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アートの課題 -サイレント・ボイス-


  • 2010年10月 2日〜12月12日
  • トーキョーワンダーサイト渋谷
  • アーティスト:アラヤー・ラートチャムルンスック(タイ)、ギョンウォン・ムン(韓国)、マルワ・アルサニオス(レバノン)、ネスリン・ホドル(レバノン)


今年で4年目となる「アートの課題」は、「文化多様性」をテーマに、異なった文化的背景を持ちながらも現代世界が共通に抱える課題について世界各地のアートセンターと連携しながら、対話と制作、展覧会を通して取り組んできました。本年の企画 "Silent Voice"(サイレント・ボイス)は、日常には見えにくい歴史的、政治的な問題に鋭く切り込みながらも、それを声高に、あるいはプロパガンダのように語るのではなく、一見穏やかにもみえるしっかりとした個人の語り口で語るアジアの女性アーティストにフォーカスし、アジアが作り上げてきた世界へのかかわり方と、その作品と作品制作に対する「attitude(態度)」の問題に言及することを目的としています。この「attitude(態度)」こそが、アジアにおける世界へのかかわり方、アートの在り方の鍵を握っており、アジアから世界に向けて発信すべき大きな価値観であると考えられるからです。展覧会期中、参加アーティストをはじめ、美術、パフォーマンス、建築、社会学など様々な分野の専門家とともに今日の社会的な問題やアートの役割について考えます。

いったい自分にとって世界とは何だろうか。ハンガリーアルミニウム精錬工場の有害泥土流出、200億ユーロを受領したギリシャ政府の財政危機、根深い宗教的偏狭とパラノイア的なNYモスク建設問題、多文化主義は失敗と述べたドイツのメルケル首相、、、、。きっとそれらをフィクションと同義のように捉えている自分。

目の前の人や物事へ向き合えていないのに、世界の不幸を憂うのは偽善だ的な批判がある。確かに自分は直面している事態を解決できないままに、世界を嘆いたりすることはあってそれは逃避ということか。目の前の人へ向き合えないまま友人の人間関係へ言及するのは嘘をついているのか。

学生時代の自分にとって「表現」することは生きる上での切実な問題であった。就職氷河期前夜の時代で進学することも夢想したが、それいじょうに社会へ1日も早く出て実務に触れたかった。もう幻想はたくさんだった。やがて社会の厳しさへ直面した時も、学生時代の情熱を信じて乗り越えてきた「あれ」は切り売りだったのか。

私の人生は学生時代の切り売りよ、そう何度も夕飯を御馳走になった上司の奥さんは、飲むたび切実に語っていた。あなたは違うのよと激励されていたように思うが果たして自分はそうでなかったと彼女に言えるのだろか。

20代、バイトに来る学生を連れてよく飲みに行った。表現することの渇望、建築することの罪悪、社会性と向き合うことの重要性、自己実現と実存との間で揺れ動く日常。そんな良く分かっていないことを、他愛もなく朝まで語って過ごした。

情報と人の調整、モノへ対峙する粘り強さ。関係性を作り上げることは魅力的な表現だ。そう信じて調整に励む。けれどモノへ対峙することは調整を裏切っていくことだ。もしくは自分で調整し構築した関係をモノで乗り越えていくのが表現だ。

没頭することで人を裏切り、その先へさらに没頭することで和解を実現する。そして次のステージへ向かう。一方で、人との関係ばかりへ向き合うことは、裏切りも和解も生まない。反面、それは表現としての欠如を生み出し、時間を、そして自分を切り売りしたことになる。

ビジョンがないと人は言う。けれど目の前の「あれこれ」へ向き合わない限り、シークエンスすら生まれない。論点は違っていて、切り売りし続ける自分への批判だと気づかないのだ。ビジョンを持つことは、裏切りと和解を受け入れる覚悟と同義なんだろう。結局その問題へ向き合わずに、遠くの憧れへ逃避している自分を僅かに自責するかわりにビジョンを疑ってみせるのだ。

結局茶番だ。そんな自分を批判したところでフィクションと同じかもしれない。そう思う自身の姿をTVの画面を見るようにながめているだけかもしれない。世界と自分はこうして堂々めぐりを続けていく。こんな自分にも、少なからずこの展示は関係している。2010-10-23/k.m

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