桂子ですけど


  • 製作:園子温
  • 監督:園子温
  • 助監督:吉田國文 小坂井徹
  • 脚本:園子温
  • 撮影:ウォン・オン・リン
  • 美術:園子温 西川裕 鈴木桂子
  • 整音:鈴木大介
  • 照明:長島徳秋
  • 編集:園子温 吉田俊次
  • 出演:鈴木桂子 内田栄一


自殺サークルを見て園子温監督が気になったので、先日出たばかりのレンタル「新作」で借りる。ミニマリズムと評されたこの作品は、確かにストイックなほどそぎ落とされた演出で、絵画的なショットが繰り返されている。原色の鮮やかな構成と、文字だけが挿入される、ゴダールの雰囲気も感じさせる。

真っ赤に染められた和室。そして畳の縁、建具枠のみが黒く塗られている。桂子という女の子の赤い口紅と長い黒髪が部屋と同じ配色なのは、人物ですら画面構成の中へ、ベースとして馴染ませるねらいなのだろうか。家具が全て黄色く塗られているのと対照的だ。

「時間」に対する執着的なまでの独白を繰り返す彼女。どうやら誕生日を3週間後に控えた状況らしい。刻まれていく時間を確実に生きようと企てているようだ。一分一秒を声に出して数え、部屋に引きこもり「私」について考え、一日の出来事をニュースとして報告する(誰に?)。そして園子温は上映時間「1時間1分1秒」の中で彼女の行動を再構成する。

確実に生きるとはどんな行為なのだろう。「時間」を気づかない内に過ぎ去っていくものとして放っておくのが「確実」ではないとするならば、執着してしまうことがそれを胎内化していることになるのだろうか。一瞬一瞬に刻まれていく中へ、ある輝きを焼き付けていく行為。言葉の意味にとらわれ、やがてその閉塞感に打ちのめされてしまう、堂々巡りにすら見えてしまわないだろうか・・。

時間なんて意識の中から消え去ってしまう方が良い。身体が、過ぎていくものという、失われる存在として認識させる媒体に「時間」があるとすれば、なおさらではないか。腐敗していくもの、過去のもの、なくなっていくもの。では父親の遺骨にはどんな意味があるのだろう。彼女は同時に遺品という「記憶」をたくさん持ち込んでもいた。でも遺骨には記憶以上に、ものとしての存在感がある。いやむしろそれは生きた身体でも死んだモノとしてでもなく、燃やされ、白くなった「なにか」だ。父を直接イメージさせるなにものをも持たない物体だ。ただそれは、明らかに父を構成していた「一部」でもある。遺品という記憶が時間をイメージされるものだとしたら、着実な「いま」を感じさせる物体として遺骨が必要だったのだろうか。2002.04.14k.m

カテゴリー-映画

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最終更新:2009年01月17日 15:08