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建築はまちの中に生きる





建築プロデゥーサー・浜野安宏氏の著作にあった項目。

建築を仕事としていて思うもどかしさは、社会性としてのそれについて考えるとき、言葉の問題になっていき、どうしてもその枠の中で考えていく癖が出来上がってしまうことです。反面、実際のモノを作っていくときには、言葉でイメージされない具体的な状況を読みとっていく作業にしばられて、言葉として説得させる変換が、うまくいきません。(断念的な姿勢が多々・・)

プロポーザルなどの理念を問う検討作業において、実体としての空間に魅力が在るかどうかなど、あまり関係ないんじゃないかと思うときがあります。さらに自分が、ある空間を体験するときに、プログラム的なことまで含めて感じることがそんなにないのではないかとも思います。

ふたつを考えると、空間については、すごく個人的な内省的思考によって出来たモノへ心を引かれ、それはきっと共感できる表現と、洗練された空気と、、、それらが自分の中に言語としては存在していても、表現としてはまだ現前されていなかった感覚の発見だからなのかも知れないと思います。(あるいは言語化されない感覚の発見。)

人文的な文脈で建築を思考しても、感性の場への変換には、身体でしか通じない力があって、どちらかに強く気持ちが働くと、片方がうまく作動せず、全体に影響を与えていきます。

建築は脇役であると考える浜野氏でも、没個性を期待するわけではない。個人の表現の産物である建築が、出来上がった途端に社会のただ中へ放り出される、そういった背理を抱えながら創っていくことを言っている。

「ひとの心を掴むものは、ときに計算を排したハートの物語なのではないか」という文句をある雑誌で見かけた。
最近では、物わかりのよい造り手はむしろ多いのではないか。浜野氏が押さえ込むような「暴れ馬的建築家」よりも、ひとの心を掴むほどのハートをもった作品を出すような存在が稀薄になっているような気がする。00.06.03/k.m

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カテゴリー-建築