東京湾景






先日読んだ「ランドマーク」がストイックな印象だったからか、この「東京湾景」はとてもストレートな恋愛小説に思えた。

携帯の出逢い系サイトで知り合う。いかにも現代的なネタだ。けれどこのシチュエーションへ既に違和感を持ってしまう人は、吉田修一の作品すべてに共感が薄いかもしれない。というのも、彼の作品はそんな微妙な位置を常に歩いているように思えるのだ。

たとえば、女性のほうは最初に名乗った偽名のまま交際を続けている。一方男性はそのことを知ってもあまり気にしない。この部分へ「普通ショックだろう」と突っ込みを入れてしまうことは彼のファンにはほとんどありえないことだと思う。そして同時にその部分へ違和感をもつ人も多いと思う。

恐らくこの温度差が微妙に響いてくるのだろう。現代を生きる若者(ヘンな言い方だけど)はある意味で両方の現実を行ったり来たりしているのではないか。現実に正直なほど違和感をもつけれど、そういったシチュエーションをまったく受け入れられる現実感を持っている。

作品の中でこの振幅はだんだんと大きくなっていく。二人が付き合いだした後、互いの身体をモノのように欲望していくことや、男性の胸にある火傷の原因を小説を読んで知った女性の動揺など。このあたりになると、両方に対して微妙に受け入れがたくもなる。

当然、この振れの大きさこそ作家の狙う部分なのだろうし、そこで惹きつけられるからこそクライマックスを迎えられるのだ。けれどいつも思うのは、ちょっと「あざとい」ということ。吉田修一の作品が面白くもあり、一方で昔のトレンディードラマのような印象をもってしまうのはこの「あざとさ」だ。

映画を撮るときに引用が避けがたいように、作家の中ではこの「あざとさ」こそ腕の見せ所なのだろうか。確かにそう気づいた頃には、ちょっとほくそえむ程度でむしろ物語りにはまっている自分を見つけてしまうのだから。

それにしてもわざわざ小説家を登場させ男性の過去を無理やり語らせることによって、彼の恋愛感というかトラウマのようなものを引き出すというのはどうだろうか。女性も似たような過去を持っていて、それは同級生が突然現れて語ることで明らかにされる。思えばどちらも強引な設定だ。

このように主人公自身について(自然に)語らせることは映画においても大変難しい部分だ。不自然なプロットを踏まずして感じさせる名作の存在がある証でもないか。そういう意味で「東京湾景」は名作ではないと思う。けれど吉田修一を読む体温の中へ既に名作へ向かう用意はされていないし、作家自身それをよく知っているのではないか。彼の魅力はそこから先にあって、だからこそ「微妙な位置」であり、だからこそ惹きつけられるのだ。2004-05-25/k.m

「恋愛小説論」を読んで

  • 『小説トリッパー』に掲載された仲俣さんの『蹴りたい背中』と『東京湾景』の評論。
  • ネットで公開されていた。(●引用は主にと『東京湾景』について書かれた部分)
  • http://www.big.or.jp/~solar/odaiba23.html
  • 本人いわく「恋愛小説論」のようです。


●コミュニケーションにさきだつ一種の過敏さばかりを抱え込んでいるがゆえに、亮介と美緒はすれ違い続ける。
●話せばなんでも分かり合えるということを前提とする近代的な「友情」なんかよりは、たとえ「すれ違い」ばかりにせよ、その先にあるなにかをこの二人は求めているからだ。

前文が吉田修一の小説でよく出てくる「乾いた部分」で、後文がそれゆえに浮かび上がってくる「情念的な部分」だとすれば、自分が惹かれるのは両者のバランス感覚に対してかもしれない。そして仲俣さんは以下のように恋愛小説を定義している。

●恋愛とは特殊な形式の友情である、そして、恋愛というプロセスを通ることではじめて一般的な人間関係が形成されるような人間同士の出会いというものがこの世には存在する、恋愛小説とはそうした特殊な友情の成立にいたる経過を描いた小説のことである

確かに上記の定義にしたがえば、『蹴りたい背中』と『東京湾景』も充分に恋愛小説になると思う。定義があいまいであるが故に「これって恋愛小説?」とか「こういうのは好きだけど恋愛小説はあんまり・・」といったような意見を生むのかもしれない。もちろん「ささやかな」意見なんだけど。

結局仲俣さんは上記の小説を「恋愛小説」だと言ったようなものだけど、それってどんな意味があるのだろうか。他者を発見したり、人間関係が形成されたりすることを「友情」と呼び、恋愛も広義(あるいは特殊)な意味でそれに含まれることを再認識されているのだけど。もちろん今の社会は恋愛至上主義だとか言われるくらいに、コミュニケーションへの際限なき願望があるようだ。

では、そこには上記の「恋愛への曖昧な定義感覚」のようなものが原因にもなっているのだろうか。確かに『蹴りたい背中』と『東京湾景』が恋愛小説という「在り来たりではないかもしれない」という感覚によって読者を獲得しているとすれば、TV番組に見られる疑似恋愛モノの氾濫は「これって恋愛かもしれない」という感覚によって視聴者を獲得しているとも見れる。

両者は反転しているが、同じ欲望に基づいている。そこから見えてくるものは、むしろ「恋愛」よりも人と繋がっていたいという「関係への欲求」ではないか。だから小説でもTV番組でも「熱い」人間関係を描いてくれれば「売れる」のだ。それが恋愛かどうかは、商品名のようなもので中身とはあまり関係ない。さらに実生活においてもそれが恋愛だろうが友情だろうが、重要なのは関係が築けたかどうかで、両者に本質的な区別は希薄なのかもしれない。

結局同じような所にもどってきた・・。けれどそのように曖昧なものを再定義するのではなく、どうして関係性なのだろかと考えたい。なぜそこまでして繋がりたいのか。関係したいのか。あるいは関係を妄想したいのか。

●携帯電話的なコミュニケーションのもつ過敏さの罠から亮介と美緒の二人が自由になれたとき、この小説はようやく終わる。

確かにハッピーエンド的にこの小説は終わった。けれどこの「希望の兆し」のようなエンドマークは正直物足りなかった。むしろ上記にある「コミュニケーションのもつ過敏さの罠」のほうへ興味が湧いた。罠というからには、そこへ引き寄せられる姿とはまってしまった自身の姿とがある。けれどそのことはあまり深く描かれていなかったように思う。

関係への注目がこれほどに高まっている時代ならば、もっとそこへ的を絞った小説を読んでみたい。2004-08-25/k.m


カテゴリー-小説
最終更新:2009年03月13日 14:00