きょうのできごと



とても「なごんだ」。この感じは「癒し系」と言ってしまうほど簡単なものではないようだ。保坂和志の解説を読んでそんな気がした。けれど「なごみ」に向かわせる構造がどうのと分析できるほど小説を「分かって」いないし、むしろ「単純な感激」をもうちょっと「複雑な関心」にさせられる程度だった。

保坂さんの小説が「どう良いか」を説明する困難さにも通じていて、「そんな意味で」同列の作家ともなるのだろうか。だから解説している、とも納得できるし。「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」を読んだときの感想を見直してみると、やはり「どう良いか」を迷っている。

自分の中に幾つも響くシーンがあって、それら記憶の網を「ある組み合わせ」でもって引っぱり出してくれる作用を小説が持っているからではないか

そんな風に書いていたが、やはり今回も近い思いではある。ただ気づいたことは、その場合の「記憶」ってかなり「曖昧なもの」だということ。たまたま先日「ジョゼと虎と魚たち」を見ていたから、関西弁の会話に対してすごく「なごみ」を感じやすくなっていた。さらに学生時代の飲み会のこと、友人と車で遠出したこと。そんな思い出がかさなったのだ。けれど「関西→癒し」ではなく、それはあの映画を見たときの「なごみの記憶」にほかならなかった。

確かに関西弁でかわされるやり取りに「なごむ」なんて、今までそれほどなかった。思い切り笑うことはあっても、今回ほど柔らかい印象を抱くことはあまりなかった。こうして得られた感覚も「交換不可能なもの」として、個人的な記憶に還元されていくのだろう。

この作品が映画化されていて、ちょうど公開されている。とても見たいと思った。しかし「待てよ」とも思う。「ジョゼと虎と魚たち」+「きょうのできごと(原作)」で得られた「なごみ」はとても感触の良い、ある意味レベルの高いものだった。これが果たして+「映画化作品」のときに、さらなる高みに向かうかは疑わしい。

懐疑的なのも、同じ行定監督による「ロックンロールミシン」での映画化に対して正直がっかりさせられたからだ。何もない日常を描きたいという監督の考えには共感するし、言説を読む限りとても関心させれらるのだが、どうも実作に共感できない。原作ものが続いている(次回作もあの有名なやつ)のもなんだか疑わしい。

やっぱり自分が好きな日本の監督は、みな(売れてからも)オリジナル脚本で勝負している(行定監督も何れやるのかもしれないけど)。とりあえずDVDにしよう(そんなに気になるのなら見ればいいのだが・・)。


そういえば作者が映画の撮影を見学している「B面」というエピソードのような部分。これも含めて一つの作品という感じになっている。時期的にいっても文庫版だけなのだろうけど、別に「できごと」という括りにも違和感ないし、それを許容する小説なんだと思った。そのなかで行定監督が、「なんで西山はシンメトリーが好きか」みたいなことを役者へ投げかけていたと書いてあるが、そんなこと話すの好きそうな人だなぁと改めて確認した。「ランドスケープ」という短編も以前見かけたけど、柴崎さんは建築好きなのだろうか・・。

映画化は余りにも必然っぽくてきっと誰が見ても賛否が大きく分かれると思う。というか最近の小説はほとんど映像が目に浮かぶような作品ばかりだ。読む側も書く側も映像の与えるものから自由でいられないのだろう。しかし配役を想定するのは批評性が必要で、単にタレントに詳しいだけでは思いつかない妙技なのだろう。女優では正直興行をひっぱれないのが日本映画の現状らしいので、なにも関西弁のたどたどしい人を使わなくても良かったのではないか(見てないけど)。2004-03-23/k.m

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最終更新:2008年04月11日 08:00