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なしくずしの死


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  • 河出文庫
  • L‐F.セリーヌ著
  • 高坂 和彦訳
  • 河出書房新社

セリーヌを読んだ。5年前くらい大江健三郎の小説で知って以来、「夜の果ての旅」が気になりながら、なかなか手を出せずにいた。なんたって、パラ見だけでも罵倒やら誹謗やら激しい言葉と、その長さに気が滅入りそうで。

それでいて、いつか読んでみたいと言う興味は尽きず最近になってまた探していたら、中央文庫の「夜の果ての旅」は近所でも取り寄せられないほど手に入りにくくなっていた。かといって箱に入った黒くて大きな「全集」は大きいし、必要以上におぞましい演出がほどこされ、電車で読んでいたら怪しまされそうなくらいだ。そんなとき本屋の新刊で河出書房の文庫「なしくずしの死」を発見した。

なんたって長いのは苦手。上下合わせて900頁以上のボリュームと、内容のほとんどが誹謗中傷の叫びやらなんやらで埋め尽くされているのに驚いた。極端なまでの暴走は、なんだか笑ってしまうくらいで、それでいて切実な訴えにも聞こえてくる。貧困のどん底が人間というものを一括りに出来ないほど大きな差異で引き離している「さま」があふれていた。

たとえば「怒り」一つとっても、程度の大きさでは語れない。憎悪という感情自体が想像を超えて主人公の生活には染みついており、日常の、なんの取り留めのないレベルから気が狂う寸前までの大きな振幅に対して常に付きまとい、運動の絶え間ない連鎖から精神・体力をも消耗させ、心のバランスというより、脳に直結した激流信号のようだ。

フェルディナンの長い長い旅は、彼の両親そして叔父、小路を取り巻く大勢の住民達と共に語られ、写し取られ、どん底の貧困と共に、笑ってしまうしかないような、はちゃめちゃで、切なくって、傲慢で、残酷で、まったく先のことなど考えていなくって。

生き延びることは確かに大変そうで、いったい生きるというレベルは一様ではないなどと、当たり前のような事を痛切に見せつけられたようで、けれど卑小な人間の行いなんて、生活していくこと、生き延びていく必要から振り返れば、単なる生理現象でしかない様にも思え。

それ以上に恐怖から逃れ、それ以上に憤りから逃れ、それ以上に憎しみから逃れることが、何よりも生きていく限りにつきまとってくるものなんだと驚愕し。「死」以外に選ばねばならないことが、生きていくことのなかには無限に広がっていて、その忙しいことと言ったら、いったい何も働かなくたってその忙しさは変わらないではないか。

小説に続くあることないことは、はたしてどこまでが現実なのか、まったく妄想なのかも分からない。 それが生き抜くことの豊かさなのだろうか。

「こうしてわれわれはまたも孤独だ」。レオス・カラックス「ボーイ・ミーツ・ガール」の冒頭には、この「なしくずしの死」の文章が引用されている。ゴダール「気狂いピエロ」のベルモンドは、アンナ・カリーナに「ピエロ」と呼びかけられては、「おれ、フェルディナン」と訂正していた。 2002-04-13/k.m


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