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ヤンヤン 夏の想い出




  • 監督:エドワード・ヤン
  • 脚本:エドワード・ヤン
  • 撮影:ヤン・ウェイハン
  • 出演:ウー・ニェンツェン、エレン・ジンノ、イッセー尾形、ジョナサン・チャン、ケリー・リー、ジョナサン・チャン、ケリー・リー、ウー・ニェンツェン、エイレン・チン、ウー・ニエンジェン、エレン・ジン


早稲田松竹、水曜日の最終会。客席は3割くらいか、学生や20代前半くらいの方が多い。エドワード・ヤン監督の遺作を5年ぶりに観た。59歳はあまりにも早かった、、。

映画と写真へ惹かれるのは、どちらにも「画」への果てしない美学があるからで、ビジュアルを優先的に見ることが多いけれど、実際に良い映画は美しいのだと思う。演劇には共時する時間があり、写真にはかつてあった時間がある。そして映画には両者がある。

「ヤンヤン 夏の想い出」には様々に対象が映り込むシーンが多い。この演出は元々固定アングルの多いエドワードヤンの作品でも際立っていると思う。そこが何処であるのか、次第に写りこんでくる対象によって明らかになっていく時間がとても美しい。

一歩引いたアングルは画面で起こっている事態を客観的に眺める視点を与えるが、音声によって対象はっきりと限定される。没入していくのは役者の演技ではなく、あくまでもそこにある時間に対してで、演劇の空気感にも近い。

約3時間という長い映画だけど、誕生から死までを描く壮大なスケール感が背景にあるので、小さなエピソードに安心して没頭出来る。部分の集積から果てしない全体を想像させる。その流れの中で小さなヤンヤンがつぶやく哲学的なセリフは、あまりにも根源的でハッとさせられる。

エドワードヤンがアイデアを思いついた14、5年前には、若すぎてこれだけの脚本が書けなかったと語るように、きっと観る側も年を重ねるごとに新しく出会える作品なんだと思う。毎朝起きると同じ生活が待っているのが嫌だというNJと、毎朝新しい世界がはじまると言った大田(イッセー尾形)が、互いに信頼しあうように。


台湾はよく昔の日本のようだと言われるが、それは見ための「懐かしさ」ばかりではなく、人柄を持ってそう呼ばれていることもある。例えば吉田健一の作品には昔の東京が外国を見るように描かれているが、それは「エドワードヤンの描いた台湾」を思わせもする。(以下、長いけど引用)

、、併しここで外国ということを幾度も出して来たが、その頃の東京というものを思うとこれも外国の感じがしないでもないのが不思議である。

我々にとって外国が外国であるのは一つにはそこでは何から何まで勝手が違うことをいや応なしに知らされることによってであると言える。

併しその何から何までの我々には解らない何かがそこに確かにあるのを感じることも外国の印象の一部をなしていてそれがそこの生活様式であり、そこの人達の間で行われている世界観、人生観その他であって昔の東京が外国のようであるのは実に簡単にその時代にはその生活様式も人生観もあったのに対して今はそういうものが認め難くなっていることから来ている。

例えば勘さんが会社の社長になって車を乗り廻したりするのはいやなことだと言えばその理由の説明をするよりも先に誰もがそれがそうであることを納得した。

或は甚兵衛が甚兵衛というおでん屋であってそこにいる間は他所に行くことを考えないでいられたのはその店ならばその店でそこの生活があったからで同じ事情から資生堂にいればそこの高い天井の下で時間がたつのが気にならなかった。

そういうものがあるのとないことの違いは微妙であってもそれが動かし難いものであることはどうにもなるものでなくて仮にここで資生堂も甚兵衛も人が行く所でなくなり、ただ団体でバスに乗って運ばれるそうした店に変ったと想像するならば或はこの辺のことが少しは呑み込み易くなるのではないかとも思われる。吉田健一『東京の昔』(中公文庫 1976)

2011-04-20/k.m





カテゴリー-映画