感じ。
 まさか……いや、あり得ない。
 そんな偶然は……同じことが二度も起こるなんて
 ……兄は風邪で寝込んでいるのだ、あるいは二日酔いか……違うな、登校拒否、それとも急に旅行にでも行ったのか
 ……下北沢の厚化粧の人妻の家に行っている……いずれにせよ登校を放棄したいのだ。
 体よりも心の具合が悪くて、居留守を使ってるのだろう……

 無意識のうちにドアのノブを握っていた。
 ドアを引く。鍵は掛かっていない。
 少しためらう。「兄さん……?」と呼びかける。
 声が震えた。答えはない。ドアを開くと、嫌な音を立てて軋んだ。ゆっくりと足を踏み入れる。
 後ろ手で静かにドアを閉め、薄暗い部屋の中に入っていく。
 同じだ。昨日と同じだ。同じ感覚だ。そこには頭を割られた死体が横たわっていて、横に……バベルの塔が……
 今度は?
 あった。
 昨日と同じものが。
 生徒会室で見たものが。
 死体、横たわる男の――死体だろうかこれは。
 めまいがした。頭痛がする。気持ち悪い。吐き気を感じた。腹のあたりに手をやる。
 ……そうだ、次の行動もわかっている。恐る恐る近づいて死体の顔をのぞきこむのだ。それからバベルの塔を発見する……
 地雷を確かめるような足取りで部屋に入っていく。学校の制服を着た男がうつ伏せに横たわっている。
 顔をのぞきこむ。間桐慎二だ。吐血している。
 鼠色のカーペットが血を吸い込み、赤黒くなっていた。
 顎(あご)が外れるほど口を開いている。歯が赤く染まっていた。
 剥き出した白目には細かい血管がびっしりと浮き出ている。
 顔中に苦悶の皺(しわ)が走っていた。鼻梁(びりよう)に薄く残る傷痕を発見した。生徒に殴られた時のものだ。
 桜には一瞬後の自分の姿が見えたような気がした。
 未来の映像が実際に見えるような不思議な感覚だった。私は今、しゃがみこんで死体の顔を見ている。
 次に左側の壁を見るのだ。するとそこにバベルの塔が建っている。

 ……静かに顔を横に向ける。左の壁を見た。白い壁紙。そこにバベルの塔が……










 なかった。ただの壁だ。
 



 そんな筈はない。
 そこに塔が建つ筈なのだ。
 私は心のどこかで自分の理屈の奇妙さに気づいていた。
 しかし、塔はなければならなかったのだ。
 壁には三分の二以上破り取られたカレンダーの上部しか残っていない。
 灰色の金属の竿が釘で止めてある。
 残っているアート紙から1という数字がかろうじて読み取れた。
 一月のカレンダーだ。奇妙だ。まだ九月四日なのに何故破り取ったのか。
 しかも紙の上部が残るような乱暴な破り方で。まるでむしり取られたようだ……むしり取る? 
 では破られたカレンダーはどこへ行ったのだ?
 辺りを見回す。カレンダーらしき紙切れはどこにある。ゴミ箱はからに近い。
 その時、うかつにも初めて気づいた。
 死体が何か握っている……右手でアート紙をもみくちゃにしている。
 後先考えず、引っ張り出した。B4くらいの大きさのようだ。紙を広げる。





 血走った目が食らいつく。
 ――見ろ、塔は、建っていた。
 ここに、バベルの塔が建っていた。





 破り取られたカレンダーだった。一月の曜日表の上にバベルの塔の図版が印刷されている。
 慎二はそれを床の上に放り投げて、笑った。笑っていたのだ。
 
 私は床に座り込んだ。笑いが止まった。涙が一粒こぼれる。両膝を抱きかかえ床のカレンダーを眺めた。
 
 未完成の巨大な塔が描かれていた。まだ工事中であり足場らしきものも見える。
 大まかにいえば円錐形の塔だ。素材は岩なのだろうか。
 地面と塔の境目には巨大な岩石のようなものが見える。塔全体が岩から掘り出されたかのようだ。
 無数の人間が小さく描き込まれていた。
 ツルハシをふるって石を切る者、火を焚いている者、階段をのぼっている者、馬車に乗っている者など、様々である。
 手前には従者を引き連れた王の姿があった。彼の前には四人の庶民が跪(ひざまず)いている。

 私は絵を見ているうちに冷静さを取り戻していった。
 ハンカチを取り出し、カレンダーの表面を丁寧に拭く。
 再び指紋を付けないようにハンカチで覆って、握り潰し死者の手に戻す。
 慎二の手は生魚のように冷たかった。喉まで込み上げてくるものがある。
 こらえきれず、流しへ行って吐いた。吐瀉物を水で流しながら呼吸を整える。
 吐き気を抑えるのに数分費やし、死体といるのに耐え切れず外へ出た。

 通路の手摺りに両手をつき、深く息を吸う。
 雪は止んでいた。あんなに近くに高山のなだらかな白い尾根たちが見える。
 
 巨大なバベルの塔が目に浮かぶ。ありありと見えた。触れられるようだった。桜は気づいた。
 違和感だけが問題なのではない。それよりもあのバベル……バベルの塔だ。
 バベルの塔が現れた。そこに何か意味があるのか、全くの偶然か。
 むろん偶然だ。意味があるわけがない。だが……もし偶然でなかったら、兄が作為的に残していったものだとしたら、どうなる?
 どんな意図があるというのだ。天に届く巨大なレンガの塔。バベルで何を示そうとしているのか。
 世界はバベルに侵食されつつあった。

     



 桜の陶酔は物音によって破られた。
 風の音ではない。それはドアの外、階段ホールのほうから聞こえて来た。
 少女たちの叫び声、そしてドスンバタンという、何やら複数の人が争っているような物音。
 慎二の身体が桜の上で、ビクッとひとつ痙攣した。

「……え? なん、で?……兄……さん?」
「違う。ついに目覚める時が来たんだ、桜。……敵が」
「敵? ……あっ」
 慎二は素早かった。
 桜の中からニュルッと抜け出すと、すっくと身を起こし、キョロキョロとあたりを見回している。
「あの、敵って……?」
 桜はいまだ混乱したままの頭で、そう訊ねた。
「……分からない。おそらくライダーの奴がしくじったか何かしたのだろう」
「ライダーって? ……あの裸の女の人のこと?」
 桜もそう問いながら、慌てて身を起こす。不穏な空気が室内に満ちていた。
 慎二を見ると、彼はキレのある厳しい顔つきをしていた。
 桜は再びわけが分からなくなっていた。
(敵……って?)
「敵」とは……。いったいどういうことなのだろうか。
 ドアの外からは相変わらず、少女たちの叫び声や、その肉体が階段を転げ落ちているらしい物音などが聞こえて来ていた。
 ……と、ダンダンダン、とドアが外から強打される音がして、桜はハッと息を飲んだ。

「マスター、変な男があなたを掴まえに来たわ……。お逃げ下さいな!」
 艶のある女性の声がそう叫んでいる。
「桜、僕は行くよ」
 慎二はそう言うと、サッと身を翻し、ドアとは反対側にある窓へと取り付くと、
 それをタッと足早に飛び降りた。
「待って、兄さん……」
 桜も慌てて後を追おうとした――その時であった。
 背後で不意に、生徒会室のドアが開けられた。澱んでいた空気がふわっと動く。ハッとして桜が振り向くと、
(……誰?)
 開け放たれたドアの前に立って、私のほうを見詰めているのは、紅い衣に身を包んだ大人の女性であった。
 最初、桜はそれを生徒のうちの誰かだろうと思った。
 しかし次の瞬間、そうではないということに気づいた。……学校の中にいる誰かではない。
 でもどこかで見た覚えがある……。
 そして桜は、その女性がいつの日か、海岸で自殺を図ろうとした時に現れた
 あの猫顔の綺麗な女性なのだということに、気づいていた。
 視線が合うと、相手が訊ねて来た。
「……あなたが、ライダーさん……?」
 その声には、どこか当惑したような色が混じっていた。
 しかし次の瞬間、桜の答えを待たずに発せられた次の声には、確たるものがあった。

「ええ……そうよ。上にもうひとり、誰かがいるのね!」

 その女性がそう言った瞬間、パタンという音が頭上から降って来た。
 と同時に、ゴオオッと激しい濁流が、唸りとともに上から吹き込んで来た。
 その濁流に足をとられて倒れそうになり、桜は慌てて横の壁へとしがみついた。
 紅衣の女性は私に顔を背けながら叫んだ。
「お行きなさい!」
 そうして天井を見上げている桜の目の前を、すっと黒い影が過った。
(あっ……)
 女性は桜を突き飛ばすようにして、黒い影の下へ駆けていった。。
 訳が分からぬまま外に出て、慌てて階段のステップを駆け下り始めた。
 下を見ながら降りて行くと、じきに世界はグルグルと回り始めて来る。
 それは酩酊を誘い、桜は束の間、意識を混濁させていた。
 何のために降りているのかを忘れ、もはや自分が階段を昇っているのかどうかすら、定かではなくなってくる。
 永遠に続くかと思えた世界の回転であったが、それもやがて止まり、
 いったんは見えなくなった世界の輪郭が、半回転先に見えて、桜はやっと自分を取り戻した。
 そうして気づけば桜は、自分の家の前まで辿りついていた。
 
 ――――なにがなんだかわからない。
 混乱はなお一層深まり、頭はずっと靄がかかったようにぼやけるが
 それ以上に疲れた……。
 とりあえずは、部屋に帰って……そして寝てから考えよう……。
 鉛のような足を引きずるように歩き、扉を開けて玄関に入る。

 ――――本当に、疲れた。早く休みたい。

 靴を脱ぎ、床に足をつけたら
 ふと、人の気配がするのに気づいた。
 顔を上げると、さっき学校で別れた兄が立っていた。
 「……兄さん?」
 さっき学校で別れた兄だと分かり振り向いた瞬間、




   ◇◇◇





「そら、こっちに来るんだよグズ……!」
「っ、きゃ……!」

 倒される。
 背後から襲われ、未だ手足の痺れがとれぬまま、少女は押し倒された。

「この愚図、ずいぶん遅いお帰りじゃないか、ええ!?」
 喚きながら圧し掛かる。
 慎二は喚きながら彼女を殴る。

「っ――――!」
 びくん、と少女の顎が上がる。
 もう一度殴られる。
 その、瞬間。

「だめ――――止めて、近寄らないで、兄さん……!」

 少女は全力で、圧し掛かる慎二を拒絶した。

「――――は?」
 男の動きが止まる。
 男は何か、奇怪なモノと対峙したように、少女を見下ろした。

「なんて言った? いま、おまえなんて言った?」

 呆然とした声。
 少女はごくりと喉を鳴らして、ありったけの勇気を込めて男を見つめ返す。

「―――な、んで、どうして兄さんが生きてるんですか……!
 たしかに、あのとき、いえ、なに?……わからない……わ、たし……
 バベル……黙示録(アポカリプス)……緋色の獣……売春婦の母……わからない……わからないようっ!!」

 少女は必死に、圧し掛かった男を跳ね退けようとしながらうわ言を繰り返し頭を振りし抱く。
 だが慎二はよろめきもしない。
 当然だ。少女の力で男を押し返せる筈もないし、抵抗のしようがない。

「――――――――、んな」
 空洞のような声。
 男は、ベッドに倒れこんだ少女を見下ろし、

「―――ふざけんな。ふざけるなこのあぱずれが――――!」

 気が違ったように、妹である少女をさらに殴り始めた。

「またそれかよ……!? 意味がわからねえよ!!いらいらする……!
 口を開けば気色の悪い電波垂れ流しやがって!!おまえは昔みたいに、ただ黙って股を開けばいいんだよ……!」

 手加減などしない。
 自分の持ち物、絶対に裏切らないものが理解のできない豹変をしてしまった彼女に怯える男には
 まともな理性など残ってはいない。

「いい加減にしろよ桜! おまえは僕のものだ、他の誰のものでもない……! 
 身のほどを弁えろ!おまえには僕に逆らう権利なんてこれっぽっちもないんだよ……!」

 狂ったように殴りつける。
「           」
 少女は抵抗しない。
 顔を庇うコトもせず殴られ続ける。
 その瞳は視線も定まらぬ昏さを以って、圧し掛かる男を咎めている。
「っ……!」
 それが最後のスイッチを押した。
 少女の目があまりにも怖かった。
 自分をまっすぐに見つめてくる目がイヤだった。
 だから、

「―――そうかよ。ならこっちにも考えがある。そんなに僕が嫌なら好きにしろ。
 ……けどさあ桜。それなら、好きな相手に隠し事なんかしちゃいけないよな?」

 少女が一番怖れているコトを、何もかも明かしてやる事にした。
「――――――――兄、さん」
 少女の目が光を取り戻し見開く。
「は」
 笑った。
 絶望を突きつけられた少女の表情は、少しだけ彼の溜飲を下げてくれた。

「そうだよ桜。今までのコト、全部衛宮にバラしてやろうじゃないか。
 あいつはおまえを家に受け入れてくれたんだろう? なら、それぐらいどうってコトないよな?」
「――――――――や」
 止めて、という声が、声にならない。
 少女は愕然と。
 以前の関係に戻ったように、空ろな目で、兄である男を見上げた。
「は。はは、あははははははははは!
 そうだよ、あの下等で落ちこぼれの偽善者がどんな顔するか見物じゃないか!
 それだけじゃない!実際にお前が薄汚い蟲たちに弄られるワンマンショーをあいつに見せてやろうじゃん!
 やすやすと殺したりはしねえ。
 生爪を剥いで指を1本1本切り落として耳を削いで鼻を潰してハラワタに熱湯ぶっかけて
 犯しながらクソしてやる。
 クキャ、クキャキャキャキャキャ……。
 いいな桜、それがイヤなら大人しくしてろ。おまえは僕の人形だ、間違っても逆らうんじゃない……!」
 部屋を埋め尽くす笑い声。
 それも、少女には耳障りな遠吠えにしか聞こえない。
「――――――――、で」
 なんで、と。
 虚ろな心で、少女は思った。
 先輩―――士郎に秘密をバラされるのは、死んでもイヤだ。
 兄との関係、衛宮の家を監視していた自分の役割、十一年に渡る地下での生活。
 先輩は知らない。
 先輩は本当になにも知らないんだ。
「――――――――あ」
 私のようなほの暗い井戸の底で、屍肉と戯れ弄られ嬲られ犯され侵され弄くり廻れた気色の悪い雌蟲とは違う。
 少しだけ魔術の存在を知っているだけの明るく優しい普通の世界の人間なんだ。
 だから、きっと私の事が嫌いになる。
 だから、きっと私の側からいなくなる。
 だから、それがどうしても耐えられない。
 だから、それがどうしても許されない。
 これ以上あの人から目を背けられるのはイヤだ。そんな事になるのならこのままでいい。
 今まで通り、このまま兄にやられればいい。

「――――――――や」

 けれど、それももう出来ない。
 ……今までは我慢できた事。
 だけど今となっては、なぜかどうしてもできない。

「――――――――だ」

 どちらも容認できない。
 士郎に秘密を打ち明けられる事はイヤで、心ががんじがらめになる。
 そうして、残ったのは剥き出しの感情だけ。
 今までずっと押さえて、十一年間フタをし続けた心は、

「いや――――いや、いや、いや、いや……!いやあああああああああああああああ
 あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
 止めて、こんなのヤだ、怖い、痛い、ヤダあ!、苦しい、気持ち悪い、
 ああああああ、っかは、ううっ……!もう止めてよう、兄さん……っ!」
 
 必死に、圧し掛かる男に抵抗する。
 その無力な抵抗を、彼は笑った。
 笑う。
 笑う。
 楽しげに兄は笑う。





「――――――――」






 それで、心底理解してしまった。





 この目の前で嘲笑する男の悪意。
 世界の嘲弄、私を取り巻くあらゆる事象は冷たく下衆で残酷で気色の悪い無慈悲な邪悪に満たされいるのだと悟った。





「―――――――死んじゃえ」





 囁く声が漏れた。





「――――――――」
 力が入らない。
 彼女の影から伸びる原始的な吸収の術がキリキリと締める。
 抵抗する気力がなくなって、声を上げる
 慎二は怯えていた。
 泣きだしそうなほど怯えていた。
(助けてくれ!)
 叫ぶが、声は出ない。
 彼の眼前では、まさしく桜がひとりの男を殺そうとしていた。
 伸びた影が慎二の全身に纏わり力が抜けていく。
 意識がないのは明らかで、生きているかどうかもあやしかった。
 慎二はふたたび叫んだ。
(助けてくれ!)
 やはり声は出ない。
 身体もコントロールできない。
 今、慎二の意識は身体を離れている。
 幽体離脱という言葉があるが、まさしく状況はその通り。彼の意識は地上五メートルの辺りを漂っているのだった。
 その真下で、彼女が自分を嬲っている。なんとも信じられない現実。なぜこんなことになったのか、さっぱりわからない。

 自分が見ている前で、立ち上がった彼女の身体は転がっていた包丁を取りだした。
 脅しに使おうと自分がこっそり持ってきたものだ。
 左手で不器用に――――その柄を持つと、自らの首に当てる。
(やめろ!)
 慎二は叫んだ。
 が、身体はやめなかった。
 真横に引く。
 血が迸(ほとばし)った。まるで噴水のように。身体がガクガクと震える。顔が引きつる。ゆっくり血の海へと倒れてゆく。
 自分が死につつあるのを、慎二は恐怖とともに見つめていた。
 
 と、その時――。

「ご苦労様、クズ野郎」

 声がした。
 振り向くと、そこに女がいた。
 自分と同じように、空間に浮いている。
 一瞬戸惑い、思いだす。通りでぶつかった女だ。見てるだけでいきり立つような体つきをした、エキゾチックな裸体の西洋人。
 思わず叫ぶ。
「だ、誰だ!? いったい――」
「人形使いよ、わたしは。あなたみたいな悪を使って、別の悪を弄ぶ。
 ま、悪とは限らないけれどね。ごめんなさいね、ちょっとばかり偽善的にすぎたかしら?」
「それは――」
 もう声が出なかった。
 一瞬後、目を見開いたまま、慎二は消えた。
 身体が死んだのだ。
 暗い、崩れた蟲倉の巣の中で、飢餓と酸欠によって衰弱させられ斬り殺された青年が
 誰にも知られることなく、ひっそりと息を引き取った。
 死の寸前、彼は三つの眼を持つこの世のものとも思えぬ黒く禍々しい獣の幻影を見たように思ったが、
 それが現実になんらかの影響を与えることはなかった。
 彼の生涯には、最初から最後まで、意味と言えるものは一切なかった。

「終わった、か」
 呟くように女が言った。
 時間をかけて、あたしはあたしの身体に戻る。
 霊体化を解き、実体を得る。
 まだ時間はたっぷりあるわけで、焦ることはない。
 大きく息を吐くと、精神が身体になじんだ。


「――――――――」
 ぱしん、と空気が鳴った。
 圧し掛かっていた男が倒れる。
 降りかかる鮮血。
 少女は体を起こして、物言わぬ兄を見つめた。
「――――――――あ」
 死んでいた。
 後頭部には刃物で切り裂いたギザギザの切り痕がある。
 痕は脳にまで達し、けれど傷口は脳漿を零すことはせず、赤々とした血液だけを流している。
「――――――――、あ」
 それを無感動に見下ろした。
 兄を殺した影が揺らめいている。
 灰色の月光を受けて揺らめいている。
 自分の。
 月の光に当たる自分の影が、のっぺりと立ち上がって揺らめいている。
「――――――――、ああ」
 だから殺したのは自分だ。
 兄を殺したのは自分だ。
 それが理解できるのに、少女は何も感じていない。
 何も感じない。
 何も。
 何も。
 何も。
 嫌悪も恐怖も、罪悪も後悔もない。
 からっぽの心に浮かんだものは、ただ、簡単だった、という事だけ。
「――――――――ああ、あ」
 手馴れている。
 こんなこと、これが初めてじゃない。
 だっていくらでも夢で見た。
 夢で見たから――――夢で見たから、見様見真似でやってしまった、んだろうか。
「――――――――あ、は」
 よくわからない。
 でも、こんな事ならもっと早くやればよかった。
 何も感じないのなら、もっと早くやればよかったのだ。
 そう、少女は思い。
「――――――――ふ――――――――ふふ」
 何もない筈の感情が、楽しかった、と呟いた。
 楽しかった。
 楽しかった。
 楽しかった……?
 楽しいんじゃなくて、楽しかった……?
 それは何時。
    何処で。
    何を。
 夢。
 夢。
 そうだ、わたしは夢なんか見ていない。
 あの夢は、そう――――
 夢なんかじゃない。
 夜な夜な街を徘徊して、いい寄る男の人たちを殺していたのは、紛れもなく自分自身。
 あの海岸で出会った目を潰したくなるような綺麗で怖い女性に出会ってからからから……。
 そう、いっぱいころした。
 いっぱいいっぱいころした。
 にげるひとからコロシタいってきのこさずコロシタだれであろうとコロシタたのしんでコロシタわラいながらコロシタわらイな

 がらコロシタわらいながらコロシタ、わたしがわたしが笑いながらコロシタんだ……!!

「――――あは。あはは。あははは」

 おかしくて笑う。
 だって、笑わないと壊れそうだ。
 笑っていないと耐えられない。
 けど笑えば笑うほどボロボロと崩れていって、涙が止まらなくて、何もかもがどうでもよくなっていく。

「はは! あはは、はははははははははははは!」

 おかしくておなかが痛い。
 笑えば笑うほど馬鹿になっていくみたい。
 でもそれがとても楽で、とてもとても自然に映る。
 ああ、なんてバカらしいバカらしい愚かな自分……!

「――――ふ――――ふふ、あ」

 狂笑でひきつった顔。
 もう動かない兄に代わって、少女は可憐に、クスクスと硝子のような声を零す。
 ……そうして。
 兄の体をままごとのように沢山、色々といじったあと、少女は立ち上がった。
 血に濡れた姿のまま姿見の前に立つ。
 ―――その後ろには、供に多くの人間を殺してきた影が立っている。
 自分の影。
 もう、何十人という人間を食べてきた自分自身(くろいかげ)。
 いつかそうなってしまわないように必死に自分を抑えて、
 そうならないようにと傍にいてくれた誰か。
 笑ってしまう。
 そんなもの、初めから全部無駄だった。

「――――なんだ。少しずつおかしくなってたんじゃないんだ」

 くるり、と姿見の前で回る。
 少女は誇らしげな微笑みを浮かべ、

「―――見てください先輩。わたし、最初から狂ってたんです」

 始めから感じていた、心のどこかで。
 強い憎しみの裏にある渇きを。
 激しい闘志の底に潜む悲しみを。
 似た者同士。
 自分が自分であるために、捨ててきたものの数を数える。
 声にならない声が聞こえてくる。
 いままでフタをし続けた無意識が、ただ表層に浮かび上がっただけの話。

 その少女に語りかけるものがある。
 少女の背後。
 闇は闇のまま、気配だけを現して少女を見つめる。

「――――かくして役者は全員演壇へと登り暁の惨劇は幕を上げる」

 少女は答えない。
 そんな事は、もう頷くまでもない。

「―――大いなる偶然が全ての始まり。
 芽生えた意識は行動を、行動は情熱を生み、情熱は理想を求める。」

 少女は答えない。
 そんな事は、もう言われるまでもない。

「―――さあ、その闇を受け入れるがいいわサクラ。
 あなたを止められる者はおらず。奈落の底で這いずる巨獣は天を軋ませ、人々は呻く貪られる。」

「――――くふふ、ははははははははははあははははははははははは――――」
 
 静かに頷く。
 それが楽しそうだから頷いたのか、
 それともただ逃げたかっただけなのか。
 少女には、もう自分の心も判らない。
「ん――――」
 ぶるり、と体が震える。
 そのイメージ、想像上の行為だけでイきそうになる。

「は――――はは、はははははははははははははは!!」
 勝ち誇る。
 それを、虚ろなままぼんやりと見上げ。
「――――こんな世界、なければいいのに」
 
 この世全て悪なれ、と。
 憎しみに満ち充ちた呪詛を呟いた。





 
「やあ姉ちゃん、どうしたのー?」
「誘ってんですかーねえねえ?」
「おいコラ、返事をしろ、返事を」
「おい、お前なに――」




 怒りの鉾先(ほこさき)が自分へと転嫁されたのを、ボンヤリと意識しながら、
 彼女は割れた影の隙間から覗く男たちの死体へと、ゆっくりと近付いて行った。
 泥濘(ぬかるみ)と化した地面の上で、それはクタリと横たわっていた。
 近くの壁には、激突の際に跳ね飛んだと思われる泥の飛沫が、汚れとなってこびりついていた。
 そのまま上のほうを見上げる。
 蔦(つた)の絡まる壁面の続くそのずっと上方に、尖塔がシルエットとなって空に聳えている。
 東の空にあった月は今は姿を消しており、天は昏く渦巻いていた。
 桜の頬を涙が伝った。





「おい、きみ、返事をしろ」




 警官のひとりが桜の腕を掴んだ。それを振り払う気力も無く、彼女は相手のなすがままに任せた。



 ――全ては終わったのだ。
 桜の態度を怪しいと睨んだのだろう。もう片方の腕も誰かによって掴まれた。そして足首も――
 ――足首?
「――ーッ!」
 少女の足元の影が、パッと散った。








「ハ、ハハハ……はハハハははハハハははっはははははははははははははっははははは
 ははっははははっはははははっははははははっはあっはははははっははははははは!!!!」







 桜は笑った。お腹の底から笑った。何とも可笑しかった。実に可笑しかった。
 ――いけないっ。
 崩壊しそうになっていた自分を何とか取り戻す。
 それでも恐怖の裏返しである笑いは、どうしても止まらなかった。桜は爆笑しつつ、心底から恐怖していた。
 少女の左手が、影の中に沈んでいた警官を掴む。
 肩の上で左右にグラングランと揺れながら、しかしその顔面では、生あるもののように表情が動いていた。
 瞼(まぶた)をしきりにパチクリとさせていて、その中で黒目が左右に揺れている。
 顎を上下に動かして、口を人形のようにパクパクさせている。
「ぎ……ぶぇ……」
 くぐもった声らしきものを何とか発した、その口からは、次の瞬間には汚い液が泡となって、
 ブクブク、ダラダラと吐き出され、少女の顔面を汚した。
 その飛沫が自分の顔にもかかり、その嫌悪感から桜はようやく、身体から引き離そうとした。

 ――しかしそれは、容易には離れようとはしなかった。
 ――――――これは?
 白魚のような少女の指は、まるで鋼で出来ているかのように、Tシャツにしっかりと食い込んでしまっている。
 桜は後退(あとず)さった。
 少女はそれに引きずられて、足を一歩前に運ぼうとした。
 その歩が着地した途端、脚は途中で不自然な角度にくねりと曲がって、転倒してしまう。
 そうして少女の下半身は、泥の上へとくずおれた。
 ペチャンと音がして、飛沫が上がる。――しかし桜のTシャツを掴んでいる手は離れない。
 全体重を懸けてグイと下に引かれてバランスを崩し、桜は泥土に膝をついた。
 
 そこでようやく気づいた。――お爺様だ。

 自分が掴んでいる部分を、思いきり切り裂く。
 爪先が肌を掠め、ズキリと痛んだが、それもものとはせずに、桜は必死の思いで抵抗をした。
 やがて少女の掴んでいた生地が裂け、片腕が泥に落ちた。
 もう片方の手は下着の生地を握っている。
 手がうまく動かない。
 そのまま目を離すことができずに、抗っていると――やがてその身体は、不意にゴロンと仰向けとなった。
 そして、両脚が大きく左右に広げられて――その股間から――

「■■■ォ■■ヴぉ■■■■ァ■ーッ!」

 パッと血飛沫(ちしぶき)が宙に舞った。
 そしてその赤い霧の中、少女の秘裂が大きく開き、そして中から赤黒い、ヌルヌルとしたものが這い出すのが見えた。
 先端の突起はまるで鎌首であり、泥土の上を身をくねらせて進むさまは、まるで蛇のようであった。
 宿主であった少女の肢体は、もはやピクリとも動こうとはしない。操り主がその身体の支配率を傾けたからだ。
 
 ――間桐臓硯。
 その先端は今や、だらしなく広げられた少女の両膝の間あたりにまで達していた。
 そして少女の秘部から、尻尾の部分がニュルンと吐き出される
 ――その尾部だけは、蛇とは違った造形をしていた。
 握り拳よりもやや小さいぐらいの瘤(こぶ)があり、そこから剛毛がモジャモジャと生えている。
 さらにそれより先には、吸盤のようなものがあった。
 胎児の胎盤に相当する役割を果たす部分なのだろう。
 そしてその吸盤ようの部分から――これこそが本当の尻尾と言えるだろう
 ――血塗れになってはいるが、元来は透明であるらしい、極細のテグスのようなものが束となって、だらりと垂れていた。

「うふふ。出るモノが出たワネ」

 そうしてその醜い身体を曝すと、臓硯はその身をクネクネと踊らせて、泥濘の上を泳ぎ始めた。
 ライダーはそれから目を逸らすことはしない。尾部の、毛に覆われた瘤の中に、ギョロリと白く光る部分があった。
 それは――目だった。
 白い中に黒目があって、それがジロリとライダーのほうを睨んだ。

 ――桜は途端、激しい嘔吐感に見舞われたのか、それとも拒絶反応をおこしているのか
 身体を二つ折りにして、思い切り胃の中のものを吐き出した。
 嘔吐感は後から後から、桜の身体を襲った。
 その度に彼女は腹部を抑え、喉の奥から出てくるものを吐き出した。
 そうしてひとしきり嘔吐を終え、ようやく目を開けると、すぐ目と鼻の先に――臓硯が居た。
 ライダーは間近に臓硯と相対していた。
 その先端は――男の部分とほぼ同じ形をしていた。
 今はその鎌首をもたげていて、ちょうどペニスが勃起したような角度で見えている。
 ……それを目の当たりにして、桜の心の中では、感情が激しく渦巻いていた。

 嫌悪――それは当然ながらあった。嘔吐を催すほどに、それは醜かった。
 そして美――不思議なことに桜は、その形を醜いと思うと同時に、美しいとも感じていた。
 恐怖――それは宿主を必ず死へと誘う、恐るべき寄生虫であった。そして愛――。
 兄に薬を注入された時に感じた、あの途轍もない高揚が、身体の奥でよみがえる。

 
 ライダーは、桜と臓硯から少し距離を置くようにして離れ、そして臓硯に向かって声を掛けた。

「あれだけ面白おかしく弄繰り回してあげたのに、まだ動けるとは驚いたワ。
 その生への執着。その執念。無駄に長く生き足掻いたワケじゃないのね。」

 その声になにをを感じたのか、臓硯はハッとその顔を見詰めた。
 風に髪を乱されて、そうして覗いている女性の顔には、侮蔑と愉悦の色が貼り付いていた。

『■■■ァ■■アア■■■■ァ゛ーーーッ!!』

 恐怖と絶望。
 混沌。
 暗黒の君(きみ)マザーハーロットは、狂気の哄笑を放ちながら、
 正気を失い、生への妄念のみで暴れ狂う臓硯を見て微笑う。


「――ハははハはハハはははははハはははハはハははハハハハハはハハハハ……!!」


 そうだ。
 思い出した。
 彼女こそ、私が召喚したサーヴァント。
 騎乗兵の位階(クラス)を冠する大いなる、謎めいたバビロン。
 

「日出(い)ずる方よりきたる影
 赤き竜より力と権威を賜り持つ獣を率い、神の器に贄(にえ)を盛る
 且(そ)に応(こた)うるは聖か魔か」

 そして、突然暗く重々しい声が響いたと思うと
 前後のマンホールが突然大きな音とともに虚空へと吹き飛び
 凄まじい勢いで、水の柱が立ち昇る。

「一の欠けたる三つの眼と
 空虚(うつろ)な精神(こころ)の名なき者
 万の魂の侵入を受け、満たされ、奪われ、生きて、死ぬ」

 そして、いつの間にそこにいたのか
 鍔広(つばひろ)の旅人帽「トラベラーズ・ハット」を目深にかぶり、
 スカーフで鼻から下を覆って、顔はよく見えないが、色褪せた蒼いローブから覗くぼろぼろの戦闘鎧。
 昏い瞳が闇の中で爛々と輝き、不吉な色を見せた男が立っていた。

「地に縛られし怨霊の、怨嗟(おんさ)の声は吹き上がる
 ああされど神は座(いま)せり。
 死者の祈りは不遜(ふそん)なれども」

 吹き上がった水の柱たちが、やがて生き物のような透明な触手をいくつも増やしていき
 彼女たちへと襲い掛かる。
 俊敏な動きで伸びていく穂先をライダーは『溢れる邪淫(ルクスリア・チャリス)』 で生み出した
 鮮血のように赤い真紅のワインを、水流操作の魔術によって操作し、いなし回避していく。
 だが、のたうち暴れる臓硯と接着した桜を連れて逃げることは出来ず
 程なく彼女たちは水の塊の中に囚われ、男の後ろで声に鳴らない悲鳴を挙げていた。
 
「なら、どうしようって言うの?」
 ライダーの声は吹き荒ぶ風の音にも負けず、凜としてその場に響いた。
「私を止められるとでも言うの? あと数日後には、その娘は――」
 そこで声の調子が急に変わった。
「――戯けめ。悪徳の大淫婦。
 私を神の狗どもと同列に扱うとは、度し難い程に位階と品位を落としたようだな」

 紫衣の女性はそれを聞くと、ハッとした顔つきをした。

「抑止力(カウンターガーディアン)じゃない? 
 いえ、まさか……。貴方は聖杯によって選ばれた駒ではない。」
 女性は相手から一歩その身を退けた。
 天空の月の前を暗雲が幾つもよぎり、紅い霧が発ちこめる舞台はそれにつれて、暗くなったり明るくなったりを繰り返していた。

「……この娘を使って救いを得る……。貴様も、そして私も。
 天上の神々に嘲弄され、ただ与えられた役割を永遠に演じるしかできないメビウスの輪に囚われた哀れな道化。
 人造の紛い物とはいえ、虚構の海に一筋の光を射すこの奇跡を逃す手はない。」

 変に嗄(しゃが)れた声が、男の口から漏れている。
 そしてその顔がニタリと笑った。
 背にした水柱の中に置いたた両手に、グイと力が込められて、そして男の身体はそのまま、不自然に持ち上がった。
 そうしてこちらを向いたまま、水柱の中に腰を掛けた姿勢となる。
 その顔がまた不自然に歪んだ。

「些か出すぎた真似をしたようだな。
 本来は貴様に邂逅せぬ内に事を済ます筈だったが、仕方あるまい。
 その娘をこれ以上歪められては、本来の機能を損ねてしまう」

「……本来ならば呼ばれる筈のない場所に召喚されてしまったおかげで滑稽な姿になってしまったから代わりにね。
 この街の人間全ての負を彼女という器に注がせ、理想通りの聖杯(どうぐ)になった肉体を貰おうと思ってるの」

「それで。この幻惑の霧は何の為の装置だ? 
 まさか理性と狂気の狭間、という不確定性を形にした箱というわけでもあるまい。
 矮小な人間共から得られる総量とリスク、即ち、死に至る瞬間の魂の炸裂を集める作業は効果的ではない、
 という結論が分からん貴様ではないだろう。何万という魂を集めても、おまえの目的は叶えられない」

「無論ね。でも貴方が知りえない真実もある。
 コソコソと私たちや他の参加者たちを嗅ぎ回っていたようだけど
 それだけでは大元には到達できない。
 貴方は事象と史実を追うだけで、その人間の『起源』と『心意』を鑑みたりは、けしてしない。
 だから真意という総体の起源には辿り着けない。
 ここに集まった者達は一人一人がその種の宿業を背負った者。いうなれば終末の縮図。
 私は彼らの苦しみを体験し、彼らの苦しみを内包する。
 いずれ全てを終焉の混沌へと単純化させ『原型(ワタシ)』へと至るために」

「ふん。そんなに一つである事がいいのか、大淫婦。
 あらゆるモノは一つでは孤独。だから多くに分かれようとする。
 零落した人の身である今のおまえでは、ただ闇を吸い続ける地獄でしかありえない」

 男の言葉に迷いはない。
 自身の答えは正しい、と結論した強すぎる意志。

「―――恐怖と憎しみは人間に内在する最も強い感情だ。
 合理的解釈ができないから怖い。常識とは異次元だから怖い。
 五感で認識できないから怖い。何も無いから怖い。絶対の無とは何だ?」

「―――それこそ。
 アダムが知恵の木の実を食べて堕落する前よりはマシでしょう?」

「肉欲は失われる。哀しみや怒りといった否定的な感情も奪われる。
 自分たちの両親や友人が天使に虐殺されても、何の感情も覚えない。
 何ひとつ悩むことなく、幸福な気分で微笑み続ける。
 そう、彼らにできたことはただ、〝神〟を讃える歌を歌うことだけだった。」

 
 日常という螺旋を繰り返したこの街には、人間が持ちうるあらゆる狂気と邪悪が混沌と渦巻いている。
 張り詰めた空気は、ライダーの力だけではない。
 むしろ敵対する、この戦争に参加する英霊達が街の人間になんらかの干渉をしている。
 彼女は街の人間の理性を取り払うことで欲望の量を
 男は人々の言葉の簒奪を、一日、また一日と増やしていく。
 彼の言葉を借りるのなら量ではなく質を増しているのだろう。
 傲慢、嫉妬、暴食、色欲、怠惰、貪欲、憤怒
 様々な理由による様々な欲求。
 毎日繰り返され、より確かになっていく欲望。
 
 ―――濃くなっていく、狂気。
 この街は一つの魔女の釜だ。
 彼らが、世界の危機意識を強固な物とするための祭壇。
 高度な魔術を行なう為には詠唱や自身の魔力だけでなく、生命の犠牲や土地自体の力をも行使しなくてはならない。
 彼らが現代に辺獄を造り上げる事で、歪みを極限まで伸張しようとしている。
 それも、魔術でではない。
 人間の意志の集束化。
 極限まで達する臨界点。
 これほどの瘴気を有する異界はすでに魔術の領域ではないのだ。
 これは、そう今の世界の常識では不可能な領域の神秘。
 魔法と呼ばれる、人の手が触れられない禁断の力の行使に他ならない。

「―――根源への道を諦めてないのね。
 でもどうやって?抑止力が顕現した孔を辿ろうとしたところで、霊長の意志は欺けない。」

「―――抑止力は、すでに働いている。
 資格者がこの街に居た事。大した理由もなく何かに取り愚かれたような焦りをもって私を狙ったイレギュラー。
 過去一件もなかったこの一帯での通り魔強姦に襲われたその娘。
 これほどまでに私自身が動く事を抑えたというのに、抑止力は三度も働いている。
 だがそこまでだ。私は、これ以上根源には近寄らない。数回に亙(わた)る失敗は無駄にはしない。
 抑止力に気付かれずに道を開こうとした事もあったが、アレの目は誤魔化せない。
 いつか抑止力そのものを倒す手段を調えて挑んだが、アレはそれ以上の力をもって現れる。
 結論は一つだ。私には、才能がなかった」

 初めて―――感情らしき韻を含んだ声が流れた。
 男は眼下のライダーを視界に収める。

「抑止力はこれほどまでに道への到達を阻む。
 それが人間が手にしてはならぬ力、無への回帰への因(よすが)となる行為だからだ。
 すべての人間は、人間であると思考する時点で、獣以下の下衆(げす)である。
 それ自身の中で自由になった理論的精神が実践的エネルギーとなり、
 意思としてアメントの冥府から立ち現れ、
 意思なく存在する現世的な現実に立ち向かうということは、ひとつの心理的法則であるからだ。
 では、ならば何故、根源に到達しえた者がいるのか。答えは単純だ。到達しうる方法があるのではない。
 単に到達しえる人間がいるだけなのだ。
 選ばれているかいないかの違い。生まれついた時からすでに根源との縁(よすが)を紡ぐ人間。
 複雑化し、種類を増やし、根源である大元から離れすぎてしまった霊長だが、稀に根源から直接繋がりを結びうる者がある。」

「そう。それでこの子を拉致しようという結論に達したわけ」

 彼女は両目を細める。
 間桐桜。
 彼女こそ、この歪められた聖杯戦争の特異点。
 全ての始まりにして、全ての終わり。

「でも貴方は動いた。
 貴方が直接動いては抑止力に悟られてしまうというのに……。
 あくまで間接的に、自身の存在を匂わせないように聖杯を確保しなければならなかった。
 そうでしょう?あの薄気味悪い塔を出てしまったら、即座に観測されてしまうもの。
 それでも貴方は動くことを望んだ、招かれざる客と食い合って喰い散らして螻蛄(おけら)になって
 無様に水面に浮かび上がっただけなのにゃーん?」

「―――先の闘いは予定外ではあったが、見逃すには惜しい代物だったのでな。
 だが今は違う。結論は出たといっただろう。貴様にその肉体は不要だ。根源に通じ得る体は、私が貰い受ける」

「はん、冗談じゃないわね」
 信じられない、というライダーの口振りに男は答えない。
 
「念の為に訊いておくけど、その娘を返す意思はある?」
「欲しければ好きにしろ」
「そう、戦うしかないってワケね。
 っもう!、私はもともと床の間が戦場なんだけど。貴方やキャスターに関わったばかりにいい迷惑だわ」
「私も念の為に訊いておこう。ライダー。協力する意思はあるか」

 敵対の視線、必死させるという意志が変わらないままでアーチャーはそう問うた。
 ライダーは答える。
 斜にかまえた紅い瞳だけで、断じて否、と。

「……そうか。残念だ。
 私は、おまえとキャスターを正しく評価していた。
 世界に反旗を促がしたその覚悟に敬意を払ったこともある。有り体にいえば、好ましくも思っていた」
 
 ざぶん、と水音を立ててアーチャーはゆっくりと前に進む。
 
「この辺獄で、おまえたちは群体ではなかった。
 奴は宙の外の理(ことわり)を。おまえは冥府の果てへと至った。
 私は、先に到達するのはおまえたちだと確信もしていた。
 尤も――――貴様は見向きもせず、奴は諦めてしまったが……」

 絞り出されたその声は、深い失望と絶望の念が滲んでいた。
 それはその場の全員に反応する余裕すら与えない変化だった。
 金属が軋むような音共に、その空間は一瞬にして形成される。
 路上全体を覆うドーム状の水の壁。
 その強大な魔力の『蓋』がライダーの人避けの結界の『内部』を覆い尽くすと同時に、
 上下左右から水の触手が彼女を襲う。


 桜は声を発することができなかった。身体を動かすこともできない。
 まるで金縛りにでもあったかのような状態で、そうして舞台の上で繰り広げられる出来事を、
 ただ単に見詰め続けることしか出来なかった。
 煌びやかな女性が刻一刻と追い詰められながら、少しずつ傷をつけていく。

「……なるほど、私の結界の干渉に触れない範囲で更に結界で遮断したってワケね
 今からじゃ、さすがに完全に解除はできそうになさそうね。
 だからね、最善の策の代わりは次善の策を施させてもらったわ」

 その言葉に、沈黙を通すアーチャーが息を呑んだ。
 自然と視線の向かう先。
 下半身から鉛色の怪物を生やしたまま、ぴくりとも動かない桜がいた。
 ギョロリと臓硯の視線が向けられる。
 アーチャーに緊張が戻る。
 明らかに正気ではない虚ろな瞳で、間桐桜は昏い声で詠唱を始め
 臓硯の身体が淡く光り、周辺のあらゆる所から、無数のおぞましい数の蟲たちが
 水浸しの路上を這い寄り飛び込んでいく。
 それはまるで黒い絨毯のよう。
 アーチャーと桜を包む7~8メートルにも及ぶ巨大な水の塊が瞬く間に
 黒い斑点が増していき、海水は刻一刻と汚れアーチャーの干渉力が失われていく。

 サーヴァントはマスターとの契約が切れてしまえば、聖杯からのバックアップすら受けられない。
 アーチャーは自力で肉体を維持する特殊なスキル、単独行動と幾人かの人喰らいによる魔力補給。
 また、多量の海水を河から下水道を通じて『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の力で運んだため
 なんとか今の体裁を保ててはいる状態だ。
 まして今は強力な結界を展開して魔力を消費し続けている。
 いつ彼の肉体が消滅するか分からない状態だ。状況は決して良い方向に向いたわけではなかった。
 だが、アーチャーは絶対に意思を持って
 道理を踏みにじり、限界なぞ知らぬとさらなる力を振り絞る。



「――――『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』!!」




 キャビテーション
 液体の流れの中で圧力差により短時間に泡の発生と消滅が起きる物理現象であり
 別名、空洞現象とも言われる。
 この静圧低下による発泡現象は、液体の圧力が飽和蒸気圧以下に低下すると発泡する。
 またキャビテーションは、流動中に圧力の高いところへ来ると崩壊し、その崩壊時に高い衝撃を発生する。
 これが固体壁面近傍で生じると固体表面上に壊食と呼ばれる破壊現象を引き起こす。
 非常に高い圧力が局所的に作用し、壊食を引き起こし、流体機器の寿命を著しく低下させる。
 一方,流体エネルギが局所的に集中するので、このエネルギーを制御し利用することができれば、非常に有効なものとなり得る。

 苛立ちを含んだ囁きとともに、アーチャーを包む海水が大量の泡を吐き出し始める。
 その溢れ出る莫大な量の泡は壊食とともに衝撃が起き
 連続した破裂音とともに蟲たちを破砕し、囚われた桜も堪らず溺れもがき、程なく沈黙する。


「我冀う、この我がいよよ賢明ならんことを!
 我が蛇に似て、深く深く賢明ならんことを!
 さあれ、之を冀うは不可能を冀うに異ならぬ。
 されば、我がせめて矜持を持たんことを。我が矜持が常に我が叡智と相伴わんことを!
 舐めるなよベイベロン(売女)!!」

 身体の重心は腰の位置に溜め、剣の穂先は下方に。
 それが何を意味する型なのかはわからない。だが、ライダーにとってそれは全力で迎撃するほかないものである。
 ライダーは唇の片方を皮肉気に軽く吊り上げ、

「なかなか大きく出たわね、下郎の分際で」

 同じく、挑発とも取れる言葉を返してやった。
 更に続ける。
 挑戦的な眼差し。
 なかなか小気味のいい男だと、ライダーは胸中で呟く。
 戦うか否か。その二択しか、彼の中にはあるまい。
 粗野で偏屈ではあるが、生憎とそれをあからさまに嫌うほどライダーは懐の小さい女ではなかった。
 それに、記憶の中の“彼”に少し似ている。
 好感が持てた。されど敵同士。
 故に。

「いいわ、供物にして火の池へ堕としてあげる。蚯蚓のようにのた打ち回りなさいな」

 彼女の背後が歪む。
 途方もなく黒く禍々しい瘴気が、可視できるほどの濃密にじっとりと漏れ出す。
 ライダーは両腕を交差して、前方へと構えた。


「親愛なる愚か者へ、私からのキッス・オブ・ファイアよ――いけずしないで、受け取って頂戴ね……!」


 四の五を言わせる前に、ライダーは敵にケモノの笑みを浴びせ――反撃の狼煙を上げた。







 
 そして――。
 それはまるで、悪い夢のようであった。
 吹き抜けの四角の枠いっぱいに、地獄の空こそさもあらんというような、
 暗雲たなびく天空の画(え)があり、それ以外には何も無くて……。

「由紀香ちゃん……」

 友人の名を囁く。
 その一瞬、嘘のように風が止んだ。先ほどまでの天を劈くような音が、全く聞こえなくなった。
 そしてまるで計ったかのように、その瞬間、はるか足の下のほうから、グシャッ、という音が聞こえて来た。

 アーチャー右手の中には刃を立てたままのナイフが握られている。
 そして右手を振り上げ、ナイフの刃を臓硯の胴体へと思い切り突き立てた。
 刃はズブズブとその身体を貫通して、地面まで深々と突き刺さった。
 ピューッと目の前に血飛沫が上がる。
 身体を串刺しにされた臓硯は、激しく跳ね回った。
 そのたびに血がピュッ、ピュッ、ピュッと宙に舞い、そして段々と身体から張りが失われて行って――。
 やがて気がつけば、臓硯は醜く萎(しお)れて、動かなくなっていた。
 あたりには濃厚な血の匂いに混じって、何だか桜を懐かしい気持ちにさせる、甘酸っぱいような不思議な匂いが漂っていた。

 そして自分が今、その下手人と同じ建物にいると考えただけで、ゾッと鳥肌が立ってくる。
 自分が広大な檻の中にいるのだということに、桜は改めて気づかされた。
 そしてその広大な檻の中で、彼女はどうしようもないくらいに、孤独であった。
 その画と音が、最後に知覚されたものとなった。音は消え、目の前が暗転して――。
 薄い嗤(わら)いが、闇の中に遠のいていった。







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 脈絡なく桜を思った。
 むろん士郎には何の関係もない。
 朝刊を読むのは久しぶりだ。朝はテレビ欄しか見ない。帰宅してから読むこともある。
 目を覚ますと鍛錬と朝食の準備で手一杯で、新聞を開くゆとりはない。今朝は気まぐれで見た。
 すると「少女失踪」の見出しが目に入った。自分には関係ないことだが憤りは感じる。
 新聞を閉じようとしたが……できなかった。
 手が止まる。さっきの記事の隣を改めて見直す。小さな記事だが衝撃は大きかった。

「間桐一家殺害の犯人自首」

 一気に読んだ。それからゆっくりと読み直す。信じられなかった。
 間桐慎二を殺した犯人が昨日冬木署に出頭して来たというのだ。
 あり得ない結末――衛宮にとって、あってはならない解決だった。これで決着がついてしまってはならないのだ。
 焦りを感じた。空想と地続きの彼の世界が足元から崩壊してしまう。
 警察にまで踏み込んで糾弾したが、一向に取り合おうとしない。頭に来て、殴り殺した。警察は現在裏付け捜査に入っているという。
 そんな筈はないと確信する一方で、――やりかねない――とも思う。
 俺は真実を知っていた。学校中で知る者はない。
 新聞記事はむろん「バベルの塔」など触れていない。当然だ。捜査陣の眼中にないのだろうから。
 それでいい。自分だけが知っている。そこには屈折した優越感があった。

 気づくと遅刻しそうになっていた。
 大急ぎで学校へ向かう。雪道をのろのろと走る他の車が邪魔だった。
 歩道の中でも、朝会でも、授業中でさえも事件のことを考えていた。それほどショックを受けていたのだ。
 授業は抜き打ちテストだった。始まってから二秒くらいで匙を投げた。
 アラビア文字と韓国語と英語とよくわからない文字が数十種類あった。
 開始して十分もすれば生徒はざわざわし始め、止めなければ騒ぎ出す。
 中間期末テストでさえ、気を引き締めてかからないと、テスト用紙が宙に舞う。
 でも異常の中でも平穏は続く。誰も変に思わない。最近は言葉による意思疎通も難しくなってきたのに誰も彼も不便そうにしながら
 世界は何事もなく過ぎていく。

 今、テスト中の二年A組もひどいものだ。
 教室は汚れ、床にカバンや教科書が乱雑に積み重なっている。部屋の四隅はゴミだらけだ。
 ごみ箱からもゴミがあふれ出している。清掃していない。教室後ろ側の連絡黒板は、いつ来ても落書きでいっぱいだ。
 今日は卑猥な絵が大きく描きなぐられている。黒板横の掲示板は鋭い刃物で斜めに切り裂かれていた。
 あらゆる髪形あらゆる改造服の生徒がいる。髪の黒い生徒は数えるほどだ。
 教室は後ろの座席から徐々に騒がしくなり始める。テスト中でも同じことだ。
 やらなければやらないで、どうというものではないことを、彼らは既に知っていた。
 俺は放っておいた。本気になるのが馬鹿馬鹿しかったのだ。外に考えたいこともある。好きにさせておけばよい。
 頭の中はこの異常のことでいっぱいだ。
 
 間桐慎二の殺害犯人は美綴実典だったという。心のどこかではまだ信じられなかった。自首しただけで確証はない。
 しかし、これはもう自分にはどうにも出来ないことだ。
 嗚呼、また頭がボヤボヤしてきた。
 冬木市は赤い霧に包まれていて、高級住宅街のど真ん中にデカイ塔がそびえ立っている。
 

 初めはこの異常に対し、大きく慌て、混乱し、周囲を駈けずり周った。
 でも皆はなにも感じていない。なにもおかしいとは思わない。
 2日目には文字がグチャグチャになった。あらゆる書物・標識などが判読できない。
 インターネットのサイトまでは影響が及ばないらしく、ギリギリのところで気が触れずに済んだ。
 3日目、人々の挙動がおかしくなった。
 あらゆるところで暴力、犯罪が頻発するようになったのだ。
 止めに入ったら皆スンナリ落ち着く。そしてまた犯す。
 まるで脳に理性と常識という記憶が除かれ、自身の行動に制限が及ばないかのよう。
 4日目、言葉が理解できなくなってきた。
 もう何を言ってるのか理解がしにくい。誰も彼も身振り手振りで意思疎通を行う。
 俺も最近、この異常に慣れてきたのか、なんとかやっている。
 ブレない藤ねえの姿だけが俺の唯一の慰めだ。

 何かが目の前を飛び交っている。教科書やノートが文字通り飛び交っているのだ。
 生徒が投げ合いを始めた。テスト用紙も宙を舞っている。……これが、現実だ。
 認識する。自分の思い通りにいかない、これが現実なのだ――と。終了のチャイムが鳴った。
「起立・礼」と思われる号令がかかる。誰も席を立たなかった。生徒も、号令をかけた委員長も、俺自身でさえも。



 清掃時間となった。
 担当場所へ向かう。すると美術室の前の廊下を二人の生徒が雑巾がけしていた。
 美術室をのぞいてみた。五人の生徒が整然と床を掃いている。
 怒鳴り声が飛ぶ。何をやらせているのだろうと不思議になる。目があった。睨みつけるように鋭い視線だった。
 目で殴られた感じだ。
 放課後、図書室へ行った。
 部屋の中には紙の腐ったような臭いが満ちている。生徒の姿はない。安心している自分に気づく。
 百科事典の近くの机に場所を取る。しばし物思いにふけった。

 バベルの塔もやはり気になった。……そうだ、バベルの塔だ。
 結び付ける必要もない。これはバベルの塔の逸話にそっくりだ。
 あの塔、そびえたつフォルム……それこそが鍵だ。
 世界を解釈する――解釈して世界を取り戻す、鍵なのだ。
 あの塔さえ現れなければ悩まずにすむ。苦しまずにすむのだ。……苦しむ? 
 俺は「苦しむ」といういい方に引っ掛かった。苦しむだけだろうか。
 懊悩(おうのう)や苦痛しか感じていないだろうか。
 ――違う。バベルがあるからこそ現実が面白くなるのではないか。
 あれこそが現実を下僕にする鎖なのではないのだろうか。そして……麻薬のようなものだ。
 苦しみを伴うからこその甘美な愉悦、それが自分にとってのバベル……
 百科事典のコーナーヘ行った。茶色い大部の本は開かれないまま古びてしまったかのように見える。
 は行が載っている巻を引き出し、机に戻った。
 ハ……バヘ……バベル……バベルの塔。あった。
 どうやらこの辺はまだ被害が及んでいないらしい。
 簡単な記述だ。およそ次のように書かれている。

〝Tower of Babel(英)ついに完成しなかった天に至る塔。『旧約聖書』「創世記」十一章一―九節に記されている。
 ノアの大洪水の後、人類は繁栄し、全地は一つの言葉を語り、天に達する塔を建設しようとするまでになった。
 神は人々のおごりを戒めるため天より降り、言葉を乱して人々を各地に散らした。よって塔は未完成となった。
 この主題は技術革新の賛歌と傲慢(ごうまん)の危険が表裏一体であることを示す。
 バベルの塔は人間の知恵の成果であり、塔の破壊は人間の能力過信への警鐘である。
 バベルの塔のモデルはジッグラト、すなわちメソポタミアの巨大な聖なる建築物だったとされる。
 バビロンのジッグラト「エ・テメン・アン・キ」(天と地の礎の家)を指すともいわれる。
 これはマルドゥク神の神殿エサギラに付随する塔で、七階建て、九十メートルの高さがあったらしい。
 塔の物語はキリスト教美術で画題としてよく取り上げられた。
 俺は挿絵に注目した。
 窓の外に聳え立つバベルの塔だった。
 
 
 一時間ほどぼんやりと時間をつぶしてから帰宅した。
 夜、夢にバベルの塔が現れた。
 塔は下から一層一層できあがっていく。フィルムを高速で回すようなものすごいスピードだ。
 よく見ると数千数万という人々が蟻のように蠢(うごめ)き、レンガを一枚一枚積み上げている。
 全て手作業だった。手は血にまみれている。レンガが徐々に赤く染まっていく。
 赤い塔の壁。バベルの塔は血まみれだ。何故道具を使わないのか俺には不思議だった。
 自分ならもっと上手く作り上げてみせる。
 彼はバベルの塔の完成を確信した。そうだ……道具など使わずにだ。その瞬間、塔は完成した。
 頂上が雲の上を突き抜ける。人の群れは消えていた。――そうではない。よく見ると死んでいた。
 塔は数え切れぬ死体の群れで覆われていた。



 目が覚めた。ひどい悪夢だ。しかも寒い。この冬一番の冷え込みかもしれない。
 ヒーターのスイッチを入れる。まだ五時半だ。もう少し眠れる。窓から外を見ると雪だった。全てを白く覆っている。
 一晩で六十センチくらい積もったのではないか。駐車場に屋根はない。
 自動車は雪の中に埋まっているだろう。掘り出さなければならないだろうな。
 俺は再び布団の中に入った。一旦入ってしまうと、ぎりぎりまで出ることができなかった。
 学校行くのはあきらめよう。

 
 『旧約聖書入門』。暇な時読もうと思い、借りてきた。むろんバベルの塔を調べるために借りた。
 だが今は、ロトの物語を知りたい。「塩の柱」のエピソードだ。
 ロトは「創世記」に現れるアブラハムの甥(おい)である。
 ロトとその家族はソドムにやって来た。乱れた淫らな町だった。
 天使たちはロトに告げる。
「明日この町は滅ぶ。逃げなさい。しかし決して後ろを振り返ってはならない」
 ロトとその家族が逃避すると、ソドムとゴモラは硫黄の火によって滅ぼされる。
 逃走の途中、ロトの妻は町の様子が気になって仕方がなかった。ついに、こらえきれず、振り返ってしまう。
 すると、ロトの妻は塩の柱となった。これがロトの物語である。
 しかし俺が興味深く思ったのは、その続きだった。
 ロトの娘たちは人類が滅んだと思い込んだ。大破滅を体験したのだから無理もない。
 彼女たちは父にブドウ酒を飲ませ泥酔させた。そしてロトと交わった。交互に関係を持ったのである。
 子孫を絶やすまいとして娘たちは父親と交接した。娘にとってロトは実の父だった。
 
 気分が悪くなってきた。二度寝したせいだ――と思い込んだ。
 慣れないことはするものではない。吐き気がする。胃の中のものが逆流してくるあの時の感じ……
 そのとき何かがひらめいた

「創世記」十一章一から九節にそのエピソードがあった。
〝全世界は一つの言語一つの言葉であった。
 彼らは東から旅立ってシンアルの地に平野を見つけ定着した。彼らは互いにいった。
 「さぁ、レンガを作り固く焼こう」レンガが石の代わりになり瀝青(れきせい)が漆喰(しつくい)の代わりになった。
 それから彼らはいった。
「さぁ、町と塔を建設し、その頂を天まで届くようにしよう。こうして我々は名を上げ、全地の面に散らされることのないようにしよう」
 そこで主は人間たちが作った町と塔を見るためにくだってきた。
 主はいった。
「見よ、彼らは一つの民で、皆が一つの言語である。そしてこれを彼らはなし始めたのだ。
 今に彼らが企てることはすべて、もはや不可能なものがなくなってしまうだろう。
 さぁ、我々はくだっていって、あそこで彼らの言葉を混乱させ、だれも他人の言葉がわからないようにしてしまおう」
 こうして主は彼らをそこから全地に散らした。
 それゆえ彼らは町を立てるのを止めなければならなかった。
 そこでその町はバベルとよばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ、主が彼らをそこから全地に散らしたからである。〟

 意外な発見をした。再度読み返してみる。やはりそうだ。不思議だ。
 塔が崩壊したなどという記述はどこにもない。
 具体的な叙述どころか、後半では塔そのものの姿が消えてしまっている。
 
 矛盾するようだが、バベルの塔の挿話では、バベルの塔は重要ではない。
 少なくとも『旧約聖書入門』の簡単な記述を読み、漠然とイメージしていたものと、原文は異なる。
 俺はこう思っていた。「人間が傲慢にも天に届く塔を建てようとし、神の怒りをかい、塔を壊される物語」。
 しかし「創世記」を見ると神は塔を破壊してはいない。
 言葉を混乱させて人々を散らし、結果として塔を未完に終わらせただけである。この違いは大きい。

 つまりバベルの塔の物語は「塔」の物語ではなく「言語」の物語である。
「塔の崩壊」を語るのではなく、「言葉の混乱」がメインのテーマである。
 これは俺にとって一つの発見だった。しかしユダヤ教徒やキリスト教徒、『旧約聖書』を知る人々にとっては常識なのだろう。
 現在、世界にはいったい幾つの言語があるのだろう。何千もあるに違いない。
 一億人以上が使っている言葉だけでも、中国、英、ロシア、スペイン、ヒンズー、ベンガル、アラビア、
 ポルトガル、ドイツ、日本、……他にもあるだろうか? 
 さらにインドでは、ヒンズー語が公用語だが、他に十四の地方語が公的使用を認められ、
 加えて百七十の言語、五百以上の方言があるという。ロシアでも二百種以上の言語や方言が使われている。
 これらもバベルの塔の崩壊の後遺症なのだろうか。
 聖書の当該箇所では、建設の命令者もまた言及されていない。画集解説を参照するうち、次のような文章にぶつかった。

〝「創世記」十章八―十節に「ニムロデは地上で最初の勇士となった。
 ……彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それらはすべてシンアルの地にあった」
 という件(くだり)がある。またヨセフスの『ユダヤ古代史』ではニムロデを建設の命令者と特定している。
 これらを典拠として王の姿は必要不可欠なモチーフになっていった。〟
 ニムロデの姿も、塔が破壊される描写も原典にはない。
 
〝バベルの塔が崩壊する場面は『旧約聖書』には記されていない。
 しかし、『新約聖書』の「ヨハネ黙示録」十八章に〈バビロン崩壊〉についての記述があり、これが典拠とされた。〟
「ヨハネ黙示録」を捜し出してきた。一読したくらいでは、よくわからない。
 さすがに黙示録である。
 読み進める。
 バビロン破壊への言及が年代決定の手掛かりとなる。
 では、実際にバビロンの滅亡はどのように書かれているのか。
「黙示録」十八章には次のようにある。
〝これらの後に、私は別の天使が天から降ってくるのを見た。
 その天使は大きな権威を帯びていて、地上は彼の栄光によって明るく照らし出された。
 その天使は力強い声で叫んでこういった。

 「倒れた、倒れた、大いなるバビロンが。そこは悪霊たちの住処、
 あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、また、あらゆる汚れた嫌悪すべき獣の巣窟となった。
 なぜなら、すべての民族は、彼女の淫らな激情を呼び起こす淫行の葡萄酒を飲み、
 地上の王たちは、彼女との淫行を行い、地上の商人たちは、
 彼女の途方もない贅沢によって金持ちになったからである」〟

 十八章の(彼女)は、バビロンの大淫婦と呼ばれる。第二の終末の後、「水の上に座っている」姿をヨハネに発見される。
〝私は一人の女が緋色の獣の背に座っているのを見た。
 その獣は、神を冒涜する数々の名前が体中に書かれていて、七つの頭と十本の角とを持っていた。
 この女は紫の衣と緋色の衣とをまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り立てて、
 その片方の手には忌まわしいものと彼女の淫行の汚れとが一杯に満ちている金の杯を持ち、
 その額には、一つの名前が書かれていた。〟
 これがバビロンの大淫婦であり、ユダヤ人を終始迫害したローマを象徴している。
 「黙示録」では宿敵ローマをバビロンになぞらえ、その滅亡を願った。
 十八章の〝倒れた、倒れた、大いなるバビロンが〟という部分にも強烈な響きがある。
『旧約聖書』のバベルの話と、黙示録のバビロンの話は本来別のものだ。
 もともと、創造とは、関連のない二つのことを結び付けることによって生まれる。
 新しいことを思い付いたようでもどこかに前例があるのだ。完全に新しいものを創造する力は、
 おそらく人間には与えられていない。
 関連のないものを結び付ける。そして新しいものを生む。
 自分も同じなのではないだろうか。
 
 身近にいる人々が死んで行くことも偶然、連続して事件が起こったことも偶然、
 バベルの塔が現れたことも偶然、すべては偶然なのではないだろうか。
 偶然……この世のこと、あらゆるものは偶然の積み重ねだ。
 それが、解釈によっては必然となる。現実世界は人の解釈によって、世界として形成されると、彼は思う。
 ということは現実は解釈によって変貌を遂げるのかもしれない。
 このありえない現実。この事実さえ偶然なのだ。
 すべては偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然、偶然偶然偶然偶然……
 ――必然だ。




 ――――投影(トレース)、開始(オン)




 全身に魔力をありったけ循環させる。
 全身が軋む。血反吐を吐いた。
 だが、おかげで頭が生まれ変わったかのようにクリアになった。

 行こう。
 このイカレタ世界に終止符を打つ。





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 激しい雨の音に、少女はゆっくりと意識を取り戻していた。
 真っ暗な部屋の中。剥き出しの肌に、冬の夜の冷気が刺すように痛かった。
 のろのろと身を起こし、そして剥ぎ取られた服を拾い集めて、下着から順に、ゆっくりと身に纏い始める。
 やがて、震えが来た。ぶるぶると全身が震えて、ボタンを填(は)めることができなくなった。
 立っている事もできなくなり、そのままべたりと床に座り込む。
 真っ白だった頭の中に、徐々に感情の波が押し寄せてきた。
 大きな二つの波が、せめぎ合いをしている。神聖なものと邪悪なもの。……神と悪魔とが、その少女の心の中で戦いを始めていた。
 窓の外は闇。そして雨は激しく降り続けていた。
 何もしないでいても、そのうちやがて、朝が来る。一日が始まる。しかし少女は、その朝が来ることをおそれた。
(どうすればいいの……)
 死。
 唐突にその答えが心に浮かんだ。死。死。死……。その単語だけが、罠のように頭の中を駆け巡る。
 戦いは既に終わっていた。悪魔の勝利の喇叭(らっぱ)が高らかに、少女の心の中で吹き鳴らされていた。
 その悪魔の手から逃れるために、少女がとれる唯一の手段。

 ……それが死だった。

 少女は立ち上がった。闇に慣れた目が、部屋の中を探る。
(私は死ぬ。……そうだわ。私は死ぬ。そう、……だけど、あの人をそのままにしておいて、いいの……?)
 造りつけの机に目を留めた。引き出しを探ると、筆記用具が目に入った。
 レポート用紙の束から、震える手で紙を破り取り、そして鉛筆を手にする。
(……書けない)
 闇の中に、少女はしばらくの間、じっと固まっていた。乱れた呼吸の音だけが、外の雨音に混って、繰り返された。
(あれを……書けない)
 やがて少女の手が動き始める。そしてようやく、紙の上に文字が並べられた。

  衛宮士郎

 そこまで書いて、しかしその後が続かなかった。
 たった、四つの文字。手が思い通りに動かなかったため、その文字はすべて醜く歪んでいた。
(書けない。……誰か気づいて。そしてあの人たちを救ってあげて)
 闇の中に、螺旋階段(らせんかいだん)の金属が、ぼんやりと鈍く光っていた。
 少女は誘われるように、ゆっくりとその階段へと近づいて、そしてそれを昇り始めた。

(……死)
 視界はぐるぐると回り続ける。
 やがて頭上に閉塞感を感じ、そして階段の螺旋部分は唐突に終わりを告げた。
 続いて今度は鉄の梯子が垂直に上へと伸びている。
 突き当たりの天井部分は跳ね蓋(ぶた)となっていて、鍵は掛かっておらず、
 少女がそれを押し上げると、雨の音が激しく耳に響いた。さわさわと流れ込んでくる冷気が、少女の体温を奪ってゆく。

 じっとりと湿った石壁の感触を、両の手に感じながら、少女は身体を浮かせて、
 そしてよろよろと転げ出るようにして、出口から外の床面へと身を這い出させた。
 そのまま這って、壁まで進む。そしてその壁に体重をあずけながら、何とか立ち上がる。
 パラパラと雨の粒が、顔に降りかかった。

 そこは塔の上、鐘楼(しょうろう)として設計された場所であった。
 胸下までの高さの障壁に囲まれてはいるものの、吹き曝(さら)しとなっており、
 四隅の柱が鐘のない虚ろな天蓋部分を支えている。

 すぐに少女の全身はずぶぬれの状態になった。吐く息が闇に簿白く濁る。
 降りかかる雨は、いつ雪に変ってもおかしくなかった。ぐっしょりと濡れて着衣の張り付いた肌は、
 その外気の寒さに、痛みを通り越して、今は感覚を無くしていた。
 寒気が絶えず背筋を上ってきては、少女の全身を震わせる。
 少女は障壁の上に両肘を載せて、そして身を乗り出すようにして、下界の様子を窺った。
 地面ははるか下、遠くに見えた。建物の入口から漏れる明りに、そこだけ雨の糸が白く光っている。
(私も雨の粒になって、あそこに散る……)
 少女はずっしりと重い自分の身体を持ち上げるために、両の腕に徐々に力を込めていった。