色んな動きがあって台詞がパンク的で、これは映画化したら面白そうだとおもったらジャン=ピエール・メルヴィル監督作品が既にあるんだ。
退廃的で破壊的、そして混沌としたもの、そんな小説を読むとどこか懐かしさや切なさを覚えるのだけど、それって少年の頃を思い出しているのだろうか。
14歳の主人公だから懐かしさに通じたのだろうか。確かに幼さが起こす無軌道な行動と、その無軌道さがパターン化して、繰り返しの中へ喜びを感じるということがあったように思う。
けれど自分の14歳がこんな風(無軌道さが危険を通り越して狂気にすら達している感じ)だったとは思えない。そういえば岩井俊二の 『リリイ・シュシュのすべて』に感じた「痛さ」も、同様な共感と懐かしさに伴うものっだったような。なぜ残酷さにはどこか「ふるさと」を思うような郷愁があるのだろう。
エリザベートのほうも、ポールがむかしのように無軌道や危険を喜んで受け入れ、宝物の意味を忘れていないことを知って満足していた。
これは壮絶なクライマックス手前の箇所なんだけど、(世間的には)大人になりかけた姉弟が、「無軌道で危険」な時を思い出し、2人だけにしか意味の存在しない「宝物」を再び見出した喜びを描いていて、とても共感を抱かせる。
「無軌道さ」や「宝物」とは、子供部屋での濃密な姉弟の時間そのものを指していて、世界がそこにしか存在しないことへの客観的な閉塞感と、内側から感じる広がりの大きさとのギャップが、14歳を思い出す今の自分に起きる懐かしさなのかもしれない。
それは誰もが「守りたい」甘美な懐かしさで、描かれた美しさや優雅さが、小説の中ですべて破壊の中へ収斂していったからこそ、読む側は神話化し美化していくことができるのではないか。2007-03-18/k.m
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