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  • 円城 塔/著


小説・詩・写真

僕らは有限と言う因果関係の中を生きていて、「ここに自分がいて」、と言っただけで、いなかった自分が存在し、自分ではない誰がが存在する。そして宇宙に無限の数だけ生命体が存在するならば、自分以外に存在する数は無限となり、無限の中で自分が存在することは無限分の1となり限りなくゼロに近い。

そんな有限と無限について考えることは途方もない。僕らが途方もないことを考えなくて済んでいるのは、時間と言う前進するベクトル、その因果関係を前提に生きているからで、すべでの秩序はそこへ起因する。この小説は時間が前だけを向いている世界が崩壊した時点からはじまっている。有限と無限は無秩序に入り込み、そもそも因果関係がないのだから秩序もなく、自分が存在していたのかも無限の不可能性とともに襲いかかる。

行きつく先は統合失調症だろうか。先日、いつものバーへ行くとオーナーと客が数学者が統合失調症へ陥る映画の魅力について語り合っていた。それはとても面白そうな映画だった。ここでも言えること、僕らは秩序を失った意識へ興味を持っているばかりでなく、魅力すら感じているのだ。

一夜明けて、『彼らが写真を手にした切実さを――《日本写真》の50年』の著者、大竹昭子さんが詩を引用していた。調べてみると引用以外の箇所で、「考えて」行うことと 「考えずに」行うこととの間には/無数の意識と無意識がある、荒木時彦さんの『letter』という詩の一部。これは自己言及を行い続ける小説へ通じていて、

SFこそ現代において書くことの意味を提示し続けるのだと思っていたら、詩にもあった。荒木時彦詩集には『〈非〉の徴候、およびマテリアについて』という興味深いタイトルまで。両者を見て、自己言及を行い続けているのは、小説や詩だけではなく、写真にも言えることだと思った。写真家とは、まさにその狂気な作業の繰り返しを生きている人でもある。だから続けることの困難を伴う。

以下、荒木時彦さんのサイト
http://tinyurl.com/3fnou42
http://tinyurl.com/3zhagjz

2011.07.27k.m

カテゴリー-小説写真