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写真新世紀-1

  • 日時 :2008年11月8日(土)~11月30日(日)10:00~18:00
  • 会場 :東京都写真美術館 地下1F 展示室

  • 審査員 :荒木経惟(写真家)、飯沢耕太郎(写真評論家)、南條史生(森美術館館長)、榎本了壱(アートディレクター)、大森克己(写真家)、野口里佳(写真作家)

  • 関連イベント・出展者トークショー
  • 2008年度(第31回公募)優秀賞受賞者 菅井健也、秦雅則、元木みゆき
  • 2007年度(第30回公募)準グランプリ受賞者 詫間のり子、中島大輔


今年も写真新世紀の季節が来た。・・て、言える程見ているかな。たぶん3、4回目か。今回は初めて「出展者トークショー」なるものにも参加した。何時も思うのは、まわりでも写真を撮るのが好きな人は多いけれど、「写真展が好きだ」という人はあまり聞かない。「写真論は面白い」なんてなおさらだ。実際に撮っている人達も、写真作品に関して言葉を操ることはきっとしないだろう。

予想通りに出展者達は皆、自身の作品コンセプトなるものを書きつづったメモを用意していたけれど、ほとんどが棒読みとなってしまい、途中であきらめて自分の言葉で語り直す人もいた。そんなもどかしさがかえって、作り手の個性として面白く見えた。以下は印象に残った作家のメモ。

■元木 みゆき「zoe ゾーエー」
(選:飯沢 耕太郎)

トップバッターでこちらに伝わる緊張もはげしい。食肉処理場での撮影。血だらけの刻まれた牛、剥いだ皮を毛布のように畳んで積み上げた状態などの写真。7枚の内、2枚は審査の段階で「残酷すぎる」という指摘により展示中止となった。会場では額に納められた白紙の写真も含めて7枚共展示してあった。中止の2枚について、元木さんは「議論されたことが大事、結果へは特に異論もない」。その点について会場からも質疑があったけれど、白紙をみて何かを感じとってくれればよいのでは、と返答していた。

タイトルについてゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビオス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、などの解説をしちゃったので、さっそくそれはフーコーかアガンベンかハンナ・アレントの引用か・・。そんな質問もあり、会場の空気が張り詰めた。例えばアメリカの芸術教育など、言葉によるコンセプトが評価を左右することも多いようだ。けれどそのように言葉で語ろうとした途端、作品そのものを限定させ、表現を矮小化させる原因ともなってしまうのではないか。元木さんは「質問の意味が分かりません」的な対応となってしまった。

写真を見て、すぐに食肉処理場に勤めていた佐川光晴の小説、『虹を追いかける男』を思い出した。希望者の少ない公務員職で、給料はそこそこ良いけれど、怪我が絶えず、血で滑るナイフは一瞬も気の抜けない作業を強いる・・そんなことがたくさん書いてあった。スライドショーでは、中止された衝撃的な写真も全て流された。トーク中も背後で繰り返しそれは登場し、何度見せられても衝撃で、次第に見続けるのが辛くなっていった。

とは言えこの日一番ポートフォリオへ食いついたのはこの作品であって、食肉処理場へ向かうことの稀有な動機(それは彼女自身、酪農家庭に育ったことのようだけど)、それも小柄な女性が、血が飛び散って撮影が困難だったと明るく言い切ってしまうことも含めて興味深かった。人間は毎日大量の食肉を消費している。けれどいまだに肉屋を営んでいるだけで部落出身と決め付ける極端な社会も残っている。それほど死に対して穢れや恐れを拭えない。まるでその大きな矛盾の中心に、長靴を履き笑顔でピースをする食肉処理場のオジサン達がいるようだ。2008-12-02/k.m

写真新世紀-2

  • 菅井 健也「テレパシー」
  • (選:大森 克己)


街でたくさん撮ったスナップ写真。けれどじっくり見たくなる面白い構図ばかりだ。なるべく恣意的にならないよう配慮した、選ぶときは決まった流れを生じさせないようにした、展示ではインパクトを出したかった、タイトルはひねりすぎた、そんな感じの説明。彼はあたかも「自然さ」を装っていたけれど、すでに上の説明でも再三に渡り「個性」を発揮していることになる。

シャッターを押すタイミング、何百枚もの中から選びとる判断、どう見えるかを意識した展示。これらの過程において、一見どこにでもあるスナップ写真へ、決定的に作家の個性を植え付けてもいる。これは「土田ヒロミのニッポン」展において、本人の解説からも言われていたことだ。こうして見るとスナップほど実力というか感性に差が出る写真もないのでは。

例えば上の写真のようにフォークダンスを踊っている女性たちのシーンにしても、手を広げた姿はUFOでも呼んでいるかのようだ。このシチュエーションは作者もお気に入りのようで、何度も彼女たちが登場する。そのあたりへ恣意性を感じた(もちろん、悪い意味ではない)。一方、この路線で行き過ぎると都築響一やみうらじゅんのようになり、それでは「あざとく」感じたりする。好みだけれど。

写真はギリギリまでドキュメントであり、目の前にあった姿を写しているだけだという了解に基づいている。だからこそ決定的瞬間なのであり、滑稽なのだろう。しかしマイケル・ムーアの映画がそうであるように、編集者として確信的であるほど、新鮮さは希薄となる。「スナップ写真が面白い」というのは難しいバランスの上に成り立っていて、その判定もまた受け手それぞれという、正に奇跡的な組み合わせかもしれないと思えること自体が楽しい。2008-12-04/k.m