建築における「日本的なもの」



  • 磯崎新
  • \2,300
  • 2003.4
  • 新潮社

間面記法。行為的というキーワード。

  • 第一章。西欧との建築記述比較。西欧は列柱の配置を最重視し、今日の「構成」に及んでいる。それに対しでてくる日本の「間面記法」は母屋のスパンの数、母屋に付属する庇の数から建物の使い方、大きさなどをつかむ記述法。(「三間二面」なら切妻屋根、「三間四面」なら寄棟屋根または入母屋の建物であることがわかる。 )
  • 著者は前者を「物体的・構築的なもの」、後者を「行為的・空間的なもの」としている。秩序を構築するのが前者だとすれば、あるもの、その行為から空間の全体をつかむのが後者なのだろうか。
  • 間や面の数で規模を設定し、細部の意匠は大工棟梁の判断にまかせるという手法は、単に建築家の不在という比較ではなく、秩序を構築して空間をつくる思考法と、全体性をつかんでから細部を形式的手法で構築していくそれの比較になる。
  • 同時にこれは、住宅メーカーの繁栄のように、類型的、タイプ分けによって、全体のイメージを「売る」、「買う」という今日の日本的状況へもつながっているように思う。
  • 恐らく新しい空間構成がまずあってという流れではなく、新たな生活行為、スタイルが社会的な共通認識を生み、それに名前が与えられてから、空間へと向かうのが日本的なのではないだろうか。社会を再構成させるのではなく、(誰もが見えているだろう)社会像をトレースし、(こうあるべき)理想をカタチにして、そこへさらに生活を合わせていく。
  • 建築を思考するそのアプローチの差に「日本的なもの」を認めることが出来るとして、記述の差が埋められていった今日の設計において、思考法の差はどのようなカタチをのこしているのだろう。そこに表れている「日本的なもの」は、再発見される手法として繰り返し「探求」または「自覚」させられているのではないか。「行為的」という言葉は、自分なりにそれらの違いを記述してみる時のキーワードとなりそうだ。

今日の芸術


これはとても叱咤激励される内容だ。前衛芸術というものが持っていた既成概念に対する破壊的な眼差しがじわじわと伝わってくる。そしてあくまでも自由という概念に対してごまかさない姿勢、それは様々に勇気を必要とすることが分かる。「異国調」という外国人がよろこぶ「日本美」の実態は、なんら日本人にはよりどころとならない古めかしさであること。しかし現在もさほどその指摘から逃れられない状況であることはこの磯崎さんの著作でもあきらかであって、「日本的なもの」を相対的に浮かび上がらせようが、分類自体が上記のような所へ引き寄せられてしまうのだ。ただそういうのも含めて、なにか「ずらし」たりすることが今の前衛なのだろうか・。2003-07-31/k.m

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最終更新:2008年05月20日 01:46