アドルノとホルクハイマーとの共著「啓蒙の弁証法」に対する解釈が「分かりやすく」て面白い。ならず者が出世して上流社会の一員となったが、昔の仲間を殺害して自らの「過去」の痕跡を抹消する・・。まるで中居正広の主演している「砂の器」そのものではないか。
文明化されればされるほど、文明を背後から支える野蛮な暴力を上昇させていくのが「啓蒙の弁証法」らしい。確かに日本国憲法の「健康で文化的な最低限の生活」という用語にはものすごい野蛮性が隠されているように見える。潔癖性も、食品の安全性も、ますます野蛮性を増すばかりではないか。
アーレントの「人間性」に関する解釈も「分かりやすく」て面白い。我々は(奴隷制によって確保された非人道的な犠牲の上になりたっていた)アゴラにて「自由」な討論会を実現していた古代ポリスが生み出した「人間性」に規定され続けているということだ。ようするに「公/私」をきっちりと分けられる社会的状況の上にしか成り立たなかった「自由」をずっと基本にして行かなければならないということ。
つまり僕らが「人間性」と言う時点で、それは既に実現不可能な社会構造になっていて、それを自覚出来ないと、「没個性」とか、他者への働きかけが形骸化したと思うしか行き着くところがないということだ。それは無自覚なままそれを求めようとして、危険な全体主義やら宗教に走っていく人が今後も出続けるということも意味する。2004-02-14/k.m
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