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広告都市・東京-その誕生と死





社会学系の書物では都市論と結びついたとても読みやすい内容だと思った。前半の「トゥルーマンショー」の引用はあまり面白くないが、後半90年代以降の渋谷論は楽しい。個人的には80年代のセゾン文化を伝えるものは幾つか読んだことがあるので、あまり新鮮な分析には感じなかったが、それを現代にまでつなげてくれたのは今回初めて目にしたように思う。

SMAPをはじめとする近年の渋谷広告ジャック。明らかに衰退化している西武、東急のデパート内部。パルコの生き残りを懸けた大規模な改装のイマイチさ。ランキンランキンというショップ形式・・。渋谷を取り巻く状況は気になるコトが多い。そんな疑問に細かく切りこんでいく内容だ。

著者は1971年生まれ(同い年)。理論社会学・メディア史。著書に「広告の誕生」など。同年代の社会分析にはうなずける(または、うなずこうとする自分がいる)箇所ばかりだ。色々と気になる所をマークした。取りあえずプロットしておく。
追記ノート/2003.02.22

著者は「80年代の広告=都市」とは、パノプティコン的な広告空間によって"「見られているかもしれない」"という不安にとり憑かれた人々を不断に再生産し続けたと言う。このあたりから、僕の学生時代である90年代前半に急激に増えた「TOKYO WALKER」的な雑誌を思い浮かべる。既に80年代の消費社会とバブル経済を通り過ぎた後に、ああして雑誌を頼りに「東京らしさ」を学ぼうとする読者が多かったという事実。そしてその流れは「東京カレンダー」など現在にまで続いている。

雑誌の細分化はDTPやインターネット利用の流れからある程度の解釈は出来ると思う。ごく一部のカルチャーリーダーであると自負する若者は確実に増えている。彼らにうったえるためには、少々マニアックなだけでは物足りない。なんでこんなにあるの?と思うほどの雑誌には、そんなプチリーダー的読者層が存在していることを物語っているのではないか。

反面上記のようなマニュアル的情報誌の延命理由はいったいどこから見つければよいのだろう。あれらの情報はネットですぐ手に入るようなものばかりだ。ただ、あるとすればパッケージングの技が巧みであるということだろうか。情報過多においては、選別する手間を代行してくれる情報リーダーの存在が望まれる。「あいつに聞けばとりあえず安心」的な便利さを価値として見いだすから、これらの雑誌が売れ続けているのだろう。

さらに著者は現在の渋谷を"「情報量・ショップの多さというなんとも色気のない数量的な相対的価値によって評価される<情報アーカイブ>として機能している」"と見ている。そこには"「記号空間の象徴的価値を支えていた」"80年代的な「文化」という要素がもはや渋谷に存在していないことを示しているようだ。

確かに「渋谷はゴチャゴチャしてイヤダ」という人も多く見かけるようになった。僕が抱いていたイメージでは新宿が「アーカイブ」で、渋谷・原宿が「文化」だから、既に古い見方なのだろう。だた「文化」といっても渋谷に見いだされるそれは、いわゆるハイカルチャーではないことは確かだ。一部の「文化村」なる存在を除いてこの街に抱くサブカルチャー的なイメージは大きい。この場合サブという言い方も微妙だが・・。

たとえば「映画館」。確実に座って見たい映画は歌舞伎町で見る。そして渋谷では「そこでしか見られないから」という理由が多い。また、銀座や恵比寿においては「そこでしか見られないのにあえて行きたくない」という個人的な位置づけがある。このことから考えても渋谷は僕にとって重要な街である。パルコの前で行われるイベントが「ニュース」であり、地下の書店、あるいはブックファーストで手に入る文学が時代の気持ちをつかむ「ツール」であり、雑居ビルにひそむカフェこそが「広告空間」である。

しかし著者が言うような"「渋谷の郊外化」"も確実に押し迫っていると感じはじめていた。既にカフェブームは観光地化し、パルコの時代をつかめない空回り改装、雑誌コーナーのみが異常に混んでいるブックファースト。これらは紛れもない「一郊外」としての渋谷を示している。

そしてこれは街自体の変化ではなく、それをとらえる人の変化である。このことを、著者は"「都市を文学作品やドラマのように<読む>のではなく、むしろCFのように<見流す>とう態度」"であると指摘している。「ザッピング」という番組をCFのように断片化・平面化して観る受容スタイルにたとえている。

最近の映画を観ていてもこの指摘と同様な状況に触れることがある。そこには気分で描く物語不在の映画として2つの流れが見られる。一つは映像本来の魅力よりもナイーブな内面を断片的に見せようとする作品。もう一つはCF業界からの影響かシチュエーションの奇抜さや、その見え方に固執した作品。どちらも見終わって物足りなさを感じる。物語というストーリー性が存在しないことは別によい。ただ前者はあまりにも独りよがりで後者はあまりにもあざとい。この状況にもそれを受け取る側の変化を見いだせるだろう。

僕らは既に何かを「決定づけられる」ことに飢えている。パッケージングがもてはやされるのは利便性からだけではない。決めるという意志決定自体の代行と、間違わないという安心感。「モノ」や「コト」と自分との間に生まれるつながり。うっかりすると何処にもそれが存在していないのではないか、そんな不安が根底にはあるようにもう。2003.02.18k.m

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  • k.m> 東京の繁華街で見られる広告の文字は、色相、彩度、明度、興奮色、鎮静色、等を対比することによってメッセージをポップアップさせるが、金村は、これらをすべて押しつぶし、広告が備給する、欲望の逼迫性とそこに附随する焦燥感や安堵感を、ともに打ち消す。 ●:http://www.juryoku.org/yumoto.htmlSIZE(10){2003-09-11 (木) 01:45:27}
  • DJ・TOOKIO>この本はまだ読んでいないけど面白そうですね。近々読む事として、渋谷がサバービア化しつつあるというのは重要な視点であり概念だと思う。遂にサバービアを内蔵させてしまう都市東京。中央線沿線なんてもはやそのような概念でしか捕えられない気もするし。。ただここで一言いいたいのが広告の極度のエレクトロニクス化がいわゆるスーパーフラットな状況を生成しているって事だがこれはまた本書を読んだあと論じてみたいテーマであります。SIZE(10){2003-09-11 (木) 16:11:47}
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