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最後の対話/ナショナリズムと戦後民主主義







「ナショナリズムと戦後民主主義」というタイトルが示すように、福田和也大塚英志の思想的差異と、共通意識などをベースにした対談。昨年の選挙前に出版されたモノの続編的存在。

この二人の著作はあまり読んでいないので、論壇での位置づけなど知る由もないが、大塚 英志の執拗なまでのこだわりから出たセリフによって、福田 和也とは相容れないながらも、お互いの差異が同じ認識による表現の差からくるものでもあるのがよく分かる。もちろんそこらあたりにはあまり興味はなかったのだけれども、今回の「テロ以降」にされた対談であることがまず興味を引いた。

ナショナリズムを表徴するモノはなにか?「天皇」がどうのと、こだわっているのはこうした言論の世界だけで、僕が抱くその距離感というものは無意識なりにも縮まらない方向にあると思う。この間に存在する隔たりについて考えることすらしないが、何故にそこまで取り上げられるかは、それに対する「無知」を差し引いたくらいに興味はある。

僕にはささやかだけれども、ナショナリズムという言葉が示すもののなかには、どうしたって歴史意識は広がらざる得ないと思う。福田 和也のようにあらゆる歴史的出来事を縦横無尽に行き交いながら、現在という一点を見つめる眼差しは、僕のような「無知」からは比べようのないくらいパースペクティブな世界なのだろう。どんな「お題」ですら、瞬時に語り尽くせるデータベースをかかえているのだ。

そんな彼が定義するナショナリズムが「間テキスト性」だというのはとても納得させられる。そして同時にサブカルチャーを生き、そこに他者性のない危険なまでのイノセントさを見ている大塚 英志が、「間テキスト性」などという緩やかで連続体のような理想は見いだせず、もっと断絶していく自意識の誇大化を危惧しているのも納得だ。

アメリカには真の民主主義が花開いていると言い、そこから受け継いだ思想と共に生きる戦後民主主義世代と、表面的な文化のみを受け入れ、アメリカ型消費社会の追従を生活に浸透させきった僕らの世代。両者が微妙な肯定と共に、ナショナリズムに対しての「表面的な類似」を見出させてしまうことが確かにあるのかも知れないと思った。

日本が戦後民主主義的な思想に表面的にでも入り込みやすいのには、主体性の問題とも多く関わっているのだろう。福田 和也の言うように、戦争による大量殺戮や植民地主義による人間性の否定をもっとも大規模に行ったのはアメリカでもあって、それだからこそ、それをも誇りとしているアメリカは強いのだ。日本の最大の壁が、「過去に悪いことをした」、「つまらない国に生まれた」、という昔に捕らわれ続けている原因でもある。

しかし最大の壁は、全ての議論を遠のかせてしまう稀薄さではないだろうか。戦争が終わり、民主主義という希望の中に芽生えた幻想がこれまでの日本を支えてきた。そしてその幻想は、日本の国家、象徴である天皇、行政を司る官僚機構を忌み嫌うことを出自としている。

しかしそのような反国家的なものをベースにした「思想」自体もイデオロギーとなり、時代と共に消費され、稀薄化して行かざるを得ない。現に僕らの世代はそんなイデオロギーを見いだせる実感など、知的な領域としてしか存在せず、そのような状態において、ナショナリズムとの議論自体が、論壇でのエンターテイメントにしか過ぎなくなっている。

大塚 英志は今の問題を、サブカルチャーがもたらした漂白作用にあると指摘している。イデオロギーがもつ屈託や摩擦を一度漂白してしまい、サブカルチャーの中での流通だけでなく、元の位置にまで屈託のないカタチで戻っていっているのが危険性だと・・。

リアルな主体がそのように政治から切り離され、あらゆる危機感を仮想化していく平和な国。これが未来の人類の姿だと思えばいいのか、イデオロギーに身を戻していくのが賢明なのか、考えさせられる対談でした。

2002.01.27k.m


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