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<私>という演算


  • 中公文庫
  • 保坂和志(著)
  • 価格: ¥680 (税込)

小津安二郎の映画には独特なカメラワークがある。よく言われる低いカメラアングル以外にも、目線のあっていない向き合う視点とか、誰もいない部屋をとらえる視点だとか。そして彼の作品を批評した膨大なテキストがある。それは一ジャンルを築き映画批評の柱として存在している。

一方でそれらのテキストは一人歩きしていて、何か入り込めない城壁を築いているようにも見える。小津安二郎の映画を楽しむことは出来ても、膨大なテキストを通して見えてくる小津像なるものはとても崇高なものであり、簡単に楽しむことを拒んでいるようだ。それほどに豊かなテキストを生み出す作品という存在で、それはそれで興味深い。何れ楽しむテキストもきっと多い。

秋刀魚の味」という作品。それを見たときの素朴な疑問とか感激とか。自分の生まれる前の作品なのに、なぜか古くささを感じない。むしろ差し迫った何かすら感じさせる。それでいてゆっくりとした時間の感覚がある。

保坂さんの「そうみえた「秋刀魚の味」」を読んで、漠然としていた気分にたくさんの光が射し込んだ。「死」を想像させるということが漠然としていて出てこない。それは日常において「死」というものの存在だとか、「生」というもに対しての思考をいかに自分が「していないか」ということのあらわれではないか。

その思考が必要なのかは分からない。保坂さんのように常日頃そんなことを考えている時間が楽しいのかも分からない。けれど生活の中でもっと考えてもよい思考なのではないか。そして考えることでいろんな救いがあるのかも知れない。これは別に宗教的なことではない。

人生には越えられないものがたくさんあって、でもそれを「知り」そして「思考」出来れば十分であると気づくことが必要なのではないか。小津安二郎の映画を見て思う漠然としたものには、そのような思考がたくさん隠れているのだと思う。だからこんなにも多くのテキストがそれらを形にしようとあがいているのではないか。

「<私>という演算」に書かれているものは、漠然としたあがきに向けられているのではないか。だからこそこんなにも切実に迫ってきて、なおかつ読んでいて心地よい気分にさせられるのだろう。2004-05-04/k.m

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カテゴリー-小説