都市のディオラマ




  • 「都市のディオラマ」
  • 日豪6組のアーティストたちによる展覧会。
  • 会期 :2008年9月13日(土)~10月13日(月・祝)
  • 場所: トーキョーワンダーサイト渋谷


パラモデル(林泰彦と中野裕介によるユニット) の「パラモデリック・グラフィティ」は圧巻。プラスチックレールを部屋中に張り巡らしていて、それは一つ一つが美しい模様になっていたり、血管というかまさに都市のインフラをイメージさせたり、寄生虫のように体内をはう侵食する動きだったり!。後で気がついたのだけど他の展示室だとか、廊下にもはみ出していて、建物全体へ侵食していく不気味な迫力に満ちていた。

レリーフや幾何学としてその妙に圧倒されていたけれど、よく見ればレール脇には、山があり、駅があり、山羊もいて、ギャラリー空間のそこかしこに、線路にそった小さなジオラマ世界が出現していた。

それはまるで「グーグルアース」を経験した僕らが日常を俯瞰する神の視点をもってしまったと錯覚している様子を示しているようでもあり、なぜか存在するグランドピアノの上に積み重なった組み立てられていないプラスチックレールの山には、そんな幻想から脱落した現実の断片を見るようでショッキングだった。


先日買ったカバンにあまりポケットがなかったことへ気づいて、後日「中仕切り」をハンズで購入してみた。モノが収まっていく「さま」をみることはとても楽しく、ポケットの大きさに合わせて所在を決めていくプロセスを楽しんだ。プラスチックレールにはジョイント部があって、そこを直角につなげることも可能なことから、「パラモデリック・グラフィティ」は空間を手に入れることが出来たのだった。

僕らの日常もそんな小さな収まりを重ねていくことで成り立っていて、それは出来上がった全体を省みることでは得られない感覚だ。小説がそれを読んでいる時間のなかにしか存在しないように、ディオラマが全体を装っているのは芸術性による「仕掛け」であって、そこから逆に見えてくる日常に再度出会う感覚こそがアートの提示するスキャンダルなんだと思った。

僕の方法はと言えば、簡単に言うならば、ふだん無意識にやっていることに意識の光を当て、無意識ならではのよさと思われるものを見つけて、それを殺すことなしに意識化するための方法、陸に引き上げれば死んでしまう水の中の魚を生け捕りにするような方法ということになります。(岡田利規:チェルフィッチュ)2008-09-25



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最終更新:2009年01月15日 01:16