【元ネタ】史実
【CLASS】アサシン
【マスター】ユリウス・B・ハーウェイ
【真名】李書文
【性別】男性
【身長・体重】166cm・60kg
【属性】中庸・悪
【ステータス】筋力B 耐久C 敏捷A 魔力E 幸運E 宝具-
【スキル】
 気配遮断:-
  アサシンのクラスが持つ共通スキルだが、このサーヴァントが
  持つ気配遮断はそれらのどれにも該当しない。

 中国武術:A+++
  中華の合理。宇宙と一体になる事を目的とした武術をどれほど極めたかの値。
  修得の難易度は最高レベルで、他のスキルと違い、Aでようやく“修得した”と言えるレベル。
  +++ともなれば達人の中の達人。

 圏境:A
  気を使い、周囲の状況を感知し、また、自らの存在を消失させる技法。
  極めたものは天地と合一し、その姿を自然に透けこませる事すら可能となる。


【宝具】
『无二打』
 ランク:- 種別:対人宝具 レンジ:1 最大捕捉:1人
 李書文の剛打は、牽制やフェイントの為に放ったはずの一撃ですら
 敵の命を奪うに足るものであった。
 「李書文に二の打ち要らず(神槍无二打)」
 无二打は、そんな彼の称号がカタチになったものである。

 明確に言うと宝具ではなく、武術の真髄。
 李書文は達人であり、その勁力が優れているのは言うまでもないが、
 それ以上に重要なのが相手を「気で呑む」事を実践していたことにあると考えられる。
 一説によると、李書文は拳の破壊力だけで相手を倒してはいないらしい。
 彼によって絶命せしめられた者たちのほとんどは内臓の破壊ではなく、
 現在で言うところのショック死状態であったと伝えられる。

 「気で呑む」技法は、技法としては固定された名称がなく、わずかに仙道修行の
 周天行における空周天に酷似した発想があるのみである。
 周天行とは気(エネルギー)を心身に巡らせ、それによって全身を活性化した上で
 気を共鳴・増幅して養っていく鍛錬法の一種。
 そのひとつの到達点が全身を気で満たすものであり、また、周囲の空間に自身の気を満たす事にある。

 李書文はこの行法によって相手を「気で呑む」、つまり自身の気で満ちた空間を形成することで
 完全に自分のテリトリーを作っていたのではないか、と考察される。
 「気で呑まれた者」は、一部の感覚が眩惑され、緊張状態となり、この状態で相手の神経に
 直接衝撃を打ち込んだ場合、迷走神経反射によって心臓は停止する。


【備考】
 『気配遮断』
  姿を隠して行動するスキル。
  その究極として透明化があるが、これは多大な魔力を使用するため
  “魔術が使われている”気配を残してしまう。
  よって、敵対者が優れた術者である場合、「姿は見えないが何者かが細工をしている」
  と感知されてしまうのだ。
  魔術にたよらず、自らの体術のみで行う透明化。
  それはもはや人間の域とは呼べない魔技である。

【二の打ち要らず】
 中国拳法史上、最強の一人と名高い拳法家に贈られた二つ名。
 この称号を贈られた拳法家は八極拳の使い手であり、
 仕合において、どのような軽い手であれ、
 触れれば相手の命を奪ったという。

【人物背景】
 李書文。1864~1934年。
 河北省滄州市塩山県出身の中国武術家。
「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と謳われる、
 中国拳法史史上、有数の拳法家。

 李氏八極門の祖である李書文は、
“神槍李”とあだ名されるほど槍に長けた人物であったとされている。
 彼の使った六合大槍は、八極門の基本的な武器であり、
 極論して良いならば八極門の素手の技法(八極拳)のほとんどは
 この六合大槍の技法を学ぶための前段階に過ぎないとさえいえる。
 本来ならば彼のクラスはランサーだが、その場合、晩年の姿として現れる。
 マスターであるユリウスとの相性から若く猛々しい李書文が望まれ、
 アサシンとして現れたと思われる。


 また、余談ではあるが彼の透明化は圏境による瞑想の極意である。
 何の魔術も使わない透明化である為、魔術理論に生きる者たちにとっては“絶対に感知できない”達人の技だ。
 ……加えて余談ではあるが、
 かつて地上には李書文同様、何の魔術も使わず人の業のみで分身を自在とした剣士がいたらしい。
 その秘剣の名は燕返し。
 奇しくも、アサシンのクラスによる魔技であった。

【『魔拳士』】
 魔拳士・李書文。
 基本、義を通す善性だが、悪もまた良しとする武芸者。
 あまりに多くの対手を殺めた事で多くの憎しみを買い、
 最後は毒を盛られて命を終えたという。

             ◆

 サーヴァントとしての書文はその道徳性こそ一般常識から逸脱していたが、
 人間性そのものは合理性を重んじる“良識人”である。

 正義も悪もそう大差はないが、
 某(なにがし)の行いが合理に損なっている…無駄が多い…のなら、

 某(なにがし)に対して露骨な嫌悪を向けるのである。
 この某(なにがし)が巨利をむさぼる悪党であった場合、
 そして某(なにがし)の被害にあっている者からの懇願があった場合、
 李書文は“縁が出来たな”として某(なにがし)と対峙し、結果として殺害する。

 一見、義侠の徒に見える行為だが、中華における義侠とは『情をもって剣を取る』なので、彼の考えは真逆にあたる。
 李書文の性格、合理性はむしろ現代人のそれに近いものだったようだ。

 単純に(純粋に、ではない)強さのみを求めた李書文だが、
 晩年は暴力の強さではなく、自身の生き方、信念の強さに武を見いだしたと言われる。

 自身を拳法家というより殺し屋のたぐいと自認しているが、
 それを卑下する事も、誇る事もない。
 生前は善(よ)く学び、善(よ)く戦い、善(よ)く殺めたので、
 無念や怨念はまったく持っていない。
 サーヴァントとして召還されてからは
 主であるユリウスの暗器として、
 ためらいなくその凶拳を振るったが……?