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偶然性の精神病理




建築を経験することとは?

建築をつくる行為をしていながら、毎月発行される「雑誌の写真のみ」でそれらを「解決」する事へ慣れてしまっている。概観的に捉える態度は、「先天的な意味」を求めてしまう危険性を孕んでいる。だが建築が現前させるイメージには、もっと本質的な力がある。それはより身体的な関係であり、言語化されにくい領域だ。感じ受けるのが「経験」であり、いかに記述していくかが思考する楽しさではなか。もっとダイレクトに感じさせる空間をつくるために、建築経験という分析行為がある。現象学には、「建築する行為への反省的な態度」を学ぶヒントがあるのではないか。

建築とは「社会」や「人間」の関係を、より実体的な事実として解釈し、また解決していく行為であると思う。著者が現象学を通して人間というものを、より実体として記述していこうとする態度は、どこか通じているような気がする。例えばこの本には、間主観性という「主観」と「主観」の「あいだ」にあって、「客観」を基にしても、「主観」を基にしても、その本質を捉え損なってしまうような「現象」を名付け、その考え方をもとに「時間」をとらえる考察がある。

それによって、時間の真理性を「つくられた解釈」だとしている。僕らが自己を感ずるとき、他者との関係の中でしか実感できないように、時間というものも本来間主観的な存在だというのだ。つまり均質化された座標空間という、客観的なものとしての時間と内的時間意識という主観的な時間との履き違いが様々な「実感のずれ」を起こすのだと言う。

上記のようないわゆる「カッコ入れの思考」によって得られる視野は大きい。それにより記述できる領域が伸びていくようだ。建築を経験するという「言語化できない領域」にも、このカッコ入れの思考は多くの現象を記述させてくれるのだろう。ただ思考過程によって記述されうる「感覚的経験」が、普遍的な方法論となり得るのかは疑問だ。記述(=言語化)という時点での限界を超えられないように思う。

やがて身体的行為の記述をも可能となったとき、もはや「感覚」ですら流通可能となるのだろうか。もしそれが出来るのなら空間体験という「日常訓練」も、流通し消費される対象となるのだろうか。それはどこか軽やかな魅力に満ちているようで、奥行きのないフラットさが、生きていることすら感じ得ないような退屈さを生む予感を誘う。 2001.09.13k.m


カテゴリー-思想建築