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季節の記憶



小説には物語があってまたあることを前提として受け入れ、そのスケール感や非日常性などへ惹かれていく場合と、物語はあくまでもきっかけであってその中に見え隠れする作者の思想・価値観などが合わさった人間性のようなものへ惹かれていく場合とがある。

もちろんどちらにも当てはまらないものもあるのだし、両者が絡み合った中に小説の持つ楽しみが含まれているのだとも思う。保坂さんの小説への印象は相変わらず後者である。と言うかむしろ通常の物語を構成している人間や世界の描写が、それ自体の連鎖で成り立っている感じだ。

それはとてもやわらかな印象を与えてもいるがまさに作者の文体のなせる技であって、むしろ描写と分析のみが連鎖をなしているその構成は、常に作者の考えを垣間見ながら先へ進んでいくとても体力を伴う読み物であるはずだ。

哲学のような考え方の連続を構成したものに近いのだから。ただ先ほど書いたように著者の文体によって、それはとても平明な表現へと還元され、あたかも日常をなぞっただけの平凡さを思わせるような小説となっている。

以前読んだ著者の哲学的考察の本「世界を肯定する哲学」の印象もまさに小説と同じだった。けっしてフィクションなストーリーが在る訳でもなく、それでいて今回の小説のような流れと等質の平明さがある。

日常という括り自体が人間の世界、言語が作る抽象化された認識であることを小説全体を通して著者は語っているようだ。細やかな人間分析は対象化された「メカニズム」という非人間的な様相を与えもする。

その思考が通常ではそれぞれの内面で繰り広げられるものであろうが、ここではすべて読む側へ等価に伝わってくる。等価というのは横並びと言うのとは違って、むしろ個性的であることがある同価な密度で表現されているといった感じだ。

その緻密さが、哲学的な印象を与えるのかも知れない。ふだんの生活を思わす著者の「物語」はそれがフィクションであることを忘れてしまう効果がある。是枝監督の「演出されたドキュメンタリー」にも通じるものではないだろうか。それは狙っているということだ。

ありきたりな日常を装うことによって登場人物の語り様はとても身近に感じられる。一方その中で常に抽象度の高い会話が繰り広げられることは、何ともいえない興味をそそられるではないか。

僕は保坂氏の作品に通して感じられるその「狙い」にとってもはめられている気がした。そしてたとえその「狙い」が僕にとってお約束であろうと全く作品が色あせないのは、その狙いがきっかけであって著者の描きたいことのレールが引かれているに過ぎないからだろう。

尽きるところ保坂氏の小説を読んで感じることとは理屈の楽しさではないだろうか。いまここに存在している自分と、目の前に存在する人達。そこで発生した会話から始まる流れ。ありきたりな理屈なのかも知れないが、その次元たるは計り知れないこと。

宇宙の神秘から言語の生成から。抽象的な話はどれも他愛のない身の回りの出来事から発生したものであること。目の前の自然から呼び起こされる季節の記憶のこと。記憶と今の感情とのずれのこと。

終わらない会話とその思考は、その場へ参加しているような不思議な感触を読む者へ与えてくれる。長編であることとそのやわらかな文体から、いつ本を開いても会話に参加出来ている自分を楽しめる。

やがて終わりが近づいても、なにか終了の手続きがとられている訳でもない。そのせいかいまだに彼らの会話の中へ居るような感覚が続いている。2001.07.21k.m

神山修一の「鉄筆一人相撲」文藝/2004/夏号より

保坂和志は「季節の記憶」の中で登場人物に「紛争状態にあって人は平和な日常を求め、平和な日常にあって波乱をねだる・・」と言わせているが、それは平和な日常の尊さは紛争状態に置かれて初めて分かるということではなく、平和な日常を享受するためには何かに鍛えられ、高められた意識、益体もない妄想を克服した意識が必要だということだ。

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カテゴリー-小説


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