~源頼政の願い~

 どこからともなく、寂しい歌声が響く。あるいは、それは怒りの叫びか、はたまた憎悪の吐露だったのか。
 今でも、私はその歌の意味が推し量れずにいる。
 ただ、一つだけ分かっている。
 その“彼女”の歌は、決して良い意味を帯びてはいなかった。

 時は西暦にして1155年に前後するのであろうか。
 天皇が住まう御所、すなわち清涼殿。およそこの神州において、後世の延暦寺に並ぶであろう霊的堅牢さを誇っていたその聖域において、有り得ざる事態が起こっていた。
 すなわち、魑魅魍魎のいたずらか、毎晩のように暗雲が立ち込め、空を覆いつくしていたのである。
 そして、悲しくもおぞましく、しかしどこか美しい歌声が、黒雲が現れると同時に響いていた。
「之は何処の化生の仕業であろうか」
 その歌声は呪詛となり、時の天皇の身体と精神を蝕んだ。
 ことここにいたり、陰陽寮だけでの対処は不可能との判断が下されたのは、半ば当然のことであったのだろう。陰陽師たちは悔しさに顔をしかめながらも、外部の協力を仰いだ。
 白羽の矢が立ったのは、源頼政である。
 遡れば源頼光による、最強鬼・酒呑童子や、大妖怪・土蜘蛛の退治。近くして、源義家による怪事の解決。源の名は、なるほど、化物退治を任せるのに、ひどく頼もしい響きであったに違いない。
 この決定に対し、頼政はなんとも複雑な気持ちであった。
 先祖が打ち立てた武勇名誉は誇らしい。また、己の弓の腕前が、七光りは多分にあれども、怪物にも通用すると認められている。それは確かに嬉しいことであった。
 だが一方で、不安もあった。当たり前のことではあるが、当時の頼政は化物と戦った経験などないのである。
 実力はある。だが、覚悟ができない。
 時が経つにつれて喜びよりも不安が大きくなり、頼政は大いに頭を抱えるハメになった。
 見かねたのは猪早太、頼政の家来であるとともに、長年の友だった。
「頼政殿よ。なぜそれほどまでに、あの暗雲を恐れるのか。あなたには、頼光公より受け継ぎし天下の宝弓、『雷上動』があるではありませんか。
 その上、あなた自身の弓の腕を考えれば、かの酒呑童子とて震え上がるというもの。こと弓に関しては、あなたは頼光公をも上回る」
「世辞は良いのだ、早太。正直に話そう。私はな、情けなくも、かの化物が恐ろしい。果たして退治の間際、私は立っていられるだろうか」
 早太は笑った。笑って言った。「あなたが立てなかったら、私があなたを支えましょう」
 その言葉に勇気付けられ、頼政は清涼殿への乗り込んだ。
 はたして夜、やはりいつものように、暗雲立ち込め、妖の歌が聞こえてきた。
 そう、妖の歌である。
 その歌が、何よりも問題だったのだ。

 頼政は、刀よりも歌を好んだ。かねてより、戦争というものが肌には合わない気質であったのだ。
「母よ、私の作った歌を聴いてください」
 頼政の歌の師は、彼の母であった。母の唄う歌が、頼政は何よりも好きだった。
「母よ、私は貴女の歌を受け継ぎたい」
 頼政は母を目指し、歌を詠み続けた。その歌声は、やがて人の心に染み込み、動かすと語られるようにまでなった。
「母よ、私は貴女の子であることを、誇りに思います」
 幼少より憬れた続けた、その歌を、頼政は決して忘れることはなく。
 だからこそ、誰が知らずとも、頼政だけは、聞き違えることはなかったのだ。

「・・・母よ」
 不意に聞こえてきた呟きが、自分のものであったことを理解するのに数瞬を要した。
 知らず、頬を涙が伝っていた。
 気付けば、猪早太が頼政の体を支えていた。
「頼政殿!しっかりなされよ!見てください、あれが噂の化生です!」
 違うと、叫びたかった。あれは決して、恐ろしい怪物ではないと。
 だが、あまりのことに口が、身体がうまく動かない。声が出ない。先に気付かず吐いた一言が、呟けたことが奇跡だったのだと思い知る。
「頼政殿!早く、どうか早く!」
 なぜ、あんなことになってしまっているのか。
 体が震え、涙が止まらなかった。口から出るのは、意味を成さない嗚咽ばかり。

 ああ、それほどまでに世が憎かったのですか。平家が支配する、この世が。いつまでも息子を冷遇し続けた、この世が。

 弓を番えることができたのは、いったい、いつであったのか。一瞬であったような、しかし千秋の間であったような。
 魔道に落ちた“彼女”に、頼政は矢を向けていた。
「南無八幡・・・!」
 泣き叫びながら、頼政は矢を射た。途端、暗雲が消え去り、怪物が姿を現した。
 ああ、見たくなかった。頼政は心から、そう思った。
 猿のような顔、狸のような胴体、虎のごとき四足。ふと見えた尾は、なんと蛇であった。
「なんと、おぞましい・・・」
 頼政を支える早太が呟いた。
 まさしく、おぞましかった。もはや頼政の知る面影はどこにもないほどに。
 ふと、自分の思い違いなのではないか、と淡い希望を抱いてしまうほどに。
「・・・?おかしい。なぜ奴は、こちらを襲おうとしないのだ?・・・何はともあれ、これは絶好の機会です。早く止めを!」
 淡い希望は、所詮は淡いままである。
 こちらを見たまま、微動だにしない怪物の目に、敵意は一切なかった。
 むしろ、頼政に向けられたそれは、まさしく・・・。
「母よ・・・母よ・・・!!」
 叫びながら、頼政は矢を番えた。
 そして、憧れ続けたその人に、矢を射た。
 早太は地に落ちた怪物に向けて走り出した。必然、支えを失った頼政の体は崩れ落ちる。
 涙が止まらない。あの怪物の正体を知ってしまったがために。それを自らの手にかけてしまったがために。
「母よ・・・母よ・・・・・・
 ・・・・・・母さんっ!!」
 あの怪物の歌声は、間違いなく、頼政の母のものであったのだ。

 しばらくして、早太が戻ってきた。その傍らには、立派な雌馬がいた。
「頼政殿・・・この馬なのですが」
 聞けば、早太が怪物に止めとばかりに一太刀を入れると、怪物からこの馬が生まれたという。
 馬はゆっくりと、地に伏し泣き続ける頼政に近づき、その頬に顔をこすり付けた。
「・・・頼政殿になついたようですが、いかがしましょうか」
「・・・ああ、この馬は・・・私が貰おう。大切に・・・大切に飼おう・・・」
 母は息子に、怪物退治の功績だけでなく、これほどに立派な馬までも残した。
 その母の愛が嬉しかった。そして、とても悲しかった。

 願わくば聖杯よ。我が母に恩報いる機会を頂きたい。
 現代に母を蘇らせ、幸福な生を送ってほしい。
 願わくば聖杯よ。我が母に幸多き二度目の人生を与えたい。