暴走するインターネット+ネット覚え書き



  • 暴走するインターネット
  • ネット社会に何が起きているか
  • 鈴木謙介
  • \1,500
  • 2002.9


「私たちはある見方を通じて、その人にとっての真実やリアリティを体験しているのであり、その見方の重要な部分は、その人に先行するある社会的な前提から供給されているとみるべきであろう。」

冒頭に出てくる上記のような考え方が、社会学系の著作を読むとき最大の魅力となってあらわれてくる。一見自明なことのようだが、僕らはこの前提を盲目的にやり過ごすことで新たな日常を送っている。新鮮な響きや、納得できる事柄、「あるある」とうなずいている真実。すべてフレームの中へ納まる思考となっている。それゆえにフレームをはみ出す見方、あるいはフレームそのものを見せつけてくれるパッケージングへ魅力を感じるのだ。しかしそれは既に日常的ではない。身構えた思考でもある。

共通目標を失った現代社会においては、オフラインにおいてコミュニケーションを構築していくことへ難解さを伴う。同時に社会から承認されないオンラインでのコミュニケーションがさんになっていく。著者はこの認識をいずれは変えて行かざるをえないと言っている。つまりオンからオフへと接続される出口を有するようにシステムを設計するというのだ。

どうなのだろう。既に僕らはそれをしつつあるのではないか。オンとオフの社会的認識よりも、有意義なコミュニケーヨンをそこから作り上げている事例の方が先立つ。と、そう思った。どうしても取り上げられるスキャンダルは負の側面を強く取り上げ、たとえ一度の過ちだろうが、不可解な状況は抹消されやすいものだ。「出会い系」の生み出した過ちは、あたかもネットに対する不理解を棚上げにして、それ自体を抹消していこうとする動きにつながってはいないだろうか。そしてそれは、あらゆるワイドショー的感情の系譜をなぞってもいないだろうか。「朝鮮人はコワイ」もしかり・・・。

この本はとても分かりやすく書かれており、ネットが社会化されていく現代を、とても精密に映し出してもいる。むしろ新聞コラムのように、もっと幅広く受け入れられるべきだ。いや、ワイドショーこそ自明なことへ向けた視点を導入すべく本書を参照してみたら・・・?。

2002.10.14/k.m

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ネット覚え書き

「私的な私」のまま「公的な場所」に出ることが可能になった。「暴走するインターネット」で著者の鈴木謙介はそう言及している。「ホームページ」とはまさに私的な領域を公開することを示した言葉なのだと。今や芸能人がマスコミに発表したプライヴェートな情報は、ウェブサイトから発信されたものが多い。僕らは自分の日記とウタダヒカルの日記を等価に扱うことも、リンクを張ることも引用することも勝手に出来る。

しかし依然として実際に顔を向けた会話において、私的な領域を話題にするコトへ抵抗を感じる。屈託無くしゃべられるコトへも違和を感じる。なのに「私的な私」のまま「公的な場所」に出ることへは、驚くほど抵抗を感じなくなっているのだ。両者はまったく違ったようでいて密接に結びついているのだろうか。やはりコミュニティーという存在を信用出来ていないのだろうか。きっとどこかで裏切られるコトを予測してしゃべっているのだろうか。その時の自分にとって痛手の少ないような話題しか持ち出さないようにしているのだろうか。

では私的なモノとは一体なんなのだろうか。個人サイトでの一方的な公開には、確実なリアクションを求めているとは限らない「作者の影」がある。他者の中へ自己の鏡像を見つけるように、あらかじめ複製された自己のモデルがネット上に散らばっていて、そこから幾つかが拾われて反応を示しているかのように感じる時がある。多くの掲示板が差し障りのない「お約束な」レスをつけているのは、そう言った作者の意図を読みとっているからではないだろうか。そして「お約束」からはみ出るようなレスは場所を限定されて活動される。2チャンネルのように、しっかりと特定の場で。あるルールのように見えるこの現象は「私的な私」のまま「公的な場所」に出るというコトの限界をあらわしてしるのかも知れない。

偶発的な言葉の暴力は意図されない。繊細な絆で結ばれたネットコミュニティー。(でも僕は案外それが好きだったりする。)ここは正に自己によるモデルの「再生産の場」ではないか。作り出されたモデルはレスに触れて微妙にバージョンアップされる。そうして自己の鏡像により近い形へと成長していくのだ。また、その時重要なのは活動の場でもある。掲示板ごとにキャラを変えるように、現実の活動の場においてもモデルは再生産されている。場に応じて変えられたモデル達によって、やはり自己の鏡像は強化されていく。活動のバリエーションを多く持つほど「変わらない本来の自分」という像へ帰属されていく。それこそ、その人の「存在理由」として了解されていくのではないか。このようにネット生活は、つきあい方そのものを自己を巡るモデル製作の現場としてはいないだろうか。

雑誌の中にも「たくさんの私」が散らばっている。それらは緻密にカテゴライズされ、微妙な差異をもって陳列されている。「日々新しい自分を発見出来る」という戯れを提供しているかのように。その様にナルシシズムは進んでいる。映画や小説でも「たくさんの私」が溢れている。一体に僕らは自分の問題として社会を考える時に来たのかも知れない。けれどこのように自己中心的にネット社会を考えることは、何とも心苦しい。それは「意図していないこと」だからなのか。出会いが何か変化をもたらしてくれる。このことは確実にネットのなかにもあるだろう。しかし自己の呪縛から解放された私を見ることは出来ない。そんな風に思う時がある。

2002.10.26/k.m

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カテゴリー-ネット社会
最終更新:2009年03月12日 18:37