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「世間」とは何か


  • 講談社現代新書
  • 阿部 謹也著
  • 680円

「世間」とは何か?

この問いかけの意味することはなんだろうか?。それを意識したり対象化したりした経験のある者であれば、思う「ところ」もあるのではないか。社会人であることと、世間にもまれることが、ほぼ同様に語られていることを考えてみても。言葉の厳密な定義はよく分からないが、「社会」と「世間」の差と言われれば、それをになう共同体の大きさや、関わり合いの大きさの違いなどが浮かぶ。

けれど「世間」という言葉には嫌悪感に近いなにかをも感じる。それは僕にとって、否定的な意味での大人社会である。よく言われるような、「合意を前提に置いた馴れ合いの議論」などの談合的な態度から、欧米との比較を批判的に扱ったものへのそれではない。むしろ日常に置いて、人を道徳的判断とか、常識的判断とかで排他的な扱いをする態度などへ嫌悪を感じることが多い。それは、小さな閉じた「和」からはみ出した存在を、あっさりと否定する態度だ。そういった日常的な差別意識というか排他的な態度というのは、結構見かけられる。そこにはこの本で言及されているような「世間」の力が働いているのだろう。それを対象化出来ないほど、我々がどっぷりと浸かっている構造的な力だ。こうした批判自体にも実は「世間」の力が働いているのかも知れない。僕はそれを対象化出来ている自信もないし、そもそもそんな曖昧さ自体が「世間」の本質だとも思う。

こうして考えてみると、「社会」という言葉の使われ方は、いわば「世間」のそんな曖昧さを隠蔽するためにあるようにも思える。なぜならば、「世間の為に」といえば個人的な利害を意識した嫌らしさが露呈するが、「社会の為に」といえば、不特定な透明感が入り込む。それは特定の利害を射程に置いたものではなく、より広範囲を視野へ入れた清潔さを差し込めたように感じる。すくなくとも「たてまえ」としての手続きがとりやすいのだ。と、こんな風にどちらへも懐疑的イメージが浮かぶ。それは僕が「社会」にも「世間」にたいしても貧困な解釈しか持ち合わせていないことを示しているのだろう。

この本を読んで、「世間」への解釈が少し広がったような気がする。ただこの本の刺激的な部分は残念ながら「序章」にしか感じられなかった。冒頭の宣言的な発言は、その後に潜む著者の試みの深さを感じさせるが、実際には文学などを通しての「世間の系譜」がメインとなっている。むしろ個人的には、もっと分析された「世間」を見たかったのだが。他の著作も沢山あるようなので、もう少し探ってみたい人と内容でした。


ところで、「世間」というキーワードから思い浮かぶのは、先の参院選で勝利した自民党ではないか。それは党の旧システムを破壊しようとする小泉さんの人気で、自民党自身が大勝するという、やや倒錯した選挙の結果がそのまま現代の縮図にもなっているということだ。

いくつもの小さな「世間」という利害関係を調整してきた日本の政治システムを、世間という概念すら持ち合わせていないアメリカ流の社会への賛美と追従から「構造改革」というスローガンを掲げるに至る道のりは、世間にいまだ取り囲まれ、それでも「こじん」を支援するコミュニケーションツールの氾濫によって、世間が元々持っていた排他的な性質が助長し、若者の他を省みない行動に繋がっていくさまと、どこかパラレルではないだろうか。 2001.08.11k.m

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