かつて、一人の少女がいた。
 雪と氷に閉ざされた寒い寒い極北の大地で、しかし、それでも少女は幸せだった。
 少女には愛する人がいた。それは、少女の兄弟のように育った幼馴染の少年だった。
 だが、本来なら少女が愛する人と結ばれる事は有り得なかった。何故なら、彼は少女の父が率いる部族が滅ぼした敵の部族の子供で、“犬”と呼ばれる、早い話が奴隷であったから。
 長の娘である少女を欲しがる男は数多くいたが、少女は頑なにそれを拒み、とうとう根負けした父親は言う事を聞かない罰という名目で少女を少年の妻とした。
 それを侮蔑の目で見る者は数多くいたが、二人は多くの子供に恵まれ、誰が何と言おうと、二人は幸せだった。
 美しく成長した少女の前にある時、一人の若い男が現れる。若く美しい少女を見た彼は、少女に向かって、自分について来ればたくさんの毛皮や服や毛布をくれてやろうと言った。
 部族の奴隷である夫と子供たちは部族の中でも待遇が悪く、いつも寒さに震えていたので、少女は男についていくことにした。
 しかし、少女を連れ去ることが目的だった男は初めから約束を守る気などなく、少女がそれに気付いたのは、既に手遅れになった後だった。
 一方、少女はその部族では奴隷の妻とはいえ、仮にも長の娘であった。部族の人々にとって奴隷の妻などどうでもよかったが、それが攫われたという事は、部族の面子に関わることであり、少女の父親が長の務めとして少女を助けに向かう事になった。
 小心者の少女の父としては奴隷に与えた妻などどうでもよかったが、長である以上は長として娘を取り返さなければならなかったので、仕方なしに男の元へと向かい、男が油断した隙を突いて、攫われた少女を男の家から連れ出す事に成功する。
 しかし、男の手を逃れて船で海へと漕ぎ出した少女と父親の行く手を嵐が塞ぐ。
 男としては、攫ってきた女など何人もいるし、一人くらいどうでもよかったのだが、男のものにした女が奪い返されるのは男の面子に関わることだったので、男は魔術で嵐を起こして少女と父親の行く手を塞いだ。
 少女の父親はそれを見て、男が少女を取り戻そうとして魔術を使ったのだとすぐに気付いた。そして、小心者の父親は震え上がり、なぜ自分が少女のために殺されなければならないのだと少女を恨み、少女を船から突き落した。


 突き落とされた少女は愛する夫と子供たちの所に帰りたかったので、必死で船縁に掴まった。父親は少女を突き放そうとして、櫂を少女に向かって振り下ろした。北海の海水を吸って重く冷たくなった鈍器を何度も何度も振り下ろした。
 顔から血が噴き出した。
 皮膚が破れた。
 肉が弾けた。
 骨が砕けた。
 眼球が潰れた。
 それでも少女は愛する夫と子供たちの所に帰りたかったので、必死で船縁に掴まった。父親は少女を突き放そうとして、櫂を少女に向かって振り下ろした。北海の海水を吸って重く冷たくなった鈍器を何度も何度も振り下ろした。
 手が船縁を構成する木材ごと叩き潰された。
 皮膚が破れた。
 肉が弾けた。
 骨が砕けた。
 指が折れた。
 それでも少女は愛する夫と子供たちの所に帰りたかったので、必死で船縁に掴まった。父親は少女を突き放そうとして、櫂を少女に向かって振り下ろした。北海の海水を吸って重く冷たくなった鈍器を何度も何度も振り下ろした。
 手が船縁を構成する木材ごと叩き潰された。
 皮膚が破れた。
 肉が弾けた。
 骨が砕けた。
 指が千切れた。
 そして、限界が来た。
 冷たい水の中に少女の体が沈んでいった。
 冷たい北海の底に少女の体が沈んでいった。
 やがて少女を攫った男の起こした嵐は止んだ。
 それを見て父親は命が助かった喜びと少しばかりの罪の意識とを感じながらその場にへたり込み、
千切れた少女の指が船底に転がっている事に気付いて、慌ててそれを海の中に放り込んで、ようやく嫌な使命から解放された喜びを感じながら、部族には少女を助ける事は出来なかったが、少女が攫われる事だけは食い止めたと報告した。
 一方、魔術を使う事が出来た少女は暗く冷たい海の底で、それでも死んでいなかった。海の死者となってしまった少女は陸に戻る事は出来なかったが、それでも死んでいなかった。
 孤独だった少女が涙を流すと、少女が流した血液から無数の海の生き物が生まれた。
 孤独だった少女が泣き声を上げると、少女の千切れた指が巨大な海の獣となった。
 だが、海の生き物も海の獣も少女の言う事は聞いてくれるが、少女を慰めてはくれなかったので、少女は結局孤独なままだった。
 やがて暗い海の底で暮らす少女の元に、水に沈めて殺された彼女の夫の死体が流れてくる。少女は愛する夫の死体を魔術で蘇らせたが、夫の死体は少女の言う事は聞いてくれるが、少女を慰めてはくれなかったので、少女は結局孤独なままだった。
 やがて暗い海の底で暮らす少女の元に、波に浚われて死んだ彼女の父親の死体が流れてくる。少女は父親の死体を魔術で蘇らせたが、父親の死体は少女の言う事は聞いてくれるが、少女を慰めてはくれなかったので、少女は結局孤独なままだった。
 そして、少女は暗く冷たい闇の底で、一人孤独なまま朽ち果てた。
 その少女がたった一つ、何かを望むとするなら、それはきっと――――。




 水佐波市は水の街である。
 積層都市構造の中に血管のように水路を張り巡らせる事で、波と海流の潮汐力に同調し、圧壊を防ぐ。故に、海上都市に水の無い空間は存在せず、海上都市水佐波にはおよそあらゆる場所に潮の香が漂っている。
 その水路に、半透明の物体が浮かんでいた。いや、物体というのはいささか不正確だ。なぜなら、それは生きていたのだから。
 そこに浮かんでいるのは、一匹の水母だ。水面に浮かぶ半透明の傘のような部分から、水面下に向かって長い長い一本の触手が伸びている。その触手の先端から、微弱な電気信号が走った。
 少し離れた水中には、やはりよく似た形をした水母が漂っていた。その水母は、水中を伝わった電気信号を受け取ると、同じように信号を受け取り、さらに深い水の中に向かって発信する。それは同じように水中に漂う別の水母に受け取られ、海底深くにまで伝わっていく。


 刺胞動物門の動物は大きく分けて二種類、固着性のポリプと浮遊性のクラゲに分けられるが、ヒドロ虫綱、ヒドロゾアの場合にはこの両者が世代交代を行うものが多い。
 また、ヒドロゾアはヒドロ虫にはポリプ一個で一個体を成すものもあるが、その大部分は群体になるもので、それらでは無性生殖によって増えたヒドラ花が互いにヒドロ根で繋がって他物の表面に広がり、あるいは樹枝状に伸び上がる。
 ヒドロ根が絡まり合って太い枝状になる例もあり、その姿は細かなコケのようであったり細い枝状であったりと様々、大きいものは一メートルを越えるようなものも存在する。
 キャスターの保有する宝具『幻指胎母(ネリビック)』の一指“螺湮城”もまた、そのような群体ヒドラの一種であった。
 水佐波の海の海底に潜り、その水底の闇を見通す事が出来る者がいれば、そこに広がる幻想的な光景に息を呑んだはずだ。
 そこに広がるのは、およそ五億二千万年前に栄えていたバージェス動物群の支配する海底を彷彿とさせるもの。周囲一キロに渡って群生する無数のヒドラが、緩やかに海面に向けて触手を蠢かせている。
 その海底に、奇妙なものがある。よく見ればそれは、崩れかけた建物の土台のようだ。
 土台状の構造物を中心に放射状に広がる無数の石材は、それが最初、どれだけ巨大な建物だったかを物語っているが、だからこそ奇妙だ。なぜ、このような海底にこのような古代遺跡じみたものが存在しているのか。
 そして、それを両断するようにして、長さおよそ百メートルにも及ぶ亀裂が存在した。
 その断裂こそは、かつての聖杯戦争の戦闘の痕跡。誰よりも海を愛し、海に愛された少女が偶然召喚してしまった、海龍の衣を纏った弓兵と、グラズヘイムの小聖杯が従える無双の騎士が激突した余波で海底に刻まれた巨大な傷跡。
 その亀裂を伝って奥底にまで降りていけば、その断崖の側面には、一つの洞穴が開いている事に気付くだろう。
 どこか羊水にも似た匂いのする湿っぽい洞穴を泳ぐと、そこは別の洞穴に繋がっており、水面から顔を上げれば、燐光を放つフジツボに覆われた岩肌と、さらに続く洞穴が見える。その洞穴を抜けた先には、存外に驚くほどに広大な空間が広がっていた。
 大洞穴。
 そしてその中心に広がる浅い水溜りの中で、男はゆっくりと身を起こした。全身にへばりついた海藻を剥ぎ落とすと、どうやら肉体は万全のようだ。先日のアーチャーとの戦闘は肉体を極限まで酷使したが、それも完璧に治癒している。
「嫌な夢を見たな……」
 呟きながら体を起こしたエーベルトは、洞穴の奥に鋭い視線を向けた。そこにあるのは、燐光を放つ何かが縁まで満たされた巨大な杯だ。
 鋼鉄で造られた杯の中身はほぼ八分目まで溜まっており、そこに蓄積した魔力こそ、キャスターがここまでの神殿を構築できた理由だった。
「どこもおかしい部分はないみたいだな……。まあ、さすがに冬木みたいな化け物が巣食ってるわけじゃなさそうだが……」
 エーベルトは立ち上がると、水音を立てて水槽から上がり、傍に畳まれてあった服を纏う。体を起こしたエーベルトの背後に立って、キャスターが声を掛けた。
「マスター、この子達の修復が完了した。海上ではセイバーも姿を現したようだし、また戦闘に出るか?」
 キャスターが捧げ持つようにして抱えている水盤の中には、金属光沢を持った何かが蠢いていた。貝殻は金属の輝きを持ち、そこから伸びる肉質の部分ですら、同様の金属の鱗に覆われている。
 その貝は本来なら光すら届かない深海、熱水噴出口に棲息し、硫化水素やメタン、無数の金属元素の溶け込んだ、生物にとって言わば猛毒の熱水を取り込む事で硫化鉄を生成し、身に纏う。
「そうだな。俺の方ももうそろそろ完調だ。戦力が揃ったら、戦闘に――――」
「どうした、マスター?」
 ――――頭をよぎったのは、闇の底で一人泣く少女。
「キャスター、少し街を見回らないか?」
「……それは構わないが、いいのか? それくらいなら、“螺湮城”の触手を街に放った方が早い」
 怪訝そうに首をかしげるキャスターに、エーベルトは苦笑。
「俺から言ったんだ。いいに決まってるだろう」
 エーベルトは強引に少女の腕を取ると、そのまま歩き出す。少女はそれに目を白黒させながらも、大人しくエーベルトに従った。



 山間の森の中に佇む少女の頭上に、白い雪が降り始めた。
「……寒い」
 少女が呟くと、傍らに佇む槍兵はすまなそうな顔をした。
「すまないなマスター。呼ばれたのが私の友であればその程度はどうとでもなったのだろうが……」
「いいの。ランサーは、私の大切なサーヴァントなんだから」
 少女は健気に首を振るが、可憐な唇の辺りが紫色に染まっているのがなおさら痛々しい。
 およそ人間が生きていくのに欠かせない三要素が衣食住の三つである。が、何の障害も無く水佐波市に着いたはいいが、少女には衣装の替えも無く、行く当てもなく、所持金すら皆無。
 路銀の足しにと思ってトランクケースに入るだけの金塊を抱えてきたはいいが、換金する当てもない。食事の当ては、ランサーがどこからともなく採ってくる獣や魚や木の実程度だ。
 だが、酷く冷え込むこの季節は、幼い少女の体には酷だ。
「せめて、雨露を凌げる場所があればいいのだが……」
 かといって山間に防空壕を見つけても、空気の循環が存在しないため、煙に巻かれて火を付けて暖を取ることすらできない。いや、そもそも野生に生きるランサーに火を扱うような技能などない。
「すまないな、マスター。もう少し私が有能であれば……」
「いいの。私にとってはランサーが最高で最強なんだから、そんな顔をしないで」
 笑顔を見せるマスターに、ランサーの表情は少しだけ緩み――――その瞬間、ランサーの表情が強張った。
「ランサー?」
「奇妙な気配を感じた。おそらくは何か人間の集団と獣だが、判然としない」
 ランサーの超感覚をもってしても、どうもはっきりと感知できない。
「分かった。調べてきて、ランサー」
「しかし……」
 躊躇するランサーに対して、少女は首を振る。
「大丈夫だよ。相手がランサーの感覚で届く範囲にいるのなら、私がランサーの感知範囲から外れる事はないはず。深追いさえしなければ大丈夫」
「……分かった。くれぐれも気を付けてくれ、マスター」
「うん、大丈夫」
 少しでも寒さを防げるように少女を洞穴の中に置くと、ランサーは雪の降り続く森を走り出す。彼の故郷に雪は降らないが、何となれば霊体である彼にとって、雪は何の苦にもならない。
 セイバーの疾駆が大気を切り裂いて飛ぶ飛翔であるならば、ランサーの疾走は風との同化だ。大気と一体と化すかのような疾走、森を吹き抜ける一陣の風は、突き出した枝を折る事もなく、雪も散らさない。
 ある地点まで来たところでランサーは足を止めた。ランサーの眼に映るのは一様に緑と黒と褐色の斑の同じ服を纏った男たちと、とても獣には見えない異様な物体だった。
 聖杯から与えられた知識は、あれがこの時代の人間の乗り物で、男たちが抱えた奇妙な金属塊がこの時代の武器である事を示している。
「なるほど。軍隊か何か、という事か……? だが……」
 奇妙な事に気付く。自分の感覚は、男たちの傍にある乗り物が獣であると示している。あの中に獣が入っているわけでもなく、あれそのものが獣だと、自分の感覚が告げている。
 仕掛けてみるか――――いや、とその考えを否定する。
 この状態での戦闘はまずい。己のマスターは規格外の存在であるとはいえ、さすがにあの状態で戦闘に魔力を搾り取られれば、どんな影響が分かったものではない。
 撤退する。
 そう判断を下した瞬間。
 ランサーの感覚の感知範囲ぎりぎりで、その存在を捉えた。
 マスターに何かが近づいてくる。
「……まずい!」
 ランサーは疾走を再開。

 雪の降る森の中を、一人の男が歩いていた。分厚いドテラを纏い、妙に老成された雰囲気を纏っている青年。まだ若い――――否。若くはない。そう見えるだけだ。そういう風に造られている。
 男は足を止めて空を見上げた。数キロほど離れた森の中から、漆黒の鋼で作られた武骨な飛翔機械が舞い上がる。
 戦闘ヘリ、という事だけは何とか分かった。あんなごてごてとミサイルやら何やらぶら下げた代物がまともな代物であるはずがない。確か、アパッチとか何とか言っただろうか、アメリカ辺りが似たようなものを使っていると聞いた事がある。
「どうも、俺の知識は時代遅れになってていけねぇ」
 軍隊がこんな辺鄙な場所をうろついている理由なんて一つしかない。二十年ぶりにまた、あの傍迷惑な戦争が始まったのだ。だが、今の自分には関係のない事だ。
 きびすを返して帰ろうとしたその時、男は奇妙な気配を感じて足を止めた。気配の源はすぐ近くにある防空壕跡の中のようだ。
 男は身をかがめて、洞穴というのもおこがましい穴を見る。横たわっていたのは、幼い少女だった。十歳になるかならないか、そのくらいだろうか。繊細な銀糸の髪と白皙の肌。閉ざされた瞼に隠された瞳の色は覗えないが、その答えは、男には容易に想像がついた。
「妙な気配を感じたと思ったら……新手のナチ子か? 」
「そんな紛い物と一緒にしないでほしいわね」
「……悪かったな嬢ちゃん。起きてるとは思わなかった」
 少女のうっすらと見開かれた紅の瞳に気がついて、男はわずかに目を見開いた。
「貴方は……見た所、魔術師みたいね。ランサーが私の元を離れた所を襲撃できたのは褒めてあげる。だけど甘いわ」
 少女はふらつく体に力を込めながら立ち上がった。冷酷に目を細めて男を睨む。
「貴方が私を殺しても、ランサーは消滅する前に貴方を殺す。私のランサーは強いもの。消滅するまでに貴方と貴方のサーヴァントを殺す事くらい造作もないわ。だから、今は見逃してあげる。今の内に帰りなさい」
「帰れ、って言われてもなぁ……そんなふらふらの体でそんなこと言われても、見過ごしちゃぁおけねえぞ。もしかしたら、三日くらいまともなもん食ってねえんじゃねえのか?」
「そんな事が、貴方に関係あるのかしら? 貴方も聖杯戦争のマスターなら、それらしく令呪でサーヴァントを呼んだらどうかしら? それとも、ランサーの足止めにでも向かった? なら残念ね。今頃は、ランサーが貴方のサーヴァントを斃しているところだわ」
「ああ、いや、俺の場合はそれぁねえ。俺は、別にマスターでも何でもねぇからな。二十年前なら意地でもお嬢ちゃんを斬り捨ててるところだが、今の俺にゃあ、そこまでして守るもんもねぇしな……」
 過去を思い出して溜息をつく。
「貴方は……そう、前回の聖杯戦争の、マスターだったという事ね」
「うんにゃ、違う。マスターだったのは妹……というか姪というか、まあ、妹の孫だ」
 自ら呼び出した弓兵の願いを叶えるために聖杯戦争に参加した少女を死なせないために、再び戦いに身を投じ……そして、守れなかった。
「妹の……孫? そんな歳には見えないけれど……?」
「色々あってな。まあ、見た目通りの歳じゃねぇってわけさ。この間の戦争、っても、もう半世紀も前の話だが、ま、人間兵器ってやつだよ。役に立たない馬鹿兵器だったがね」
 男の脳裏に一瞬、機密保持という言葉がよぎるが、肝心の軍は五十年も昔に解体されている。今さら機密もへったくれもあったものではない。
「ま、ここで会ったのも何かの縁だ。放っとくのも寝覚めが悪ぃし、ま、助けてやるよ嬢ちゃん」
「嬢ちゃんじゃないわよ。私には、ウィクトリアスフィール・フォン・アインツベルンって名前がちゃんとあるんだから」
「そうかい。俺は蔵馬鉄人ってぇんだ。よろしくな、ウィクトリアの嬢ちゃん」
 男はからからと笑って少女の体を抱え上げた。久しぶりに、体が動き出した気がする。その行く先を男は知らない。しかし、どこへ行くのも大した違いはない。そんな風に思いながら、男は少女を伴って自分の住む東屋へと向かった。


 水佐波市近海。
 その水面のすぐ下を、全長二百メートル近い巨大な影が進んでいた。
 鯨――――否。
 鯨はこうも身動き一つせずに泳ぐ事はしない。
 潜水艦だ。
 分厚い漆黒の耐圧核に刻まれているのは、四方に死神の鎌のような鉤を突き出した十字架――――ハーケンクロイツ。
 ナチスドイツ残党組織グラズヘイムが有する潜水艦“シュツルムハイ”。
 旧ソ連、及びロシアにおいて、「鮫」を意味する“アクラ”という名称で開発された戦略ミサイル搭載型潜水艦。
 主耐圧殻を眼鏡の様に二列並列に並べられ船体前部に潜水艦発射弾道ミサイル――――SLBM発射筒二十基を配置する潜水艦としては特徴的なデザインを持ち、“タイフーン”級という通称を持つ。
 元々はソ連・ロシアが建造した艦であるが、その内の一隻はソビエト連邦崩壊のドサクサに紛れてグラズヘイムによって強奪され、現在は、グラズヘイムの水佐波支部によって運用されている。
 旧式の艦ではあるものの、その中身は最新型のシステムに換装されているため、スペックは極めて高い。
 その艦橋にいるのは、男と女が一人ずつ。片方は銀糸の髪と紅蓮のルビーの瞳。ヒルデガルド・ノイエスフィール。そしてもう片方。
 異様な男だった。
 逞しい長身を、全身を優美な純白のフルプレートアーマーで覆い、さらにその上から、巨大な爬虫類の一枚皮で作られたらしき分厚い外套を羽織っている。この男こそ、かつての聖杯戦争で召喚された、ヒルデガルドのサーヴァント。
 この艦をたった二人で運用することが可能なのも、彼女の相棒である純白のサーヴァントの能力によるものである。
 ソナーの変わり映えのしない音響に耳を傾けながら、ヒルデガルドはかつての聖杯戦争の戦いを思い出す。
 かつて、この海域でも戦闘があった。海龍の衣を纏った弓兵と、無数の軍勢を従える騎兵、そして単体最強の剣士であるヒルデガルドのセイバーがぶつかり合ったのだ。
 弓兵は先んじて海底にその宝具である惑乱の塔を打ち立て、巨大な結界を築いていた。
 大聖杯の真上、つまるところ霊脈の上に建てられた惑乱の塔は、霊脈の魔力を直接吸収する事で時間と共に巨大化し、しかし視認性が極端に低い海底に築かれていたが故に
発見が遅れ、それゆえに塔は海面近くにまで成長し、さらに塔の余剰魔力による供給を受けていた弓兵は手強く、最強の存在であった当時のセイバーとライダーの同時攻撃を受けてようやく斃れた。
「セイバー」
「ああ、分かっている。かつてのアーチャーの大結界が敷かれていた位置に、おそらくキャスターだろうな、別の拠点が築かれている」
「それも、もはや大神殿といえるほどの代物だ。もはやこの戦い、楽には終わらんぞ」
「そうだな……」
 確保してある霊基盤によれば、既にバーサーカーは斃されたものの、アーチャーとアサシンのマスターは得体が知れず、セイバーとキャスターは極めて強力、加えてランサーとライダーは未だに姿を現さない。
 それでも、勝利する自信は充分にある。
 そう判断したその時、艦橋の通信機が着信を告げた。ヒルデガルドが通信機の受話器を外すと、そこから聞こえてきたのは聞き慣れない声だった。
「ふん、随分と図図しいな。何者だ?」
『ライダーのマスターといえば分かるでしょうか? 今、貴女の頭上を取っている者ですが……大人しく投降していただけませんかね?』
 その申し出を、ヒルデガルドは鼻で笑って切り捨てる。
「お断りだ。我々の戦力は貴様等のそれを凌駕している」
『それは残念です。それでは、その選択をせいぜい海の底で後悔してください』
 それだけ言い捨てて、通信は断ち切られる。
「マスター、久々に全力を出す。少しの間、降りていてくれ」
「ああ、分かっている。お前の機動は生身には酷だからな」
 それだけ言うと、ヒルデガルドは手早く軍服を脱ぎ捨ててダイバースーツに着替えると、そのままエアロックに体を滑り込ませ、船外へと脱出する。
 それを確認して、純白のサーヴァントは目に映らぬ天井を睨みつける。セイバーの超感覚は、その天井を通り越して、上空を飛翔する巨大な飛行物体を睨みつけていた。
「騎乗兵が相手か……なるほど、少しは楽しめそうだな」
 呟きながら、純白の手甲に覆われた両手で舵輪を握ると、その舵輪を起点に、セイバーの手から迸った魔力が純白に輝く葉脈のような紋様を形成し、ルーン文字が刻まれて
魔術的に強化された艦橋のシステムを覆い尽くし、セイバーの魔力の色である純白に輝く紋様は、やがて艦全体を覆い尽くす。
 同時にセイバーは霊体化してその身をタイフーンの外殻上に移し、純白の鎧姿を荒れ狂う海流にさらす。
「さあ、それでは、始めようか……」


 一方、その上空では、全幅五十メートルを超える巨大な全翼機が空を舞っていた。その機体、B-2スピリット。
 巨大なマンタに酷似したその機体、元々はソビエトの防空網をかいくぐって短射程のミサイルで核攻撃を行うための“戦略”爆撃機であり、極めて高いステルス性能と大量の武装を運搬する巨大なペイロードを兼ね備えている。
 四台の多機能型カラーディスプレイに囲まれたその複座型コクピットには二人の男が座っていた。その片割れであるファルデウスは通信機を置くと、傍らに座していたライダーに向かって語りかける。
「さすがに潜水艦が出てくるとは思わなかったので、対潜爆雷のようなものは用意していませんが……やれますか?」
「問題ない。あらゆる乗騎を魔獣と化す我が宝具なれば、射出されるミサイルもまた魔獣の仔。あの程度の水の壁、踏破出来ずして何とするか。征くぞ、マスター――――『黄金の手綱(ポリュエイドス)』!!」
 スピリットの腹部、全翼形態の中央部左右に装備されたウェポンベイが解放され、その中から投下されたSDB――――MMTD小径爆弾が空中で炸裂、その爆炎が翼を生やした蛇のような形状に変異して水中を駆けるタイフーンを追撃する。
「私と似たような能力を持つか――――面白い。ならば、全てを撃ち払うのみ。ゆけ、タイフーン」
 宝具に昇華される事でその能力を強化させたアクティブソナーが発する超音波は咆哮の領域を超えて既に衝撃波、その軌道が視認できるのは超音波の衝撃によって気泡が
発生するシングル・バブルによるもの。暗い海中に音響ルミネッセンスによる燐光が輝き、フォノン・メーザーによって水圧抵抗の壁をぶち抜いて、タイフーンは音速超過で海中を飛翔する。
 その超水圧のマッハコーンを涼しい顔で受け流しながら背中に負っていた長大な機銃を構えたセイバーは、タイフーンの外殻ミサイルベイを展開、艦上対空ミサイルを射出。
「やはり、向こうもサーヴァントを隠し持っていましたか……あれがランサーでしょうか?」

 そのデタラメな速度に対し、おそらく、己の召喚したライダーや、あるいはかつて冬木で召喚された黒騎士ランスロットと同系統の宝具とファルデウスは判断。
 セイバーの宝具『騎士は栄光を手に死せり(ナイト・オブ・ホーリー)』によってタイフーンは聖性と浄化の属性を孕んだ宝具と化し、ソナーはゴスペル、魚雷は聖火、蹴立てる波は聖水の渦、その暴力的な聖化の渦を掻い潜り、SDBの爆炎の蛇が襲い掛かる。
 十字に構えた二丁の機銃を構え、「ヒトラーの電動鋸」と呼ばれた特徴的な発射音を響かせて浄化属性を備えた聖なる弾丸が毎分一千四百発の連射速度で炎の魔獣を穿ち砕く。
 同時進行でライダーの操るスピリットは鮮やかなバレルロールを見せてタイフーンが放ったミサイルを回避、その遠心力で背面飛行のままウェポンベイからSDBを射出。
 セイバーは両手の機銃を縦横に操って炎の蛇となったSDBを撃墜、そこで弾切れになった機銃の片方を投擲、それが投擲宝具扱いで炎の魔獣を爆砕し、空いた片手で背部バックパックから引き抜いたメタルリンク弾帯を残った機銃に接続して乱射を再開。
 セイバーの操るタイフーンが海を蹴立てて飛翔する鯨ならば、ライダーの駆るスピリットは大空を舞う凶鳥、全幅五十メートルの巨大な翼が急旋回とバレルロールを駆使した戦闘機並みの戦闘軌道で対空ミサイルを回避。
 タイフーンの張る弾幕を縦横に縫って回避しながら、同時に炎の魔獣と化すSDBを射出して敵機を攻撃。
「確かに大した火力だが、回避できないほどではない。ポセイドンの懐に沈め、まだ見ぬサーヴァントよ!」
 スピリットを駆るライダーは全開のアフターバーナーに重力加速も加え、音速超過の急降下からの突撃、衝撃波を大気の斧として放ち、同時にウェポンベイからありったけのSDBを射出。
「神話を持ってさらなる神話を打ち砕くは我ら英雄の心意気、その威力は翼にて応えろ『黄金の手綱(ポリュエイドス)』、我が騎英の伝説の具現よ!」
 急降下から機首を引き起こして縦U字を描くインメルマンターン、無茶な曲芸飛行をライダーの宝具は見事に具現、爆炎から離脱。
 その会心の一撃をタイフーンはさらなる曲芸で回避、鯨のように跳躍したのだ。巨大な海生哺乳類のように重力の束縛から解き放たれ、海面の拘束を打ち破って巨大な鋼は宙を舞う。
 戦略爆撃機の頭上を取った潜水艦が、外殻ミサイルベイから対空ミサイルを全弾射出、降り注ぐミサイルをSDBが迎撃に向かうと同時に、ミサイルの上から迸った光刃の一刀に炎の大蛇は爆砕。
「っ――――まさか!?」
 轟音を上げてスピリットの装甲が破砕、マスターと共に衝撃にシートごと射出されたライダーの眼に映ったのは、タイフーンから射出された対空ミサイルをサーフボードのように操って飛翔する、白無垢の騎士の姿。
「『金色の選定(フォー・グランド・シバルリー)』――――どうやら、今日はこれまでのようだな」
 純白を超えて黄金となって収束した魔力の刃を一閃、スピリッツを一刀両断に斬り捨てて、セイバーは長剣を鞘に収め、ミサイルから飛び降りた。着水して巨大な水煙を巻き上げるタイフーンの甲板に着地。
「さらばだライダー、次なる会敵を楽しみにしているぞ」
 沈みゆく潜水艦の上に立つセイバーの背後で、両断されたスピリッツが残っていた弾薬ごと爆散した。




――――おさえて、破底魔先生!

破底魔:「とうとう三回目になりますが、皆さんお元気でしたか? お元気じゃない皆さんもこんにちわ、そしてあけましておめでとう、みんな大好き、『おさえて、破底魔先生!』の時間です」
犬只野:「ワンワン」
死狂人:「さて、今回は、エーベルト、セドナをデートに連れ出すの巻。ウィクトリア、保護者ができるの巻。そして、怪獣大決戦、潜水艦対戦略爆撃機の巻、だ。特にラストは突っ込みどころだらけだな」
犬只野:「ワンワン」
死狂人:「キャスターのマスターは……デートとか、何をやっているんだ? 今は聖杯戦争中だぞ、まったく。大体、俺が生きていた頃にはマウント深山もわくわくざぶーんもなかったからな。ブリュンヒルドとイチャつこうにも、ロクな選択肢が無かったんだぞ」
犬只野:「ワンワン」
破底魔:「シグルドさん、論点がズレてますよ」
死狂人:「……あれ?」
破底魔:「まったく、これだから古代生物は……。まあいいでしょう。とりあえず、今回のテーマは、今回は戦死者がいないので、前セイバーとライダーの戦力評価についてです」
死狂人:「一部の読者の予想通り、ライダーの正体はベレロフォン、そして先代セイバーの正体はギャラハッドだ。既に宝具を使っている以上、バラしても構わないだろうとの作者の判断だ」
破底魔:「どっちも近代兵器を武器として使用できる宝具を持っていますが、ぶっちゃけった話、これは強いのでしょうか?」
死狂人:「ふむ、神秘を持って力と為す魔術師には実感が薄いか? ならはっきり言おう、洒落にならん。特に、こいつらのようにしかるべきどころの話じゃない武装を用意している場合にはな」
破底魔:「……では、今回登場したスピリットについてはどうなんですか?」
死狂人:「コイツは非常に分かりやすい。冬木の第四次聖杯戦争で登場した征服王のチャリオット『神威の車輪』だが、これの威力がちょうど『威力を近代兵器に換算するならば、
戦略爆撃機にも匹敵する』などと言われていたな。そしてあれがリアル戦略爆撃機だ」
破底魔:「……」
犬只野:「ワンワン」
死狂人:「ちなみに、征服王が十台ほど購入したいなどと言っていたのもアレだ」
破底魔:「……」
犬只野:「ワンワン」
破底魔:「……」
死狂人:「とりあえず、ファーティマが固まっているので、俺が締めるとするぞ。そろそろ時間だからな。今日の授業と『おさえて、破底魔先生!』はここまでだ。次回からは新番組『死狂人先生のドキドキ☆放課後個人授業』が――――」
破底魔:「――――始まるわけないでしょうが、この不倫英霊!!」
死狂人:「チッ」
破底魔:「やれやれ、危ないところでした。やはり、私がしっかりしていないといけませんね。とりあえず、この駄い英霊は犬に任せましょうか」
犬只野:「ワンワン」
死狂人:「っ、今日は妙に大人しいと思ったら、いつの間に頭上に……! ぎゃあああああああああああ!!」
破底魔:「それでは、今日の授業はここまで。間違っても変態英霊の個人授業など始まりませんので、皆さん、そこのところを間違えないように。テストに出ますからね。それでは、次回も『おさえて、破底魔先生!』をお楽しみに!」