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倫理21


  • 平凡社著者
  • 柄谷行人


一緒くたにされた思考が、コミュニケーションを成立させないことを見かける。ある論点を明確に議論するときに、括弧にいれなくてはならない判断をまず明確に選択すること。それをないがしろにした議論は、単なるヤジの飛ばし合いや一方的なぶつかり合いで終わってしまう。この著作で教えられるのは「明確な議論の立脚点」ではないだろうか。

マルクスが「資本論」において行った議論は、道徳的なレベルを括弧に入れることにより導かれた。 資本家自身の善い・悪いといった判断を括弧へ入れることにより、たとえ資本家が道徳的に善くふるまおうと、資本の担い手である限りにおいて彼らが強制されてしまうような関係構造の把握を可能とした。美的判断もまた、関心を括弧にいれることにより成立する。

その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れて見ると言うこと、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです。

これはカントが提起したポイントの一つだと柄谷氏は言っている。しかし同時に、この著作ではいったん括弧にいれた認識をまた外すことの必要性も教えている。あるいは括弧入れに慣れてしまうと、そのこと自体を忘れてしまうことの危険性を教えている。

あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまいがちです。

上記のような「態度変更」がうまく機能していないことによって、現在の既成メディアが「考え方や概念や言葉が曖昧なまま」論議されている状況を呼び起こしているのだろう。僕らの職業である建築をつくることについて考えてみる。図書館へ行くことにより、そこで読書をする。美術館に行くことにより、そこで芸術鑑賞を行う。それらは、まさにさきほどの「態度変更」を援助していることではないだろうか?あるいは、強制しているのかもしれない。

芸術品を芸術たらしめていることが、関心を括弧にいれることにより成立するのであるのならば、そのことを人々へ強いているのは、美術館という空間ではないか。建築家たちは、その空間を規定することにより、人々へなにかしらの「態度変更」を強いている。もちろん、強いることによって、明確な美的判断が成立するのだから、そのことを責める必要はない。しかし柄谷氏が指摘している「いったん括弧にいれた認識をまた外すことの必要性」について考えられているのだろうか?。

ともすれば我々建築をつくる側が、空間という容器によって人々に「態度変更」を行った事実へ無意識になってはいないだろうか。無意識な態度は読書や芸術鑑賞といった、人々の行為を「あたかもそれ自体が存在しているかのように」扱ってはいないだろうか。

人間の行為は、本来規定できるものではない。この著作でもそのことが、サルトルの引用によって説明されている。サルトルは、「石が石であるような在り方」を即自存在と呼んでいる。それに対して、人間は対自存在、つまり、在るところのものではなく、在らぬところのものであるかのような存在の仕方をする。それはたえず不安な在り方であり、自分を決定的に根拠づけることができないような在り方である、と。

人間が本質的なところで自由であるかぎり、規定されることから逃れようとして行くのは自然なことだ。人間のアクティビティーを、ときに「態度変更」させまたもとに戻す。そんな規定に意識的である限りにおいて、建築家が魅力或存在になれるのだと思う。00.04.09/k.m

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