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存在の耐えられない軽さ



  • ミラン・クンデラ (著), 千野 栄一 (翻訳)
  • 集英社文庫


われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけにされていることになる。

ニーチェの永劫回帰について考察をはじめる冒頭からちょっと変わった小説という印象。物語の全貌を前段で明かし、振り返るように進む。まるで芝居のような構成に惹きつけられた。

作者は登場人物たちを人間とは考えていないようだ。SFが思考実験であるように、小説の世界を動く人物はあくまでもキーワード、そこから広がる物語は思索の場でしかない、そう言っているかのよう。

内面を深く描写していくドラマでなく人物を「感情モデル」で動かし、それを見て思考を広げるキャッチボールのようだ。

主眼はどこか。「存在の軽さ・重さ」であったり、「俗悪なるもの=キッチュについての批判」であったり。それは物語世界への没入を避けるようでもあるけど、同時にこの小説を面白くさせてもいる。

「軽さ」とは自由で明るい。そして存在の無意味さ、虚しさにつながる。「重さ」は充実した人生の姿。そして束縛やすれ違いを生む。我々はどちらを選ぶべきか、疑問を投げかけられる。

軽さの男女としてトマーシュ(男)とサビナ(女)が居る。トマーシュは「性愛的友情」と呼んで愛人をたくさん持ち、テレザと結婚しても浮気は日常ごと。テレザの描き方から見て、思考実験というよりも作者自身の生き方を示しているかのようにリアルだ。

テレザは自分の身体が唯一つしかない、取り替えのきかないものであることを強く訴える。一方、トマーシュにとって妻と愛人との差は歴然と存在し、浮気が妻への愛を何ら妨げるものではないのだと言う。

いったい「心と身体」を別々なものとして考えるのか、男女の差こそキッチュであり根深い違いなんだと言われているよう。

あたかも心を切り離し、他と同じ身体として扱われることが経験として、またジェンダーとして消え去らない女性がいて、またその原因を(間接的に傍観することでも)作り続けている男性がいる。

男女の差が、性愛とか純愛とかの関係だけでなく、軽く生きるのか重たさの呪縛から逃れられないのか、前者と反転したフランツとサビナの断絶を描く鍵にもなっていて興味深い。

男女関係の語りがたさ、どちらとも着かないそれぞれの理想像、分かりあえないことの魅力、本質的に求めあうさま。それらはみな「俗悪なるもの」によって支えられているのだろうか。そんなことに思えた。2010-10-11/k.m

(追記)

ヨーロッパのすべての信仰の背後には、宗教的であれ、政治的であれ、創世記の第一章があり、世界は正しく創造され、存在は善であり、従って増えるのは正しいという考えが出てくる。われわれはこの基本的な信仰を存在との絶対的同意と呼ぼう。(中略)以上のことから、存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なるもの(Kitsch)という。(P314)

俗悪なものは続けざまにふたつの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供はなんと美しいんだ!第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのはなんと素晴らしいんだろう!この第二の涙こそ、俗悪を俗悪たらしめるのである。世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なものの上にのみ形成できるのである。(P318)

この部分をはじめとするキッチュさに対する徹底した批判は随所に折り込まれていて、それら細部にとても共感させられる。先日のチリ落盤事故を世界中でブラボーと叫ぶ無防備さへ過敏になってしまうのも、この小説を読んだ直後だからではないよいうな気がする。微妙な問題かもしれないけれど・・。2010-10-15/k.m

カテゴリー-小説