銀座で写真展2つ



■野村佐紀子『NUDE/A ROOM/FLOWERS』

20年以上、荒木経惟のアシスタントをしながら写真家としても活動している野村佐紀子さんの写真展をBLD GALLERYにて。8ミリフィルムで撮影した粒子の粗い像や真っ暗の手前くらいまで露出を抑えた深い闇のような像など、どれも夢の中にいるようで儚い気分にさせる。ベッドルームでの親密風なヌードが多いけれど、アラーキーのような生々しさや無邪気さはなくって、粒子の粗さがボカシのようにも機能していて、写真でありながら記憶を誘うような普遍性としてあり、次第に力強くまとわりつくようだった。アラーキーが常識一般を覆すような破壊性の中へ美意識を投入しているとすれば、野村佐紀子の霞むようなモノクロームは、センチメンタルで自己防衛的にも見える。ただ、前者の方がより儚く、後者の方がより強かに感じてしまうのは、なぜか。


野村は、不思議な立ち位置にいる。荒木の弟子としての顔と、自分の作品を撮る写真家としての顔。その二つを同時に持っている写真家は、私が知る限り日本にほかに存在しない。さらに荒木の弟子を務めて、もうじき丸十九年がたつ。一方で、これまでに写真を10冊以上出版し、写真展も途切れなく行っている。さらに言えば、女性で男性のヌードを撮る数少ない日本の写真家である。つまりほかに類をみないタイプの写真家といえる。(写真と生活:小林紀晴)



■鈴木理策 アトリエのセザンヌ
それまでの宗教画や歴史画と異なり、「目に見えるものだけを描いた」というセザンヌに対して、あるがままを引き受けることはとても「写真的な行為だと」感じ、繰り返しセザンヌが描いたサン・ヴィクトワール山を撮影した『Mont Sainte Victoire』シリーズと、さらにセザンヌのアトリエを撮影したシリーズ『アトリエのセザンヌ』をギャラリー小柳にて。


1.5m角ほどの山の写真が2つ並んでいて、一つは曇りで影の無い像、もう一つは深く陰影の刻まれた像で、同じアングルなのにまったく違った写真に見える。それは分かり切ったことなのだけれど深く心を揺さぶられるのは、その山を固有名詞として見たつもりになる、そういった概念化の全ては一見して裏切られるのだという「あたりまえさ」へも、同時に直面しているからか。


引いて撮られたアトリエ全体と、クローズアップされた一部が並列に展示されているが、被写界深度の差で二つが同じ場所だと分かっていても対象物がこちらへ与える印象は全然違うものになる。写真は現実を映す像としてそれを疑わないし、どんなにデジタル化が進んでも目に見える像を頼りに生きていく以上、このことから逃れられない。


マスコミやエンターテイメントは時に写真の真実性を崩しその信頼性を奪うけれど、写真家は自ら作品でその不真実性を暴き、目の恣意性を露呈させ、その上でもういちど「あるがままを」引き受けることを強いているのだと思った。このように両者は決定的に違う立場で写真に接しながら、一方でパッと見に並列・区別されるところへ、写真の罠と面白さがある。2013-03-03/k.m


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最終更新:2013年03月06日 01:42