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80年代建築/可能性としてのポストモダン


  • 10+1 No.32
  • 著者名:五十嵐太郎日埜直彦
  • INAX出版
  • 2002年9月20日
  • 1,575円
  • 80年代ポストモダンを代表する建築家および理論家達の軌跡を検証することで、可能性と問題点を照らし出す。

80年代や、ポストモダンというのは今再び話題になっているのか。あるいは歴史的な評価としてはじめて議論されはじめているのか。確かに90年代論はよく見かけるように思うが、80年代論はどうか。過剰な時代として反面教師とされるイメージだ。バブル経済の崩壊とその後の不況があまりにもインパクトとして大きいからなのだろう。それは今現在も続き、僕が社会へ出た時から下降の流れはまったく変わらないように思う。負のイメージから思考停止させたい部分を誰もが持ち、語ることの必然性を持ちにくいことも確かだろう。

しかし狂信的だった時代には、盲目的な間違いとは別に様々な可能性をも秘めているものだ。そろそろ冷静になって学んできた部分を明らかにしよう。そんな特集ではないか。特集の著者は71年生まれ、東浩紀とも同じ。そして僕とも・・。何れにしろ、読んでいて楽しいものを提供してくれるのが同世代だというのは誇らしいし、複雑な気分でもある。

磯崎さんへのインタビューや「80年代リヴィジョニズム」という著者の論考はとても軽快かつ論理的で、自分が学生だったころから現在へ、またもう少し以前からの歴史的な流れがとてもつかみやすく並べられている。ああ、そうだったな、とか、そういうことだったのか、とか、近い時代へのパースペクティブとはとても刺激的だ。それは自分が生きてきた、または考えてきたことと直につながっていて、そこへある判断の刃がバサっと入りこんでくるような緊張感があるからだろう。

しかしこれは物語のはじまり、序説的な部分であってまだ先があるはずだ。なので物足りない気分でもあったが、きっと続きがあるのだろうと今後を期待するのだった。

動物化する建築/吉村靖孝について。

特集と合わせて、この論考などを読んでも、東浩紀はかつての浅田彰のように引用され続けるのだろうか。クールハースもそのような印象だった。けれどあれほどのカリスマ性を持つ建築家は今はいないし、今後も出ないのだろう。

「恣意性の排除」。この問題はポストモダンとも表裏一体ではないか。なぜならあまりにもナイーブに出てきた「流行」なのだから。この流れは依然として主流を占め、建築家なき時代、そしてすべてが建築家であり、すべてがプロデュースされる時代を引き起こしたと思う。いまそれは過渡期をむかえ、踏み絵としている世代も出つつ、いまだそう振る舞うしかない状況もある。ある意味とても倒錯した時代ではないだろうか。

興味深いのは欲望を迂回する建築として、「誤配」(これも東氏だ)という概念から、古谷氏のせんだいメディアテークコンペ案を持ち出している点だ。今の時代が「知的」欲望を満たす装置として建築を求めていることは確かだ。その象徴的な存在として図書館などがあげられる。本屋もそうだろう。どちらもとても混雑している。

では「知的」欲望が満たされることの仕掛けとはなんだろう。それは「誤配」にあるのだと思う。情報過多のなかで、自分が掴んだ「発見」ほど貴重に思えるものはない。毎日、新しい発見を求めて本屋へ行くし、ネットを覗く。しかし「はてなアンテナ」が実現したかに見える「自分が掴む情報の束」は、逆にある志向を持つ「閉鎖的な知性の輪」をつくってしまうことへ、大きく力を与えてしまっているように思う。

「整理する」、「パッケージングする」ことがビジネスとなる時代が何年か続き、今それらの筋道を消費しきった人達が増えてきているのではないか。もはや偶発的な「誤配」を通じて「発見」を得ることに興奮を覚え、その状況を逆に「作り上げている仕掛け」が見えてきたとも言える。

検索サイトの発達、リンク元の公開。巨大書店のカルチャーリーダー的振る舞い。それらが再び画一的な側面を持ち始めている。僕らは既にそこからも逃げ、迂回せずにはいられない状況に追いつめられているのだろう。2003-09-20/k.m


カテゴリー-建築雑誌思想