ギャラリー・間での100回展に行われた連続シンポジウムの記録。建築家を大きく5つの世代にわけ、それぞれ5人ずつ、総勢25人の建築家が登場するという巨大な講演。どれも参加しなかったが、これを読んでちょっと後悔。けれど行っていれば読まなかったかもしれない。このようにまとめてあるのは大変貴重ではないか。
出展者・パネラー(50音順) 青木淳、阿部仁史、石山修武、磯崎新、伊東豊雄、太田浩史、岸和郎、隈研吾、小嶋一浩、篠原一男、妹島和世、曽我部昌史、千葉学、塚本由晴、内藤廣、西沢立衛、長谷川逸子、原広司、藤本壮介、藤森照信、槇文彦、松原弘典、山代悟、山本理顕、吉村靖孝
前後の文脈を無視して印象に残ったところをツラツラとノート・・。これを見てもまったく意図しているものが伝わらないと思うので注意下さい。
原さん;僕はかつてのコミュニティー論なんていうものを、あなたたちが本気になって打破せよと言いたい。
昨今のコミュニティーに関する議論を、旧来からの共同体論だとしていることが、ちょっと違うような気もした。そこから、(旧来の)地縁や血縁などというのではなく、身体的な心地よさから出てきた建築として妹島さんなどを位置づけている。そしてそれらを言語化したいと。
塚本さん、妹島さん;ファッションと建築における社会性のあり方。「社会性という見方」へこだわる塚本氏と、言葉であまり語らずプロジェクトへの解答姿勢のみを示そうとする妹島氏。両者の建築家としての「差」がめだっていた。どちらも現代的な一断面を見せているが、どちらをもパフォーマティブに見せる人は、少ないと思う。
吉村氏;・・一方でスプレッドアウトした都市があるからこそ、ウォークマンなど通勤時間を満喫するための装置が発達したり、駅で買う週刊漫画が大人でも十分に読めるクオリティになったりしているという現実がある。
こんな風に日本の都市状況を肯定的にとらえた分析は共感をもって迎えたい。「メイド・イン・トーキョー」など。
山本さん;個人的に自分は何をやっているかという範囲でしか、われわれは発言できないということを徹底すべきじゃないかと思うんです。
実際に多くを実践しているつくりて人ならではの発言で、今回のシンポジウムでも中堅あたりの方々が似たような発言をしていたように思う。
千葉さん;「せんだいメディアテーク」を、プログラムと建築は「無関係」だということを象徴的に体現した建物ととらえる。・・あのチューブ状の柱という、およそプログラムとは無関係なところで決まっているある種不自由なものが空間を強く規定しているからこそ、あの建築は使われるプログラムに応じて、そのつど違う空間の発見のされ方が起こっていくんだということです。「空間の地形」。
あらゆるものが究極的に合理化されていくという過程で、個々の身体ですら、ある合理性のもとに細分化、再構築されてきた。それは言い換えれば、本来そこに実在していたはずの主体の抽象化の過程だったのだと思います。
青木さん;・・そのとき機能とは空間をある一定の方向に追い込むための一種のアリバイにすぎないのではないかと思うんですね。・・形式はフィクションとしてすごく大切で、そのフィクションを前提として、その上で意味をもたないその形式を利用すること。これを僕は、仮に「リノベーション」と呼んでいますが・・。
でも、自分にとって切実な問題を越えて正論を言うのは、ずるいですね。どうして身の丈でやれないのかなあ。・・誰もが反論できない正論でも、そこからは何も変わらないに、変えることもできない。ポリティカル・コレクトネスでは、アートなり建築は手段になってしまいます。でも、手段ではなく、それ自体が目的であるものがあって、それがアートとか建築なんだと思いますね。
岸さん;僕の場合には中庭なら中庭、外部空間なら外部空間というものを前提条件として引き受けて、少しでいいけれどもその意味をずらしたいなと思っている・・・。
藤本さん;結局は建築って最後には固定してしまうんじゃないかと思っているんですね。固定したときに、それでもある柔軟性をもっているというか・・。
内藤さん;要するに失われた家族の代償としての別荘建築というのがあるわけですよ。これは再生のシナリオですね。本当にそうなのかなあという点が、一つひとつの建築をつくるときにいつもひっかかる。
藤森さん;建築には無意識の世界(言語化できない世界)に働きかける力があると思っているんです。・・やはり人は目に見えるもので自分が自分であるということを確認していて、その最大のものが建築で、実はいちばん大事で本質的な価値があるのだということに、僕は最近思い至った。
2003-07-27/k.m
カテゴリー-建築
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