さよなら渓谷






「レイプ事件の加害者と被害者が、十五年の歳月を経て、夫婦のように一緒に暮らしている日常を描いた小説」ということになります。絶対にあり得ないと思える状況ですが、自分としては究極の恋愛を書いたつもりです。(よしだ・しゅういち 作家)

この小説で展開する男女のドラマは、いかにも吉田修一的だと思う。というのも、この二人は、それぞれ被害者と加害者として、対照的な人生を送ることはなく、どこか運命をともにしている感があるということ。

女性は、被害者という同情すべき対象(もっともこの扱いも充分耐え難いけど)というよりも、穢れた存在、不幸を振りまく対象として忌諱され、男性は、周囲(社会)から事件のことを許され、とがめられることなく過ごしていくことに、恐怖を覚える。

この一見対照的な「扱い」を見ていると、ジェンダーとセクシャリティーの問題を思い出す。社会的・文化的に作られた性差として位置づけられてきたジェンダー。それは、「女性的な人」「男性的な人」という「〜らしさ」から生まれる偏見や先入観を暴いてきた。けれど近年では、生物学的な性(セックス)ですら、文化的なジェンダーの規範によって重層的に規定されたものであるという見方のようだ。

この小説では、「社会的・文化的=世間」によって生まれる偏見や先入観によって、一見対照的な男女も、同じ規範から外れた対象として抜け出せないジレンマを生きることを強いられていることが分る。それはジェンダーという部分だけでなく、生物学的な性に対してすら、逃げ道はないのだと。フィクションというシチュエーションによって、リアルが浮かび上がってくる。

バトラーはジェンダーを文化的に規定された構築物だととらえ、生物学的な性(セックス)とは区別されるものと考える。さらに生物学的な性の概念も、文化的なジェンダーの規範によって重層的に規定されたものであり、文化的なジェンダーによって汚染されていない純粋な性というものはありえないと主張する。すなわち、生物学的な定義だとみなされている性の区別は、文化的なジェンダーのパフォーマンスによって構築されるものだとバトラーは述べる。それゆえ、性的な規範は文化のレヴェルでなされる撹乱行為(サブヴァージョン)によって変化することが可能なものだとされる。(ジュディス・バトラー:Wikipedia)

ジュディス・バトラーは同性愛者です。そして吉田修一も・・・。 2008-08-05/k.m
最終更新:2009年03月12日 00:25