第2話 バベルの塔



 男の周りに塔が建つ。
 バベル、バベル、バベルの塔だ。
 塔がゆっくりと鳴動する。最下層から一層一層積み重ねていく。
 落日が海底の表面を染めている。朱よりも血の色に近かった。
 虚空(こくう)でごおごおと風が唸り、真正面から吹きつける風威の壁にさえぎられたかのごとく男は歩みを止めた。
 その塔のゆるい傾斜の上がり口に、ひとりの少女が立っていた。
 
「あんたがこれを造ったのね――“サーヴァント”?」
 伝法な、喧嘩腰の声音だが、どことなく憔悴しているような感じがこもっている。
 男は答えない。鍔広(つばひろ)の旅人帽「トラベラーズ・ハット」を目深にかぶり、
 スカーフで鼻から下を覆って風を避けているため、顔はよく見えないが、がっしりとした身体つきといい、
 色褪せた蒼いローブから覗く戦闘鎧といい、時代錯誤な出で立ちはとても現代人には見えなかった。
 首にぶらさがった赤いペンダントが、少女の思いつめた顔を映している。
 大きな瞳が、男の背にくくりつけられた長弓にそそがれた。
 多くの戦士が愛用する実践型の弓とは異なる優美なカーブを描くそれは、持ち主がさすらってきた膨大な土地と時間を物語っていた。
 返事がないのにいらだったか、少女は、
「その弓は飾り? なら、あたしが貰って定期市で売りさばいてあげる。置いていきなさいよ」
 これで応答がなかったら、問答無用だとでもいう風に、右足を一歩引き、身体を半身にする。
 宝石を提げていた手がゆっくりと横へ上がった。
 すると初めて、男が応じた。
「……何が望みだ?」
 少女はあきれたような表情になった。低い上に風の唸りでよくききとれないが、相手の声は十七、八の青年のものであった。
「なんだ――答えられるじゃない。でも、容赦はしないわ。私たちと立ち合ってちょうだい」
「……追い剥ぎか。それにしては堂々たるものだな」
「馬鹿。金目当てなら、あんたみたいなしけた風来坊など狙うもんか――あんたの腕が見たいのよ」
 ブオンっ! と風がはじけとんだ。少女に付き添うで槍兵である。
 手首で軽く振るったとしか見えないのに、それは不吉な黒い蛇のように落日の光の中で幾重にもしなった。
「いくわよ。――この冬木の地で建築作業をするなら、あたしに許可を得てからにすることね」



「では、お手並み拝見――」
 槍兵にこう呼ばれて、男はいぶかしげな顔つきになった。
 初めの三射で相手を牽制するのが最初の作戦だったからだ。
 だが、次の瞬間には、槍兵が猫のように音もなく、男めがけて疾走していた。
 樹槍の幅広い槍身が赤光にきらめいた。
 カン! と硬い音がした。
 象の首すら撃ち落とす樹槍の連射が胴を削ぎ取る寸前、男が蒼い衣を薙ぎ放った水流が槍兵を襲ったのである。
 いや、襲ったと見えて、その勢いそのままに男は弾かれるように後ろへと飛ばされた。
 また、槍兵の身体には、3バレル相当の水流さえ無効だったのだ。
 またも追撃する撓(しな)った樹槍の刃を見事に避けて、瞬時に数メートル跳ね下がった男を追い、槍兵はなおも肉迫した。
「どうした。弓兵!」
 濡れた髪をなびかせてどっと吹きつけてきた風の雄叫びにも似た怒号が、すり鉢型の塔の底を埋めた。

 三たび横なぐりに襲う樹槍の一撃を避けて、男はもう一度跳び下がった。
 誰の眼にも、なす術もない敗者の行為と見えた。
 反撃を加えようにも、槍兵の腕は、唯一の弱点である踵を棍棒のごとき腕と眼にも止まらぬ健脚で巧みにカバーしている。
「ランサー、負けないで!」
 凛の必死の応援に笑い返したのは男の方であった。仁王立ちになって、彼は大笑した。
「ほら、小娘が泣いているぞ――」
 声はそこでやんだ。




◇◇◇




 表側には『生徒指導に関して・案件・校外喫煙』とある。
 会議には加わらず間桐慎二はひたすら相槌を続けた。
 生活指導の窓口が発言している。
「……えー、2年C組の間桐慎二が授業を抜け出してタバコを吸っていました。
 スーパー三和の裏の駐車場です。えー、三時頃近所の家の人から電話がありました。
 六限の体育をさぼったらしいのです。私と藤村先生の二人で駆けつけたところ」
 見つかっても悪びれもせず吸い続けた。慎二は二人に向かってタバコを投げ付けて笑ったという。
「間桐の喫煙が発覚したのはこれで二度目です」
 甲高い声で説明しているのは吉田である。童顔の老教師だ。
 すぐにでも退室したい気分だった。部屋の中央には石油ストーブが二つ設置されていた。点けてから間がないらしく、まだ肌寒い。
 この世界は現代のバビロンだ。
 いや、と慎二は思い直す。魔窟(まくつ)は至るところにある。ここもバビロンの一つなのだ。
 世界は荒廃している。毎日毎日生活指導の職員会議だ。こんな筈ではなかった。
 不良のマネをするために生徒になったのではない。
 学校は教育の場だ。子供たちを尋問、場合によっては恫喝(どうかつ)するような場にしては断じて許せない。
 にもかかわらず、その信念を曲げてまで僕は連日素行不良を起こしている。
 飲酒、喫煙、暴力、売春。中学生も大人と同じだ。歯止めが利かないという点ではそれ以上でさえある。
 トイレでタバコを吸うなどというのは日常茶飯事だった。
 少し前、授業をさぼってバイクを飛ばしている男子がいた。町中を無免許で走り回っていたのである。
 通報があったが対処できなかった。駆けつけたときには姿がなかったのだ。
 穂群原学園の制服を着ていたという。夏休みにはレイプ事件もあった。
 不良グループ三人組が、帰りの遅くなったテニス部の女子を暴行したのである。
 サッカー部の部室につれこんだのだが、そこには縄まで用意されていたという。被害者は転校した。
 
 荒れている。
 朝起きると胃が重く、頭痛がする。
 今も、頭の芯が痺れたように疼く。僕は鉛筆を置き瞼(まぶた)をもんだ。目を開く。めまいを感じた。
 自分が間桐の後継者だと信じていた頃は学校はこんな所ではなかった。昔は良かった。
 かつて慎二は「昔は良かった」などという輩(やから)を軽蔑していた。彼らは時代に取り残されているに過ぎない。
 約三千年前のバビロニアの粘土板にも、おなじことが書かれていたのである。
 『今の若者は根本から退廃し切っている』『以前のように立ち直るのは、もはや望むべくもない』
 ……これを信じるとすれば人間はバビロニア以来悪くなる一方の筈である。
 そんなことはない。進歩も発展もあった筈だ。昔は良かったなどというのは極めて一面的な見方なのである。
 しかし、その考えは根底から揺さぶられた。心から昔は良かったと思ってしまうのだ。
 時間は連続するものではなく一種の断層を持つものらしい。
 例の粘土板もバビロニアの若者が、現代と同じくらいひどいということを明かしているに過ぎないのかもしれなかった。
 描いたバベルの塔を真っ黒く塗りつぶす。
 最初からひどい学校に来たものだ。最初だから荒れた高校に回されたのかもしれない。
 地元の高校だというからのんきな所かと思っていた。
 古い屋敷とモダンな建て売り住宅が並ぶ町は、ゆったりとして時間がゆるやかに流れているように見えた。
 坂を上ると広い校庭が目に入る。グラウンドの金網に沿ってしばらく歩くと校門があった。
 そこに足を踏み入れた時、望んでいた世界を得た、と思った。
 地獄だった。
 ――若さだけではどうにもならなかった。
 安穏とした世界は徐々に選民志向の高い僕を真綿でゆっくり首を絞めていった。
 不安は胃を破壊した。
 精神クリニックのカウンセリングにも通っている。
 目に見えた効果はない。
 教師の間でも間桐はおかしいと評判だ。男子生徒も避けて通る。鏡を見るといつも青ざめた顔がそこにあった。
 色白で髭(ひげ)が薄い。目の辺りに不健康な赤みがさしている。ひどく険悪な表情だ。
 ノイローゼ……そうかもしれない。何に対しても憎しみを感じる。全てを恨む。
 学校の生徒も職員も、自分をこんな所に送り込んだ周囲も、祖父も両親も妹も……
 ……そうだ。あの生徒は何という名前だったか……昨日の放課後、準備室にやって来たあの赤いコートを着た女は。
 帰り支度をしている時にやって来てくだらない質問を始め、僕をあなた呼ばわりしたあの女子は……
 慎二は唐突に浮かんだその顔に理不尽な怒りを感じた。
 
 



「ピラミッドとジッグラトはどう違うんですか?」
 メカニックじみた無気質な声で、独り言のようだった。
 相手をするのも煩わしい。七時半を回り、腹も減っていた。自然とぶっきらぼうな答え方になった。帰りたかったのだ。
「何で?」
 そんなことが知りたいんだ。試験範囲じゃないだろ?
 妹は少し黙り込んでから、
「あなた、頭良いんでしょ?」
 慎二は憮然(ぶぜん)とした。
「ちゃんとした受け答えをしろ愚図。こっちは質問をした理由を聞いているんだ。
 それに兄貴に向かってあなたとはなんだ? それでも僕の妹か。帰るぞ、僕は用があるんだ」
 切りそろえた前髪の下の目が暗く光ったような気がする。少しぞっとした。
「帰って期末試験の準備でもしろ」
 迎えに来た桜をおいて部屋を出た。逃げたような気分だった。
 施錠は部活で残っている衛宮に任せておけばいい。
 それにしても。
 少女が一瞬見せたさげすむような目付きが忘れられない。
 あいつは何という名前だったか……
 ……そうだ、遠坂、遠坂凛だ。2年A組。授業中は目立たない。他がひど過ぎるせいもある。絵に描いたような完璧な才女だ。
 ……嫌な奴だ。僕を馬鹿にする。なめやがって。気に障る女だ。憎い。
 全く……ちょっとしたことにも憎しみが湧く。何もかもが気に食わない。ぶっ殺したい。


 ……ピラミッドとジッグラトの違いだって? 僕が知らないと思っているのか。
 形は似ている。両方とも四角錐(しかくすい)の建造物だ。
 ジッグラトの形は階段ピラミッド状といわれることもある。
 ピラミッドはエジプト、ジッグラトはメソポタミア。一方が王の墓で、一方が神の塔だ。
 ピラミッドは下にあるものを守り、ジッグラトは上にあるものへと向かう。
 力のベクトルは地と天、全く異なる。ピラミッドは主に前二七〇〇年頃から前一一〇〇年頃建造され、
 ジッグラトは主に前二七〇〇年頃から前二〇〇〇年頃にかけて建てられた。
 前七世紀から前六世紀の新バビロニア時代のジッグラトは、聖書の「バベルの塔」の発想源であるらしい。
 バベル。
 ……何で、ジッグラト、バベル、塔なんて気になるんだ僕は。
 あいつに聞かれたからだ。間桐桜。昨日の夜、犯してやった。
 あの淫売を召喚してから妹は日増しに奇妙なことを言い始めるようになった。
「ヤハウィストはバビロンを訪れた。彼は見た。天に届くジッグラト。そびえ立つ塔。
 エ・テメン・アン・キ。バブ・イリ……バベルの都。
 行き交う言語。アッシリア語、エジプト語、バビロニア語、言葉の混乱。……塔は建っていた」
 


◇◇◇



 淫蟲に囲まれた間桐の修練での生活は、別の意味で私を変えた。
 家でぬくぬくと遊んでいる時には気づかなかったことに、たくさん気づかされたのだ。
 
 とりわけ感動的だったのは星空だった。
 漆黒のカーテンに宝石をぶちまけたような星々――夕方に東から昇ってくるオリオン座。
 その腰のベルトを構成する三つ星と、両肩に位置するベテルギウスとベラトリックス、左脚のリゲル。
 その後から昇ってくるのは、全天で最も明るいシリウスだ。左上には小犬座のプロキオン。
 プレアデス星団の近くには、牡牛座の主星アルデバランとヒヤデス星団も浮かんでいる。
 競い合うように輝く双子座のカストルとポルックス。
 深夜には、南の空低く、竜骨座のカノープスも見えた。その他にも名前を知らない何千という星が輝いていた。

 中学3年のとき行った修学旅行で、夜中にキャンプファイヤーをしていた時のことである。
 東京や横浜では、地上の明かりに邪魔され、こんなにたくさんの星を見ることはできない。
 それはまさに「降るような」という表現がぴったりで、草の上に横になって見上げていると
 自分が無限の宇宙に浮かんでいるような錯覚を覚えた。
 ただ、星空を眺めていて、ふと、その底知れぬ大きさに不安を覚えることがあった。
 なぜこんなものが生まれたのだろう?
 いったい誰がこんなものを創ったのだろう?

 いろんな本はたくさん読んだ。
 それらはどれも私を啓蒙(けいもう)し、無知による迷妄の大波に飲みこまれるのを防ぐ命綱の役割を果たしてくれた。
 実際、私が魔術の教義に感化されなかったのは、科学を知っていたおかげだと言える。

「お勤めとはいえ、大変だねえ、おまえもさ」
 私との情事を終えて、兄は、明るい顔で同情した。
「せっかくのクリスマス・イヴなのに、相も変わらず爺と仲良く蟲蔵で海水浴。
 夜は友達のいないおまえのために、僕が相手しなくちゃならない。
 ほんと、いい年こいて”かなづち”なんて恥ずかしいよ僕は」

 着替えをしながら兄は侮蔑した眼で私を見下ろす。
 たしか去年だったか、私がいつものように蟲蔵で祖父とともに日課の修行をしていたとき
 兄が偶然、修練場の入口を見つけ、その無様な私の痴態を見てしまったのだ。
 快楽の海に喘ぎ鳴く私の痴態を見て、兄はどんな心中だったのか……。
 その日以来、兄は人が変わったかのように豹変し私に辛く当たるようになったのだ。

「クリスマスって本当はそんな日じゃないないんだけどさ。
 その方が儲かるからってお祭り騒ぎをしたり、プレゼントを贈ったり貰ったりする日に
 いつしか変わっちゃったんだよ。ちなみに、僕はこれからデートなんだけどね」
「この前のお医者さんの方ですか……?」
「ああ、あれはもう終わった。今度のは掲示板で知り合った人。学究肌ってのかな。
 なかなか真面目っぽくて、僕好みで、ちょっといい感じ」
 
 私は詳しく訊ねてみようとは思わなかった。
 兄の女性遍歴のめまぐるしさときたら、妹の私でさえ把握しきれないほどだ。
 最新情報なんて、家に帰る頃には古くなるに決まっている。

「おまえはどうなの?そっちにいい男、いた?」
「……いえ」
 私はやんわりと答えた。世界には何千万人もの男がいるのだから、中にはルックスのいい若者もいる。
 みんな性格も私からしたら悪くはない――しかし、彼らに恋愛感情を抱くことなどできなかった。
「そっかー、当然だよね。ま、お勤めもいいけど、もっと僕のように若さを謳歌しなくちゃだめだよ。
 たまには、羽目を外して思いきり遊んだら?さもないと、おまえの青臭いあそこにカビが生えちゃうよ」
「男なんて要らないです。……私には」
「おお、かっこいい!」
 兄はけらけらと笑った。
「でもさ、それって『キツネとブドウ』じゃない?」
 その瞬間、胸をナイフで刺されたような気がした。相変わらず兄はずけずけとものを言う。

 私はまだ恋というものをしたことがなかった。
 まともな恋をしてみたいという想いはあるが、どうすれば恋という感情が抱けるのか分からない。
 それがどんな気持ちなのかは、小説やドラマでしか知ることができなかった。
 それは私にとって大きなコンプレックスだった。
 私の精神には何か欠陥があるのかもしれない。
 普通なら初恋を経験するはずの時期を、この家で逃してしまったせいなのか。
 あるいは、まだ子供の頃のトラウマが回復しておらず、誰かを本気で愛することを心の底で恐れているのか……。

「おっと、言い過ぎちゃったか。ごめんごめん」
 感情を顔に出したつもりはなかったが、兄は例によって、私の動揺を読み取ったようだった。
「分かった。もう口は挟まないよ。おまえの生き方なんだから、好きなように生きればいいさ。
 一生のうちにできることなんて限られてるんだから、やりたいことだけやんな」
「……ありがとう。兄さん」
 
 無論、皮肉だ。
 兄は私を抱いた後はいつもこうして上機嫌に上辺だけの労いをする。
 
「爺さんも心配してたよ。明日でも構ってやんな」
「うん」
「年が明けたら会おう。メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス」
 会話を切って兄が去ると汚れたベッドのシーツを畳む。
 私は少し心が軽くなった気分で、自分の部屋に戻るために後始末をはじめた。

 私は本気で兄に感謝していた。私の新しい人生で家族と呼べる存在があるなら、それは兄だ。
 彼は何もかも自分の思い通りに強制する。私を物理的に助けてくれたことも一度もない。
 私がトラブルにぶつかっても、「自分でどうにかしな」と突き放すだけだ。
 それでも、彼の存在があるおかげで、私は少しだけ楽になれた……。

「お願い。今すぐ私といっしょに来て」

 ドアに手をかけた私は、玄関から聞こえる切迫した声に、はっとして立ち止まった。
 先ほど話題に上がった女医さんが家まで押しかけているのだ。声をかけづらくて、私はついドアの外でたち聞きしてしまった。
 話している相手は兄のようだった。彼女は少し膨らんだお腹に手を当てて兄になにやら真剣な声色で話している。
 最初は穏やかに嘆願していたものの、議論がもつれるにつれてしだいにヒステリックになり
 ついには泣きながら怒鳴りちらしはじめた。
「あなたは自分の子供が死んでもいいの!? 鬼! 人でなし!」
 私はいたたまれなくなってその場を離れた。
 
 私はインターネットで見たニュースを思い出し、悲しくなった。
 アメリカでは中絶反対を唱えるキリスト教原理主義者グループが、中絶を行なっている病院を爆破し、八〇人の死者を出した。
 北アイルランドではプロテスタントとカトリックの反目が再燃し、過激派による爆弾テロや銃撃事件が続発していた。
 インドではイスラム教徒とヒントゥー教徒の衝突が起きていた。
 イランでは、イラク・シーア派の過激派組織が、イラン・シーア派の現体制に対して大規模な武装闘争を展開していた……。
 子供の頃、地下鉄サリン事件の報道を見て抱いた疑問が、また浮上してきた。宗教は人を幸せにするものではなかったのか? 
 なぜそれがこんなに多くの不幸や争いの原因になってしまうのか?
 神様はどうしてこんなにこの世の世情に無関心なのか……。



 そして聖杯戦争までだいぶ迫ってきたとき、思いがけない事件が起きた。
 祖父が突然、ある男に取り入って潜入調査をしろと告げてきたのだ。
 私はその男の自宅のある近所まで赴き、きたる聖杯戦争で障害となりうるか調査するということらしい。
 不安を隠しえない私だったが、続く祖父のターゲットとなる対象の写真を渡されたとき、珍しく私は声を上げて驚いた。


「――――え?」


 そこには、いつしか兄が遊ぶときに連れてきていた赤毛の青年の姿が写されていた。


◇◇◇


 最速の相棒に連れられ、少女たちは最深部から抜け出した。
 ランサーは風を切り、人間では有り得ないスピードで移動していた。
 片手に抱えた凛に振動が行かないように配慮したその動きは芸術的と言ってもいい。音もなく、静かに、しかし速く跳躍する。
 
 ――――危険が迫っている。
 その、避けられない事実を感知したのは少女の方が早かった。

 ……“敵”がゆっくりと近づいてくる。

 それが強大なものと感じ取れるが故に
 ここはもう崩壊すると知るが故に
 彼女は苦渋の顔で無様に逃走の一途を図る。

 ギリシャ神話にてその名を轟かす天下無双の英傑
 イリアス叙事詩のアキレス
 プティアの王ペレウスと海の女神テティスの息子として生を受け
 生まれてから間もなく、母によってステュクス河の水に全身を浸され不死身となる。
 かの強壮な英雄英傑が蔓延る神代の時代。
 名だたる英霊の中で、一際その勇名を轟かせた最高位の戦士。
 その無双の健脚と不死の守りがあれば、どのような敵だろうと恐れる事はない。
 そう自分に言い聞かせて、少女は堪えきれない不安に蓋をした。
 だが。
 敵が間近に迫った時、傍らで槍兵は告げた。
 逃げろ、と。
 あらゆる敵をもなぎ払うと豪語した彼でさえ、目前に迫った“弓兵”には危険と悟ったのだ。
 その瞬間、少女は走っていた。
 そんな事は判っている。
 そんな事は判っていたのだ。
 塔の外壁を崩御させたソレは、自分がいては太刀打ちできるモノではない。
 不吉な影は淡い月光を背にして広がり続け、それこそ巨大な影になって、易々と外壁を乗り越えた。

 ――――なんて無様。

 自分のせいでランサーに多大な悪状況を与えてしまった。
 戦えばもしかしたら負けて、ランサーは自分のサーヴァントではなくなる。
 それが不安の正体だ。
 少女は敗北ではなく、自らのミスでサーヴァントを失う事を恐れて重圧を振り切るように逃げている。
 水没していく塔内を疾走(はし)る。
 不安は消えず、より重さを増して背中にのしかかってくる。
 

 ―――このままにしては逃げられない。
 この不安、恐怖からは逃げられない、と少女は漠然と悟り―――少女、遠坂凛は足を止めた。





「ほう。賢明だな、あの小娘がいては闘えぬと悟って逃がしたか」
 目前には巌(いわお)の如く厳粛に佇む塔の主。
 涜神の王、ニムロデ。
 それがこの塔に入る時に教えられた、神を辱める王である事は一目で判った。

「―――ニムロデ王。聖杯に選ばれてもいないモノが、勝ち鬨の真似事をしているようだな」

 自身のマスターを逃がし、槍兵は敵と対峙する。
 塔の中央最深階。
 頂上からここまで吹き抜けとなってポッカリと空いており
 刻一刻と浸水が進むこの塔からの脱出を、敵の脅威に晒された状態でマスターを連れていくのは
 非常に危ういと判断したランサーは、自分が此処で殿(しんがり)を努め
 敵を迎え撃とうと決断したのだ。
 その瞳に恐れはない。
 自身が脅威を感じたモノは、間違っても目前の敵ではないのだから。

「ふむ。聖杯に選ばれる、などとつまらぬ事を。
 聖杯は勝者など選ばぬ。聖杯とは受け皿にすぎぬもの。そこに意思があり聖別をするなどと、
 貴様まで俗世の触れ込みに毒されたか?」
「…………………………」
 つまらなげにに嘆息する弓兵を、槍兵は冷淡な瞳で見つめる。

 ……たしかに奴の言う通り、聖杯は選ばない。
 マスターは聖杯に選ばれ、サーヴァントは聖杯の力でカタチを与えられ、マスターによって現世に留まる。
 その前提(ルール)は、意図的に歪められて伝わったものだ。
 聖杯戦争の目的が逆である事を弓兵は知っている。
 そして、薄々感じていた疑問を抱えていた彼も、敵の言葉を聞いて確信した。

 聖杯はただ注がれるだけのもの。
 マスターは選ばれるのではなく、ただ儀式の一端として用意されるだけのもの。
 そしてサーヴァントとは、ただ門を開ける為だけのもの―――

「だが、心配には及ばぬ。貴様の憂いもここまでだ。事は成りつつある。
 予定では杯を迎え入れて儀式で行う筈だったが、今回は駒に恵まれていてな。我が悲願はあと一手で叶おうとしている」
「勝手にしろ。貴様の下種な企みなど興味はない。大人しく宙の外へと還れ」
「言われるまでもない。この身に現世(うつしよ)の陽光は眩しいのでな、事が済めば早々に古巣に戻る。
 だが―――やはり、こうも上手くいきすぎると逆に不安が大きくなる。
 万が一のため、此処で確実に貴様の霊魂を貰い受ける。ここで<鍵>を押さえておけば、我が悲願に憂いは消え去る」
 
 ―――弓兵に鬼気が灯る。
 蒼い衣に小波(さざなみ)が発ち揺れ―――

「『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』」

 囁きとともに、低く唸りを上げながら塔内の海水を全身に纏い、なお膨張を続ける。

「―――忌まわしきは神の僕めが」

 不快さを隠す事無く吐き捨て、ニムロデはパチンッと指を鳴らした。
 響いた音は思いのほか軽快だったが、次の瞬間放たれた高圧縮された水弾が一変して凶悪な唸り声を上げた。
 それは一瞬の事。
 轟音とともに水飛沫をあげ、階下を吹き飛ばさんと神秘の砲撃が、槍兵に向かって殺到する。
 目の前に迫る無数の死の雨を見据え、身動きすら取らず、槍兵はただ静かに見つめた。
 直撃すれば、瞬きする間もなく肉片すら残らない赤い霧と化すであろう、末路を辿るのは必至。
 しかし―――。

 穿たれた水面の上には既に槍兵の姿はなく、飛沫を上げて水面が揺れるのみであった。
 そして唐突だった。
 何の前触れもなく、互いに呼吸を合わせたわけでもない。
「ハァッ!」
「フンッ!!」
 しかし全く同じタイミングで、二人の武器が交錯した。
 ランサーがまるで滑るように壁面を走り、残像を残すほどの加速を経て全身で槍を突き出す。
 そのスティンガーミサイルのような一撃を迎撃するべく、自身の剣が同じく人外の速度で突き出された。
 激突と同時に火花が散る。

 そして、アーチャーの剣が弾き飛ばされた。
「くっ!」
 速度と体重、そして魔力。その全てを一点に集約した体全身をバネに使った刺突は
 アーチャーの力を押し切るだけの威力を秘めていた。
 しかし、その一撃は槍を逸らされたランサーにもわずかな硬直を与える。
 刹那の空白。
 そしてコンマ1秒遅れて大量の海水が吹き上がりランサーを追い撃つ。
 だが、捉えたと思いきや、またも目にも止まらぬハイスピードで後方の壁面に着地するやいなや
 走り抜いていく。

「ハッ!」
 鋭い呼気と共に、アーチャーが手に持ち替えた弓矢と水弾の連撃を放つ。
 マシンガンのように撃ち出された先は無数の<点>の攻撃。全てを捉えるコトなど不可能だ。

 狼のそれに似た雄叫びと共に、魔力が爆裂した。
 すくい上げるようなトネリコの槍の斬撃が、飛来する圧縮水弾を空高く打ち上げる。
 アーチャーの放った必殺の絨毯爆撃は虚しく霹靂に消えていく。海水の余波がランサーの頬を撫で付けた。


 ―――『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』のキレが鈍い。
 ニムロデは表情には出さぬが、海龍神(リヴァイアサン)の力の一端を行使できない事実に
 苛立ちを隠しえなかった。
 だがそれは、賊がこの塔内に侵入してきたときに既に分かっていたことだ。
 七大悪魔の一角であるリヴァイアサンの皮で作られ、思念が宿った衣。
 遍く外敵を呑み込み、あらゆる武器も通さぬ魔宝具であり、単一で莫大な魔力・海水生成と対軍規模の攻勢防壁となる
 涜神の王、ニムロデが最も信頼を厚くする十八番であるが、強力であるがゆえに一つの弱点がある。
 

 曰く、最後の審判の日に神により打ち殺され、砂漠の人々の食料になるとされている
 

「驕りの王」と称される海獣は、神の供物になるという側面も合わせ持っており
 神の眼前においては、成すすべなく頭を垂れる。
 つまり、海龍神(リヴァイアサン)の力の一端を行使する『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』は
 神の列席に連ねる者の前では、その力を大幅に抑制されてしまうのだ。
 

 危険事項など先刻承知。
 我が挑むは、宙の外。
 次元の遥か高き処に在りて、全ての始原にして終局。
 もっと先へ。
 もっと前へ。
 あの風を越えて、我は、天上に住まう神上を打倒する――――!


 放たれた矢は、標的に向けて一斉に飛び掛かった。
 一本一本の狙いは甘いが、数にモノを言わせてランサーを追うように降り注ぐ。
 烈火。
 穂先が壁面を鳴らす度に噴き出す炎が闇を切り裂き、人智を超えたフットワークによって無数の矢と水弾が中空に突き刺さる。
 そして、重力が無視された。
 馬鹿げた速度で動くランサーによって、空気を切り裂き、激しい衝撃と爆音が渦を巻いて塔内が荒れ狂う。

 超音速の嵐でどんどん小さく削られながら、空中で小刻みに跳ね回る。
 その死のお手玉を止めるべく、背後に待機していた超高圧縮された極大の水槍が一斉に襲い掛かった。
 空中で射撃を繰り返しながら、膨張を続ける『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』は
 旋回を続けるランサーのみならず、一閃させて近寄ってきた瓦礫や足場となる塔壁を掃射する。

(足場を崩せば――――!)
 右へ撃ち、上空へ撃ち、左と正面に叩き込んだ後に再び怒涛の水流が揃えて弾丸を吐き散らす。
 忙しなく動き回る白の獣の咆哮は、しかし確実に足場を狭まれていた。



   ◇◇◇


 風の音がする。
 通路を震わせ戦場を駆け抜けるソレは、どこかで聞き覚えのある風鳴りだ。
「――――――――」
 段々と地響きが大きくなる。
 ……発信源に近づいているのだ。
 おそらくはこの通路の向こう。
 もう目前に迫った、路(みち)の向こうで、最強を競う戦いが行われている――――
「!」
 足が止まる。
 足場のない、開けた広場に出ようとした瞬間、全力で足を止めて身を隠した。
「ランサー……!?」
 凛も身を屈め、広場の惨状を直視している。

 ―――広場は、文字通り戦場だった。
 刃を交わらせるサーヴァントは二体。
 その眼前で、世紀を越え、神話の時代に語り継がれた大英霊の闘争が展開されていた。
「……ちょっと。アレ、まさか」
 声が震える。
「――――――――」
 繰り広げられる神代の激戦。
 援護を―――ランサーの援護をしなくてはいけないというのに、喉がうまく動かない。
 わたしの魔術は狙いが甘い。
 ランサーがアーチャーから大きく離脱しないかぎり、ランサーごと巻き込んでしまう。
 そんな隙、アーチャーをますます有利にするだけだ。

 ……それに、そう。
 正直、わたしは見惚れていた。
 これがサーヴァントの戦い。
 魔術師(わたしたち)では手の届かない最高ランクの使い魔――――英霊を使役する、聖杯戦争そのものなのだと。


「――――!」
 旋風と化した槍兵が雄たけびを上げる。
 岩山をも砕かんとするアーチャーの一撃は虚しく宙を切り、地面を吹き飛ばす。
「――――――――」
 ソレは乱れ飛ぶ壁塊に怯みもしない。
 
 苦悶はアーチャーのものだ。
 あらゆる攻撃を無効化しかねない鋼の水体。
 既に足場となる階下は10M程水没し、アーチャーを包む海水は全長30Mをも超える巨体となり
 なお膨張を続け、有り余る備蓄を文字通り湯水のように破壊の散弾として
 辺り構わずぶちまける。
 それを、疾駆するランサーは苦もなく回避を続ける。

「――――はっ!時間稼ぎのつもりか!!」

 アーチャーが苛立たしげに悪態を吐き捨てる。
 それと同時に彼の背後に潜む魚群の嵐を吐き出した。
 大小様々な魚群が文字通りの雨となって、無作為に降り注ぐ。その圧倒的な数には誰もが目を疑うだろう。
 だが―――。
 上下左右、慣性、重力に囚われぬミサイルのような超高機動でひたすらアーチャーの周りを旋回し
 なおも捉えるに至らない。
 だが泰然と地上に構え、アーチャーの猛攻を回避するのみでは打ち崩す事など出来ない。
 いかにランサーが目まぐるしく跳び回り死角を突こうと、アーチャーを覆い包む海水によって超高圧縮された
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の防壁を破る攻撃手段がない。
 いかに宙を駆けようと、刹那に消え行く流星に太刀打ちできる道理はないのだ。
 
 ――――だが
 次の瞬間、アーチャーの動きが止まった。
 
(――――なに?)


『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の海流操作に支障が出ている。
 残存魔力が知らぬ間に尽きかけているのか?
 ……いや、自身のマスターは今も生贄の祭壇の中で、滞りなく魔力回路を繋いでいる。
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の出力も変わりはない。
 ……ではいったい……。

 異変はすぐに起こった。
 アーチャーを包む海水が、ランサーの旋回と動きを同じくするように流れ放れていくのだ。
 そして眼前のランサーの軌跡が光となって残像を作り、なお加速を続ける恐ろしさに背筋を凍らせた。

 ランサーの魔力によって構成された身体が光の粉となって残滓を残し、小規模な爆発にも似た残像と衝撃を刻み込む。
 着地点のインパクト部分から黒い煙を上げ、ランサーは足を踏ん張った状態でなお走り続けた。
 だが、それは嵐の始まりでしかない。
 そのまま一気に畳み込むべく、残された全魔力を疾走に注ぎ込む。
 爆炎のような魔力の奔流がアーチャーの周囲を包むと同時に、音速の彼方へ駆け進む<魔人>が其処に出現した。
『ォ■■■ォオ゛オ■オ■■■ーーーッ!!』
 魔人が吼える。
 そこからはもう、滅茶苦茶だった。
 右拳が砲弾のように飛び出して、アーチャーの水体を弾き飛ばすとほとんど同時に
 左のトネリコの槍が抉り込むように背後へ吸い込まれる。
 火達磨になる標的に対して左右の蹴りが流れるように決まった。
 衝撃でアーチャーの両手は無防備にぶら下がり、もう完全に死に体となった敵に向かってダメ押しとばかりに
 掬い上げるような蹴りが炸裂する。
 これらの攻撃は全て流れるような一連の動きであり、猛り狂った火炎を纏うデタラメな打撃の嵐だった。
 その爆熱、苛烈さは赤い太陽を思わせる。
 其れは、まるで近づけば燃え尽きる巨大な恒星のようだ。

『■■■ァ■■アア■■■■ァ゛ーーーッ!!』
 アーチャーを中心にして豪炎と竜巻が荒れ狂う。
 従えれば強力な威力を持った武器となるこの海水も、今は所有者の身を縛る牢獄でしかない。
 自らを包み込む地獄の業火に、アーチャーは声無き絶叫を上げて悶え苦しんだ。沸騰を続ける水体を炎は容赦なく焼き続ける。
 だが、その<試練>が終了する事など無い。

 下方から瞬く閃光が闇を切り裂き、発射されたロケットのような一撃、ランサーは頭から飛び込むような体勢で突き進んだ。
 弾丸が目標に到達する時間は本当に一瞬だが、結果それらは全てアーチャーを覆う超高圧縮された海水の防壁に止められてしまった。
 カバーされていない体の何処にも当たる事無く、両腕を中心にして全身を覆うように吹き上げる蒼白い海水は
 常軌を逸した温度によって瞬く間に溶けて蒸発していく。
 閃光となった規格外の魔弾が魔法のように無効化する。文字通り悪魔の為せる業だった。
 

 だが知るがいい悪魔を繰(く)る者。
 怪物は英雄によって破られる。
 其の因果の呪縛は、この槍兵にも例外なく存在するという事を。


『ォ■■■ォオ゛オ■オ■■■ォ■■■ォオ゛オ■オ■■■ーーーッ!!』


 止まらない。
 水面にさらに眩い閃光が発し、屹立した光の柱が周辺の壁を青白く染める。
 アーチャーを覆う巨体を押し上げ、なお加速を緩めず
 次の瞬間にはそれらの輝きも遠ざかり、凍てついた常闇から一転、
 アーチャーの視界には赤く灼熱した気流の筋が見えるもののすべてになった。


「――――こ、いつ!!」


 爆発の光球が飛散粒子に混じって光の柱を飾り、衝撃波が塔内の砂塵を吹き上げる。
 常軌を逸して荒れ狂うプラズマの嵐。
 ランサーは、アーチャーの巨体から下方へ漏れ出る海水の濁流、そして自らが発生させた極炎の風爆嵐(サイクロン)
 が塔内のへ反響して発生した「定在波」を駆け上り
 青い稲妻に似た光が水面を進み、熱と衝撃で歪んだ空間が、二人を中心に巨大な波紋を広げてゆく。


「――――化物か――――!!」


 槍が胸に突き刺さる。
 赤い吐瀉物を吐き散らし、アーチャーの視界が暗転する。
 塔の天井の眼前まで辿り着いたランサーは、突き出されたままの腕を振り払い、共にアーチャーを逆さまに弾き飛ばした。
 天上から奈落へと圧し進む逆しまの帚星(ほうきぼし)。
 なにも考えられないまま、アーチャーは摩擦熱に焼かれるランサーを見つめた。
 即死を阻止できた安堵感もなければ、これで死ぬという恐怖然もなく、
 ただ自分がこんな初戦で敗れてしまったのか、と思いついた時だけ、
 それは哀しいという感情がぼんやり浮かび上がったが、振り切れた神経が感じられるのはそこまでだった。
 アーチャーを覆う大量の海水が大気の摩擦熱を軽減しているものの、しょせんは焼け石に水でしかなかった。
 灼熱に曝された全身はぼろぼろ崩れ
 黒ずんだ皮膚の破片はそのまま焼失するように見えたが
 砕け散った粉のひと粒ひと粒が金色の輝きを放って、摩擦熱に焼かれることなく地上を目指した。




 地下のフロアに戻ったランサーが荒く息を吐く。隠し切れぬ疲労が表れていた。
 本来、身体の魂・及び魔力で構成して蓄えるサーヴァントの肉体に対して、加速の爆発力を得る為とはいえ
 音速を超える超高加速によって磨耗して大量に費えてしまったのだ。
 魔力の流れは一方通行、消耗など半端ではない。

「ランサー!」

 自分を呼ぶ声はマスターのものか。
 上を見上げると、凛が顔を出して手を振っている。
 ランサーの前には自分に敗れたであろうアーチャー。
 
 ……その足元は深い湖になっていた。
 地面は土ではなく、底なしの海水になってアーチャーは水底に沈んでいる。
 そればかりではなく、先の闘いによって崩れた瓦礫が次々と雪崩れ落ち
 アーチャーの姿を確認することはできない。

「もうここはもたないわ!早く脱出するわよ!」

 ……手ごたえはあった。
 自身の眼で、奴の消滅を確認したかったが時間はない。
 疲労を圧し留めるため眼を瞑って大きく息を吐き、凛の下へ駆けようと背を向けたその時
 一瞬、「………………」
 何か、よく知っているモノが見えた、気がする。






 アレは間違いなくあの“蒼い影”だ。
 





「――――!」
 一際高い衝撃で目が覚める。
 凛の身体を巨大な蒼い腕が彼女を覆い掴み、けたたましい咆哮が耳を劈く。
 そのまま、水の化物はランサーから逃れるように上昇し
 ランサーは即座に追走を開始した。


「――――なっ!」

 だが、ランサーを包むように上からは瓦礫の山と巨大な海水の膜。
 そして覆うように周囲と下から濁流が襲いかかってきた。

「―――愚か者め」
「ちいっ!!」
 焼け火箸を突っ込まれたような痛みと衝撃に、思考が破裂して白濁する。
 遥か上空から一発、二発、と無慈悲に引き絞った弓が引かれ続け、穿たれた痛みが消える事も無くなお走り抜ける。
 崩壊の悲鳴を掻き消すように濁流の轟音は何度も響き渡った。
 タフさには比類なき自信を誇るランサーだったが、これはもう耐えられるレベルを超えていた。
 左頭部が吹き飛び、胃袋に穴を空け、腸を破る衝撃が脊椎に到達して胴体を両断しなかったのは、
 一重に卓越した槍技と比類なき健脚のおかげだ。
 一度でもまともに直撃であったら、彼の体は真っ二つになっていただろう。
 もちろん、それが『威力が低い』という意味に繋がるワケではない。

 ……状況は、絶望的だった。
 アーチャーは強い。
 サーヴァントとしての実力は互角かそれ以上だとしても、ランサーは刻一刻と自由を奪われていく。
 ……なら。
 その伯仲した実力(てんびん)は、秒単位で涜神の王へと傾いていくだけだ。
 
「――――ふむ、勝負あったな。
 だがこれ以上ここにおっては巻き添えをくらいかねん、が彼奴が飲まれぬまでは退けぬ、か
 ――――ならばこうするだけだ」
 
 アーチャーの姿が霞む。
 火花を散らすような、デッドチェイスの最後に天井間際に辿りついた両者は
 睨みあうように10Mほどの間隔を空けて対峙する。
 既に塔の浸水は天井間近まで迫り
 そしてヤツは、その凛を覆う海水の巨大な腕を真横に伸ばし壁の向こうへ離れていく。

「……よいか。この深海に放った我が眷族は目につくモノならば見境なく呑む。
 それが魔力の塊ならば尚の事だ。あの娘、むざむざ呑まれる事のないようにな」

 ……姿だけでなく、気配まで薄れていく。
 アーチャーは消えた。
 塔に残ったものは凛と周囲を覆う深海の魚群。
 そして、槍を高々と掲げた、満身創痍の戦士の姿だった。

 戦士は、咆哮と共に死地へと前進した。
 その前進は、暴風としか見えなかった。
 ランサーは地面を、海中へと沈みこんだ黒い魚影を蹴散らしながら突進する。
 それは、あり得ない行動だ。
 ランサーの動きを封じているのは水中の水圧のみでなく、バベルの塔全域に施された幻惑の結界
 によって凛の追跡を阻害し
 そして、黒い魚影は全身に絡みついて動きを縛している。

 どれほど進んだか
 ランサーはようやく堅牢な牢に囚われた凛を見つけるに至る。
 眠るように漂う彼女を抱き、すぐに脱出を図ろうと転進しようとするも
 その行く手を阻まんと鮫の魔獣たちが襲いかかる。
 進めない。
 黒い魚影に体を捕食されたランサーは一歩たりとて動けない。
 故に、槍兵はその身を裂いた。
 片手で胸を掴み、バリ、という音をたてて、黒い魔獣を引き剥がした。
 
 ―――絡みついた肉ごと、骨が覗こうというまで、自らの肉を剥いだのだ。
 槍兵が迅る。
 旋風を伴う魔獣の一撃は、今度こそ血みどろの戦士の頭を噛み砕く。
 
 おそらくは槍兵の最後の一撃。
 自らの肉を剥ぎ、瀕死になりながらも放つ一槍が必殺でない筈がない。
    
 槍兵が走る。
 足元に広がる魚影が見えないかのように、一心に海上へと走り出す。
 水面が見えてきた。

 ランサーはかろうじて耐え切っていた。
 負傷云々のレベルではなく、ただ人体の原型を留めているという状態で生き残っていた。



「私が嫌悪する神の血によって、今のお前は生かされている……」
 

 二人の行く手に立ち塞がり、凛を抱え槍を構えたまま塔壁を走るランサーを見下ろし、
 アーチャーは言い聞かせるように呟いた。

「実に愚かだ」
 冷たく断言し、アーチャーは『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』を発動した。
 放たれた水槍が篭手の放つ槍の一撃に飲まれてあっさりと溶解する。
 
 霞む目でランサーは憮然としたアーチャーを見つめる。
 反撃の意思はあるが、それを実行するだけの力はもう残されていなかった。
 傷ついた身体を維持をし、霊核を保持するだけで精一杯だ。

「何故、更なる力を求めない―――?」

 アーチャーは問い詰める。答えをはぐらかす事を認めない、強い威圧感が滲んでいた。
「求めろ、それだけで手に入る。お前だけの力が」
「……おい、無茶言うなよ……。死にかけの、人間にさ…………っ」
「違うだろう、アキレス? 気付いているはずだ」
 虫の息で言葉を返したランサーは、向けられる眼光に射竦められて苦笑いした。

「人間ならば限界だ―――だが、お前は<人間>ではない」
 彼が放つ言葉は、彼が越える事を拒んだ<境界>を無慈悲に踏み越えた。

「異界の存在である神の血は、この世で力を振るう為にこの世の依り代を必要とする。
 真の力を発揮できる『生きた』依り代を。
 理解している筈だ、アキレス。お前の中の神の血が目覚めた時から、この原理が持つ真の意味を……」
 
 その全身からは、鳴動する魔力の気配に共鳴して海中を浸食し、ランサーたちを囲うように
 立ち昇っていた。
 その強烈な気配が、ランサーの中の<闇>を呼び起こす。神の力を持つもの同士、共鳴するように。

「―――神でも人間でもない、中途半端な存在。ゆえに貴様はその条件を全て満たしている」

 ドクンッ、と。弱々しかった心臓の鼓動が強まった。まるで体の中から全身を震わせるような、力強い震動が重く響き渡る。
「―――ッッ!!」
 やめろ、とランサーは叫んだ。だがそれは声にならなかった。
「神の血肉を備えた人間。矛盾する肉体を持つお前は座へと繋がる神の座の依り代としても有効だ。
 だからこそ貴様はその真価を限界以上に発揮し、この現世(うつしよ)から消え去った
 神の力を限定的ながら再びこの世に現す事が出来る。
 ……だが、それは本当のお前が持つ力ではない。
 神の血を自覚しながら、それを人間として否定するお前は未熟だ。
 力の発現に外部からの干渉を必要とする。
 他の神々の力の共鳴、貴様の真の力を引き出す何らかの<鍵>、それらが無ければお前は凡俗な英霊とそう変わらない」

 やめろ、と何度も叫ぶ。
 それらは全て声にならず、逆に耳を塞ぎたくなるアーチャーの言葉の一つ一つが浸透して、本能が理解しようとしていた。

「人とは異なる力など、半神にとっては魂が発する叫び、魂が抱く感情の発露に過ぎん」
 
 思い当たる事など山ほどある。
 対等以上の敵と対時した時に感じる、闘争心とは違う魂の高揚。
 あれは自分の中に眠る神の血が目覚めようとする前兆ではなかったのか。
 
 パトロクロスがヘクトールと戦って殺され
 親友の死に激怒した自分はヘクトールとの死闘の時、あの窮地で巨岩を手にした時にはソレがはっきりと感じ取れた。
 他者の干渉という不純物の無い、確かな魂の波動が。
 これまで封じてきた己の半身の凶暴な雄叫びが聞こえ、そしてそれに自分は気付かず歓喜していた!
 あの時のアレこそが。あの力、あの姿こそが、自分の中に潜む<神>の本当の姿だったのだ―――!

「お前は自らの魂の訴えから耳を背けようとしているだけだ。」

 否定したいのにそれさえも出来ない。沈黙が肯定であると、分かっているのに。

「求めろ。母の、海の女神テティスの力を―――」
「…………やめろ」

 ようやく、声を絞り出す。
 自分でも驚くほど冷たく、重い響きを持つ声だった。
 目の前で語る、自分と同じ神を嫌う男を黙らせたい。
 それは奴を否定する怒りから来ていたが、皮肉にもその敵意が彼の中の神の血を更に滾らせた。
 力尽きていたはずの体に熱が篭もり、握り締めた手のひらは骨が軋む程力強く震えている。
『厄刻む不治の樹槍(ペリオン・アッシュ)』 の槍身へ目に見える程の紅い魔力が蓄積されていく。
 全てを出し切った筈の体の中で、何かが爆発しようとしていた。

「そうだ、それでいい。お前自身の意思が<鍵>になる」
「黙れ……っ!」

 感情が爆発する。

「解放しろ、己の全てを」
「うるせえ!!」

 心が爆発する。

「その上で―――」

 その身から立ち昇る自分と同じ神の力の一端
 ―――正真正銘、文字通りの<魔力>を見据え、ニムロデは静かに宣告した。

「お前の全てを戴く」

 魂が、爆発する。

『―――ッ■ァ■ア゛アア■■■■■■■ーーーッ!!!』

 アーチャーの完全な敵対の言葉と同時に、ランサーの中で全てが弾けた。
 自分を抑えていた自制心、意思、感情、あらゆる枷が。何もかも吹き飛んで、魂だけを剥き出しにした。



◇◇◇


「――――先輩、覚えてますか?」
 夕暮れの帰り道、私は言った。
「……? 覚えてるかって、なにを」
「ずっと昔の話です。わたしがまだ、先輩を知らなかったころの話」
「えっと、つまり桜と知り合う前の話か……?」
「はい。四年前、わたしが進学したばかりの頃です。
 まだ新しい学校に慣れてなくて、あてもなく廊下を歩いている時、わたし、不思議なものを見たんですよ?」
 
 赤毛の青年、衛宮士郎の家に押しかけるように通いつめて、もう大分経つ。
 私は高校に進学し、先輩との生活に大分馴染んできたある日のことだ。

「……うん。あれはいったいどういう経緯だったんでしょうね。
 もう放課後で、グラウンドには陸上部の人もいないっていうのに、誰かが一人だけで走ってたんです。
 何をしているのかなって見てみると、その人、一人で走り高跳びをしてました」

 くすり、という音。
 それは微笑ましい記憶のせいなのか、最近じゃ自分でもわかるくらい自然にに笑えるようになった。

「真っ赤な夕焼けだったんです。校庭も廊下もみんな真っ赤で、キレイだけど寂しかった。
 そんな中でですね、一人でずっと走ってるんです。
 走って、跳んで、棒を落として、また繰り返して。
 まわりには誰もいなくて、その高さは超えられないって判ってるのに、ずっと試し続けてました」

 近頃は生活が充実してきたと思う。
 厳しい修練、兄の執拗な嫌がらせは今も続いている。

「頑張ればなんとかなるって問題じゃないんですよ? 
 だってその棒、その人の身長よりずっと高かったんです。
 わたしから見ても無理だって判るんだから、その人だってとっくに飛べないって判ってたと思うんです」
 
 でも、この不思議そうな顔して首を傾げる先輩に
 温かく迎えてくれて
 優しくされて
 私の冷たく強固な心の檻は
 春の暖かな木漏れ日によって、雪が少しずつ溶けていくように
 癒されていった。

「わたし、その時よくない子だったんです。イヤなことがあって、誰かに八つ当たりしたかった。
 失敗しちゃえ、諦めちゃえって、その人が挫ける瞬間が見たくなって、ずっと見てたんです。
 けど、なかなか諦めてくれないんですよ、その人。
 何度も何度も、見ているこっちが怖くなるぐらいできっこないコトを繰り返して、ぜんぜん泣き言を言わなかったんです」
「……はあ。そりゃよっぽど切羽詰ってたんじゃないのか? 明日がレギュラー選定で、その高さを跳べないと選ばれないとか」
「いいえ、それは違います。だってその人、陸上部でもなんでもない人でしたから」

 でもそれも
 いつまでこの生活が続くかわからない。
 お爺様が、もしかしたら次回の聖杯戦争の開催がかなり近いかもしれないと仰っていた。
 
「それでですね。わたし、見てるうちに気が付いたんです。その人、別になんでもいいんだなって。
 今日たまたま自分の出来ない事にぶつかって、なら負けないぞって意地を張ってただけなんです。
 そうして日が落ちて、その人は一人で片付けをして帰っちゃいました。
 すごく疲れてるのに、なんでもなかったみたいに平然とどっか行っちゃったんです」
「……わかんないヤツだな。けどやめたってコトは跳べたんだろ、そいつ。それ、何メートルぐらいの高さだったんだ?」
「あはは。これがですね、結局跳べなかったんです。
 その人、三時間もずーっと走って、どうやっても自分じゃ跳べないって納得しただけなんです」
「うわ。オチてないな、その話」
「はい。あんまりにも真っ直ぐすぎて、その人の心配をしちゃったぐらいです。
 その人はきっと、すごく頼りがいのある人なんです。
 けどそこが不安で、寂しかった」

 そうなれば、この夢のような生活も終わりになる可能性がある。
 先輩の参加の可否を問わず、この家の調査は終了と判断され
 家に行くことができなくなるかもしれない。
 私が聖杯戦争に参加を命じられ、そこで命を落とすかもしれない。

「……はあ、話は分かったけど。それがなんだってんだよ、桜」
「いえ、分からないのならいいんです。わたしにはそう見えただけで、その人自身にとっては日常茶飯事だったということで」
 さっきの暗さとは一転して、私は柔らかな笑みを浮かぶ。
「…………」
 
 ――――でも、少しだけ。
 ――――あと、少しだけ
 

「……あー、桜。つまり、それは」
「はい、いまわたしの前にいる上級生さんでした。
 あの頃は小柄だったから、同じ学年かなって勘違いしちゃったんです」
「そういうコトです。わたし、その時から先輩のことは知ってたんですよ」
「そ、そっか。それは、初耳」
「はい。わたしたち、おなじものを見てたんです」


 このままの生活が続けたい。


 祈るような仕草で、私は言った。
「え……?」
 聞き返すように先輩は声をかける。
 が、それを遮るように、聞きなれた17時の鐘の音が鳴り響いた。

「――――あ。鐘、なっちまったな」
 
「さすがにこれ以上藤ねえを待たすはやばいよな。早く帰らないとな?」
「はい、今日の夕飯は楽しみにしててください」




◇◇◇



 ランサーを中心にして大渦が巻き起こる。
 死にかけだった肉体から噴き出すおぞましい魔力がその正体だった。
 周囲の海水が震撼し、夜の闇が怯えるように震える。
 二人のバトルフィールドを覆うバベルの結界の近くにいた全ての生命が無条件に恐怖した。
 
 それは、一体の神人がこの世に発現した証だった―――。

「……そして兵卒たちは、いばらで冠を編む……」
 変貌したランサーの姿を見つめ、アーチャーは初めて僅かな愉悦の感情を含んだ笑みを浮かべた。
 先ほどまでランサーが立っていた場所に、同質の、全く異なる存在が佇んでいた。
 針金のように逆立った金髪と、背中から生え出た一対の異形の翼。
 硬質化し、外皮となった裸身の上を血脈のように縦横無尽に走る無数の亀裂。
 握り締めた『厄刻む不治の樹槍(ペリオン・アッシュ)』 に宿る紅蓮の魔力は、
 その槍身を形は同じなれど全くの<別物>に変えてしまっている。
 変わり果てた顔に刻まれた瞳に宿るのは『理性を失った剥き出しの殺意』と『狂気に染められた意思』―――。
『……』
 神人となったランサーは、先ほどの軽口の陰も見せず、無言でアーチャーを視線で射抜いた。
 アーチャーの口元から笑みが消える。

「……よかろう!地獄の門にかけて!明日は私か、貴様かだ!」

 呟くと同時に、アーチャーも一瞬で戦闘態勢に構える。
 相対するように発生する蒼い魔力の奔流が全身を覆い、荒れ狂う海流の中で数多の魚影が周囲を覆う。
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』は海中に接する限り
 無尽蔵の魔力と海龍神(リヴァイアサン)の最大出力を用いることができる。
 その姿は、精鋭英傑を背に君臨する覇王のそれに違いない。
 胸には槍で穿たれた傷が荒々しく空き、身体に傷がないところを探すのが困難なほどの深手を残したままである。

 それでも両眼に宿る光は神への狂気と怒りを滾らせている。

 ―――それと同時に、アーチャーの蒼衣に宿るリヴァイアサンの衣が蒼く燃え上がり、その悲鳴を上げ始めた。
 
 悲鳴はリヴァイアサンの断末魔だった。
 ランサーから放たれる神威に共鳴して、もがき苦しんでいるのだ。
 それが高密度の神体である半神の魂ならばなおさらだ。
 その悲鳴にアーチャーはさして抵抗を感じない。
 相手は人でも神でもない半端な存在だ。その曖昧な自身に対する苦悩と憎悪は永遠に彼を苦しめる。
 そして、その痛みこそが彼の付けこむ隙となりうる。
 アーチャーが再び自らの弓矢を持ち上げる。
 二体の人と神人。彼らは再び対峙した。人を超えた力と存在を只人の力を以って手折る。
 

 夜の闇に満たされ、人工の明かりがまだ眠る時間ではない事を現している冬木市。
 その町から数キロ離れた海の底。
 それは一見するならば、まるで光の彗星。淡い残光を残し、紅と蒼の光が尾を引いて瞬き、そして静止する。
 
 それは人だった。
 人のカタチをした者だった。

 アキレスとニムロデ。それぞれが人としての名を持つ英霊が二人。
 涜神の塔から海中へと戦場を変えて、二度目の対峙をしていた。
 神人の形態となったアキレスはその背に生えた禍々しい翼と魔力によって。
 ニムロデもまた『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』 、その力によって潜行していた。
 
 重力、水圧抵抗、魔術、術式、全て意に介さず。
 まるで其処だけが、世界の常識から切り離されてしまったかのような異常―――。
 その許されざる異界の光景を、世界が許したのはもう遥か古の時代。
 人が今も語り継いでいる、<天使>や<悪魔>と呼ばれる者達が存在した神話の時代だった。
 これはその再現に他ならない。
 
『―――!』
『―――!』
 互いに吼えた。
 口から出た言葉が人間のモノであったのか、それともそれ以外のモノであったのか、聞き取れた者はお互いしかいない。
 アキレスとニムロデは各々が持つ得物を構え、そして海を駆け出した。
 
『『■■■■■■ーーーッ!!』』
 声無き叫びを上げて、紅い神人と蒼い涜神の王が激突する。
 神人アキレスの放つ突撃槍。
 頭から飛び込むような体勢でありながら、
 あたかも充分な踏み込みを以って放たれたかのようなソレをニムロデは下に潜り込む事で回避する。
 海の女神・テティスの力を解放したアキレスの健脚は、足裏で水を踏み鳴らし地を駆けるかのように
 海中を走り抜ける。
 ニムロデに付き従うは幾百の海中の魚群。
 二人は擦れ違った後一瞬で間合いを離し、
 そして一瞬で身を翻そうとするアキレス目掛けて魚群が一斉に襲い掛かった。
 夜空に炸裂弾のような光の爆発が連続して巻き起こる。
 それは剣同士がぶつかり合う金属の火花だけが原因ではない。同時に激突する凶暴な魔力の爆発と相殺の結果だった。

 海という広大な戦場を存分に使って行われる、文字通り人智を超えた大激突―――。
 海に愛された者たちが行う熾烈な海中戦(ドッグファイト)―――。
 在り得ぬ軌道を描いて無限にぶつかり合う二つの彗星―――。

 着いては離れ、離れては着き。
 上から斬りかかり、右へ逃げ、下から飛び上がったかと思えば左へ疾走する。文字通りの縦横無尽。
 世界の理を超越した存在だけが、全ての枷から解き放たれ、空間の全てを使う事を許される。真の意味での三次元戦闘だった。
 幾度目かの激突の後、広大な間合いを取ったニムロデが体を捻り、弓をしならせて溜めた力を解き放つと同時に矢を投擲した。
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の力を相乗させて放たれるミサイル。
 幾度も回避運動を繰り返した後、捉えられたまらず迎撃した矢と槍が激突した。
 互いに勢いを一向に衰えさせぬまま、無数の火花を飛び散らせて矢と槍は激突し続ける。
 状況は完全な拮抗。
 判断すると即座に、ニムロデは次なる行動を起こした。

『ハ―――ッ!』
 ニムロデは鋭い呼気と共に片腕をアキレスに向けて突きつける。
 たったそれだけで全ての過程を無視して海龍神(リヴァイアサン)の力の一端が発現させた。

 彼の頭上で半円を描く形に整然と魚群が隊列を成し、蒼白い幻影の剣に成り、群れ成して出現する。
 それらの剣先は全て、照準を前方のアキレスに定めていた。
 その光景は、かの英雄王が所持する宝具の軍団や錬鉄の投影魔術師を連想させたが、今それを気にする者はいない。
 リヴァイアサンの断末魔がけたたましく鳴り響き、一層蒼い衣が燃えあがる。
 幻影の剣は、号令も無くただ意思の引き金を以って一斉に放たれた。
 矢のように直進する剣の軍勢に向けて、一方のアキレスは両腕を突き出し
 次の瞬間、雷撃の如き魔力を帯びて連続で槍を廻し出した。
 重機関銃じみた威力と連射速度で発射された高密度の幻影の剣を次々と撃ち落す。
 
 ―――なんという出鱈目。
 
 あらぬ方向へ飛んでいく己の剣を、見つめながらニムロデは憎ましめに囁く。
 神威に圧され、出力が落ちた『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』なれど
 海中という最良の戦場にして、足止めが精一杯だとは笑える。
 これが、陸地であれば造作もなく屠られていただろう、と敵の勇猛を心中で讃えると同時に
 下劣な手段をもってしか、あの最強の戦士を止めることが出来ないことに
 自身の無力さに打ちひしがれた。
 その暗さ、その重さは永遠にとけぬ命題を背負った哲学者のそれか。
 否定はせず、嘲りだけを噛締めて。


 海中で得物を構えるという奇妙な体勢のままで、二人は奇しくも戦闘の始まりの時のように対峙する。
 唯一つ、違うのは二人の瞳に宿った意思の強さ。
(次で決める―――)
 互いに意図せぬうちに、アキレスとニムロデの意思は共通した。
 停滞と沈黙は、わずか一秒。
『―――ッ■■■■■■ッ!!』
 アキレスは咆哮し、かつて無い速度で海を駆けた。まるでロケットのような一直線の加速で、赤い光の軌跡を残して疾走する。
『――――ッ■!』
 対してニムロデの移動はわずか腕の一振り分。
 紅と蒼の最終交差は、世界と時間を置き去りにした速さで近付く。二つの光が触れ合った時が始まりであり終焉だ。
 
 アキレスの全てを込めた一撃は、標的を粉微塵に粉砕してもおかしくない。
 アキレスの思考に敵意のみ、ただ槍を振るだけの獣と化して刹那の世界を駆け抜ける。
 
 アキレスの視界をただ一色の蒼が徐々に埋め尽くし。
 ニムロデの視界をただ一色の紅が徐々に埋め尽くし
 そして―――。




 音。音。音。
 すべてが音だ。
 破壊される音、破壊する音、すさまじい音が嵐のようにおれのまわりに渦巻いていた。
 いくつもの矢が発射されていく。
 複雑な軌道を描いて、俺にむかっていく。
 だけど、相棒がそれを海中でたたきつぶす。
 光のように圧縮された剣群の音が辺りをなぎはらう。
 爆発の音がつづき、憎しみで目が眩みそうになる。
 こんなとこに飛びだしてきた自分を呪った。だけど、しなくちゃならないことなんだ。
 いま、いましかないんだ。
 あいつをやっつけるには――――。

 走る。走る。
 そういえば、こんなこと前にもあったっけ。




 ズキンッ。


 左手の甲に有り得る筈の無い僅かな痛みが蘇り、その懐かしさに凛は微かに我を取り戻す。


「――――――ラン、サ」
「――――――凛」


 凍りつくような刹那の世界で、二人は酷く間の抜けた声を発し、そして彼女の名を全て紡ぐ前にあっさりと両足を射られた。










「……」
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』の力を解除し
 地上のバベルの塔の頂上部へと戻ったニムロデは静かに地面へ足を着けた。
 無言で仰向けに横たわる凛とアキレスを見下ろしている。その瞳には侮蔑と哀れみしかない。

 同じく人間の姿へと戻ったアキレスの体には、
 獣の噛み痕のような恐ろしい傷が大小様々に刻み込まれている。
 そこから溢れる血で、彼の体も服も、倒れ伏した地面までゆっくりと赤く塗り潰されていった。

 激戦の後で沈黙が支配する塔に、ヒュルヒュルと奇妙な風を切る音が聞こえた。
 自らの弓矢は背中に納め、ニムロデは墓標のように突き立つ無機質なそのトネリコの槍に歩み寄ると、無造作に引き抜いた。

「……愚かだな、アキレス」

 冷徹な響きで呟かれた言葉に、アキレスはただ僅かな呼吸を繰り返すだけで何も反応しない。

「愚かだ」

 ニムロデは繰り返した。これまで何度もアキレスに向けて吐き捨て続けた己の本心を、今再び強く抱いていた。
 
「力こそが全てを制する―――その真理に、お前はあの瞬間不純物を混ぜた。その結果がこれだ」

 トネリコの槍を携えたまま、ニムロデはゆっくりとアキレスに歩み寄る。

「お前の中の<人間>が、あの瀬戸際でお前の足を引いた……」
 
 眼下に見下ろせる位置まで歩み寄ると、彼は冷たい視線を落としたまま淡々と目の前の敗者に語りかける。
 二人が交錯する刹那、ニムロデは
 アキレスが神の血に呑まれ暴走した折、その余波で渦中に飲み込まれた
 凛を密かに回収し、生かしていたのだ。
 我を失ったアキレスは盾となって立ち塞がれた彼女を眼前にし、穂先を逸らした隙を逃さず腱を射られると
 同時にその力を失い、死んだように眠りについた。

 殺意も無く、怒りも無く、酷く平坦な感情のまま握り締めた槍は無造作にぶら下げ。
「―――これがお前の限界だ」
 一気に、アキレスの心臓へと槍を突き立てた―――。



 ………………
 ……………
 …………
 ………
 ……
 …



「ジッグラト――バベルの塔」
 目が覚めた。闘いをはっきり覚えていた。
 塔の姿も鮮烈だ。巨大な巻き貝の怪物のような姿。
 自分は『旧約聖書』をもちろん読んだことがある。史実も知っている。
『旧約聖書』の著者はモーセだとする説もあったが、現在では否定されている。
 成立のもとになった史料は四つ――ヤハウェ史料、エロヒム史料、申命記的史料、祭司的史料である。
 最も古いのは前十世紀頃成立したヤハウェ史料で、神の名にヤハウェが用いられていた。
 この史料の作者は仮にヤハウィストと命名されている。彼は実際に古代バビロニアを訪れたらしい。
 バブ・イリ(バベル)の都で、エ・テメン・アン・キという名のジッグラトを見た。
 『エ・テメン・アン・キ』は『天と地の礎の家』と訳される。これがバベルの塔のモデルになったという。
 バベルの塔はその意味では実在したのである。古代バビロニアは多民族国家であり様々な言語が飛び交っていた……

 
 視線を感じた。
 我に返ると、先ほど戦った弓兵が私をのぞきこんでいる。
 自分の聖杯戦争は終わっていた。弓兵は説明を始める。
「おまえのサーヴァントは還ったよ。イリアス叙事詩のアキレウス……噂に違わぬ猛者であった」
 あの時、トドメを刺そうとしたランサーを私に邪魔された。
 油断しきった私を捕え、意識を失ったままいいように使われたのだ。
 やはり私はポカをした。
 あの不死身で無窮の駿足を持つランサーでさえも
 私のような、とことん足を引っ張るお荷物の足手纏いがいては
 その無双の力を発揮できなかったのだろう……。
 
 
 海面に現れたおぞましい塔を発見した時、私は即座に突入を決心した。
 ある程度、正体の予想もついていた。
 このまま野放しにしていては、確実に周囲に甚大な被害が訪れるのは想像に難くない。
 事を急いてはいけないと嗜めるランサーの言葉を押し切って強行突入した結果がこのザマだ。
 まさか、自分もろとも塔を沈めたりはしないだろう、なんて安穏としたさっきの自分を殴ってやりたい。
 アッシリア全土を支配した暴君、人類最初の君主にはバベルの塔ともう一つ
 父クシュからリヴァイアサンの皮という魔法の皮を授かっているという逸話があったというのに。

「ここで塔を破壊されたのは予定の内だ。それにまた造り直せばいいこと。
 オマエは帰してやる。どこへなりとも消え去るがいい」
 
 奴なりのいたずらだろう。その傲慢ゆえに身を滅ぼしたというのにハタ迷惑な男だ。
 私は泳いで10キロほど泳いで陸に上がり、ひたひたとずぶ濡れた鼠のように帰路へつく。
 それと道中、公衆電話を借りた。20時10分。
 口の中で言葉をかみ殺すような、はっきりしない声で、

「具合が悪いんです。明日は家で休んでます。風邪じゃないんですど……本当にすみません」

 丁寧に担任に欠席の旨を告げ、受話器を下げて
 一人呆然と歩を進める。

 誰もいない夜の並木道。
 ふと、意識が弛んだ途端
 あまりの不甲斐なさに視界が歪んだ。

「ふうっ……!ぐふっ!うっ……うううううっ……」

 凛の手に、暖かい感触があった。
 握った拳の上に、雫(しずく)が落ちて滴(したた)っていた。
 凛は、手の甲を泣きながら握りしめ、泣き続けた。
 

 ………………
 ……………
 …………
 ………
 ……
 …


 あとは、帰るだけだ。
 疲れた身体で大きく息を吐く。すると……
 坂の上のほうで魔力気配を感じた。
 見上げる。影のような黒い塊があった。
 濃紺のセーラー服。青いリボン。蒼髪。冷たい目。――あの子だ。間桐桜だ。
 髪は見事に整えられ幾何学的な二等辺三角形を作っている。
 視線がぶつかった。違う。少女の視線は通り抜けた。自分を透かして別のものを捕らえている。
 存在を無視されたような不快さを感じた。
 変だ。駆けつけて後ろから少女の肩をつかむ。
「待って」
 力ずくで振り向かせた。桜の髪が円を描いて回る。
 桜は空咳(からせき)をした。わざとらしく、二度。少女の目が私を捕らえた。
 ばつの悪い顔、一瞬。すぐに、笑顔。見事な仮面の被(かぶ)り方だ。私から一歩身を引く。
 利発そうな目だ。さらさらの髪をリボンで後ろに結んでいる。細面だが痩(や)せこけてはいない。
 少女は何もいわず通り過ぎる。香(かぐわ)しい甘い匂いが鼻腔を刺激した。
 すれ違いざま桜が、さようならと丁寧に頭を下げた。厭味は感じなかった。
 私は少し顎を引いて応える。
 彼女の向かう先に慎二がいた。二人はゆっくりとと消えて行く。下種な想像をしてしまった。
 キスしかねない勢いだったからだ。今日は二月三日。期末試験を六日後に控えている。
 遊んではいられない筈だ。部活でもしていたのか。しかし一部の運動部を除き部活動は休止期間に入っている。
 テスト一週間前から休みになるのだ。二人は確か弓道部だった。射撃場か射撃準備室にでも行っていたのだろうか。
 
 不安を感じた。根拠のない不安だ。虫の知らせのようなもの……
 足を止めた。不安の理由を探る。
 何の問題もない。ある筈がない。聖杯戦争に敗れて気が立っているだけだ。いらいらして神経がささくれているのだろう。
 それだけのことだ……
 しかし。
 私は彼女たちを追いかけた。
 間桐の家の前まで来た。相互不可侵など知ったことか。
 入り口から直接部屋の内部はうかがえない。
 鉄製の柵と門が衝立(ついたて)のように設置され、視線を遮っている。
 足を踏み入れた。微(かす)かにストーブの燃焼する音が聞こえる。人の気配がない。
 生臭い臭(にお)いが鼻をついた。覚えのある臭いだ。玄関の右わきを迂回して進む。
 足……足が見えた。
 床に投げ出された足。学園の制服のズボン。
 視線を恐る恐る上げていく。背広も暗い灰色だ。床にうつ伏せに寝そべっている。
 後頭部をこちらに向けていた。顔は見えない。思わず目をそらす。後頭部に、赤。何とか視線を戻した。
 赤い……真っ赤な傷口。流れ出た血が床に溜まりを作っている。思考が停止した。吐き気が襲う。
 しゃがみこむ。動けない。目が傷口に張り付いている。見たくないのに、離せない。
 私は初めて包丁で指を切った時のことを思い出していた。
 小学生だった。指の血を吸う。傷口を見る。再び血が溢れ出す。吸う。凝視する。溢れる血。目が離せない。
 あの時の感じだ。後頭部に二つの裂け目がある。大きな方の傷口から少しだけ白い骨がのぞいていた。
 塊が喉元(のどもと)まで込み上げた。両手で口をふさぐ。
 しばらくして、少しだけ呼吸が整ってきた。
 横たわる男に近づく。顔をのぞきこむ。
 間桐慎二だった。
 苦悶の表情を張り付けている。生前のにやけた面からは想像もできない。
 虚空に向かって永遠に叫び続けているような顔だ。妙に長い舌が床を舐めている。
 ストーブは音を立てて燃えていた。最大火力だ。凛の思考はあらぬ方向へいった。
 ――ストーブは「中」の火力で使う校則になっているんだぞ何やってるんだ慎二のヤロウは何てルーズな男なんだ
 ――覗き窓から、揺らめく炎を見つめた。生き物のように蠢(うごめ)いている。目を逸らす。そして……
 見たのだ。
 そこに、塔が建っていた。
 黄土色の、巨大な、歪んだ塔が。
 混乱の塔、先ほど海の底に沈んだバベル――バベルの塔が。
 何故だ? どうしてこんなものが私の目の前にまた現れるのだ? これは……何だ?
 見入ってしまった。状況は忘れた。
 バベルの塔だった。あのバベルの塔だ。巻き貝のようなフォルムをしている。黄土色の壁だ。
 塔の各階は徐々に面積を小さくして積み重なっている。螺旋状に上昇していくような不安な形だ。
 各層にはいくつもの窓がある。一番下の窓にセーラー服の少女の姿が見えた。
 間桐桜だった。
 少女は泣いていた。透明な涙が頬(ほお)を伝っている。何故泣くのか。何が悲しいというのか。
 犯された少女の心か。穢された少女の体か。それら全てか。桜はバベルの囚人となった。

「ナニしているの?」
 いきなりだった。
 後ろから艶やかな声が飛んだのだ。
 心臓が凍る。明らかに外国人の声だ。
 こんな場合でなかったら笑ってしまうような奇妙な発音だった。
 赤い髪の裸身の女が立っていた。澄んだ赤い瞳に射竦められた。彫りの深い目鼻立ち。赤髪は長く絹のようにシットリしている。
 腰が抜けたような気分だったが、同時に疑問も湧いてきた。
 何故サーヴァントがここにいるのか?
 
 私は間桐を知るだけでなく、憎んでもいた。妹を奪われたからだ。
 私は間桐を憎み、慎二を憎んだ。今は不可解さが憎悪を飲み込んでいる。サーヴァントが何故ここにいるのか理解できない。
 午後20時50分、辺りは真っ暗だ。しかし、ここは憎き間桐の本拠地なのだ。しかも部屋の主は死んでいる……
 頭を割られた慎二の死体が転がり、床に血溜まりができ、側にバベルの塔が建ち、少女が涙を流し、
 後ろから異様な出で立ちのサーヴァントが出現する。これは――この世界は何なのだ?
「アナタ、良くないわね」
 糾弾された。……こいつは何をいっている。
「悪いモノに憑かれているわ。もう長くはないんじゃないかしら」
 ……何だその発音は、日本にいるなら日本語を話せ、ちゃんとした日本語を。
 理不尽な怒りが生まれた。怒声が喉をついて出る。
「黙れ」
 声が低い。自分は恫喝(どうかつ)するとかなりの凄みがある。
 しかし、彼女はどく吹く風とばかりに優雅に近くの椅子に座る。
「私はナニもしないわ。早とちりしないで」
「あなたこそ私に何の用?。サーヴァントさん」
 少し間を置いて、彼女は両手をおおげさに広げながら、
「ワタシ……マスターに嫌われちゃったの」
 身振り手振りを交えて説明した。家に帰るなり慎二は桜を犯そうとその場で乱暴を働いた。
 桜は普段なら彼の気に障らないように、抵抗することはないそうだ。
 ただ、彼はそのとき衛宮くんの事を口汚く罵った。それで終わり。
 桜は逆上して慎二を殺した。
 だが、話は急展開を迎える。
 どうした事か、地中からバベルの塔がアスファルトを突き破り空に向かって生えてきた。
 そして、周囲の街の人間の言葉をグチャグチャに乱し始めたのだ。
 アラ、面白そうねと意気揚々と塔を見物していると
 アーチャーのサーヴァントが現れ、桜と自分と会話をする。
 すると、私が気にいったと言い強引に迫ってきたので
 たまらず抵抗する自分。
 そして隙をついて自分を振り切り、気が動転して錯乱した彼女を連れて塔の内部へと消えてしまったのだった。
 あーらら、イジメすぎたかしらねーなんて気楽なことを呟いて
「安心して。あんなヤツらにおかしな真似はさせないわ。だけど、黙って帰すわけにもいかないの。
 あたしのことは知ってるでしょう? 一緒に来てちょうだい。あんたの身柄をどう扱うかはそこで考えるわ」
 低い、地の底から湧きあがるようなふくみ笑いが、私の思考を中断させた。