空中庭園




父と母、祖母、姉と弟という構成の家族と、父親の愛人で弟の家庭教師でもある女性の関係を軸に描かれた家族小説。これまで描かれてきた擬似家族的な作品とはちょっと違う。本当の家族のお話。けれど「本当の家族」なんて擬似家族より関係としてはシブイのだ。そんなニヒリズムがただよう。

連作長編で、章ごとに語り手の変わる構成。最近だと吉田修一の「パレード」とかに近い。この構成の面白いところは、「どう見られているか」と「どう見ているか」という人の視点と自意識の表れをとても如実に感じられることだ。そして両者を一人の作家が演じられるように、他者とは自分のなかに存在するのだという紛れもない事実を見ることだ。

もちろんここにはエンターテイメント性が意識されていて、意外性のある視点とか、何を考えているのか表面からじゃ分からない腹黒さを過剰に演出している所も多い。それでも案外うなずける。きっと家族のパロディー感というものには普遍性があるのだろう。幻想という言葉は国家になくても家族にならまだ使えそうだ。

建築家は「nLDK批判」とか「個室群住居論」とか「住居論」などでそんな一家団欒、夫婦の愛情、正しい子供というものが画一化された幻想であることを唱え、実際の家族形態の多様さに向き合わない現実を批判した。しかしそれらの批判が、単なる批判としていまだ普遍性を獲得出来ない要因とはなんだろうか。

この小説では家族という幻想がむしろ意識的に必要なものとして描かれている。母はちょっと特殊(むしろ幻想を渇望しているの)だが、娘、息子、旦那、祖母などは幻想を演じながら、それによって「形作られたもの」へ乗っかることを了解しているのだ。変わらないことへ窮屈さを表明する建築家と、変わらないことを知っていてあえて維持し続ける共同体もいるのだ。

結局、家族と言えども人付き合いとは変わらない。そのように相対化させられている事こそが、一番の時代的変化なのではないだろうか。娘も息子も、まるでクラスメイトを批評するように家族を眺める。そして共同生活をすることのルールを学ぶ場であるよりも、個人が直接社会と向き合うことを強いられている現実から逃避できるような場所になっているのではないか。

一家団欒という言葉は何も規範を示しているのではなく、現実逃避を可能とする救いの場なのかもしれない。そう思うと、擬似家族も本当のそれもあまり違いはない。むしろ集まって住むという物理的な距離感だけが重要になって来る。血縁とか地域とか共同体とか、あらかじめ定義された概念ではなく、単なる人との距離感によって関係づけられるもの。それが家族なのだろうか。2004-03-19/k.m

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カテゴリー-小説建築
最終更新:2009年03月12日 00:26