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建築的反省

  • 新建築6月号/丸山洋志氏


青木さん、伊東さん、妹島さんなどの、メディアへ多く取り上げられる建築家。彼らへ共通にみられる言葉。「自由な感覚」「柔らかな境界」などにうんざりだ、というちょっとショッキングな意見。もちろん、それらの分かり易さには、なにか見落としている視点、あるいは履き違えた感覚がつきまとうものなのかもしれない。

「分かる」ということ、理解とはものごとの分割と整理からはじまる。しかしこれは裏返せば、思考がときに誤った分割から出発し、したがって初めから終わりまで、徹頭徹尾誤ったまま理解だけが進むことがある。


つかむこと、記憶の操作/東浩紀氏の文章を思い浮かべる。最近のフラットで無機質な、それでいて肌に合う感覚をまとったそれらの建築。

時代にあっているのは否定できずとも、あたかも近代批判が、それによって成立することは、あり得ないということか。何かを乗り越えたかの、新しい感覚の覚醒を促す建築とは言えないということなのか。2000.06.06/k.m

追記メモ


思想史的文脈からの眺めが「リアル」であり、現実とは「フィクション」であるとした場合、生活者である我々のような一般的感覚がとらえたリアリティーとは。そして、あやまった文脈からつくられた次なる「フィクション」が、明日のリアリティーとして既に我々へ準備された状況とは。さらに、それらで構築されたマスメディア、社会、世間などメタ的な方向を「時代性」というパッケージでプレゼされ商品となっていく現状とは。

建築家はモノ造りに関して、既成の概念や認識を疑っていくことから主体性を獲得していく。よって立つ位置が個人の存在論的リアルならば、足元を疑うことはやはり難しい。結局その活動は、どの時期でより「リアル」なパッケージを組むかのことで、既成をつくってきた文脈(歴史)自体を疑うことは、所詮不可能ではないか。表現したパッケージが、同時代としてリアルであり、その追求から存在論的リアルが構成され、いま求められているのは、そういった意味での、より身近なリアルなんだと思う。

どうやら、「リアル」と「フィクション」というように、2つへ分けきれないのが現状なのだということは感じる。分類を支える概念が更新されていないせいだ。全てがフィクションならば、その中での価値判断、引きつけられる「度合い」を示すものが、そのまま従来のリアルに取って代わるということなのではないだろうか。00.06.08/k.m

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