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回路


  • 監督:黒沢清 
  • 出演:加藤晴彦/麻生久美子/小雪/有坂来瞳/松尾政寿/哀川 翔/風吹ジュン/武田真治/役所広司

オールナイトで黒沢清監督の「回路」見てきました。 久しぶりに歌舞伎町で。 深夜の歌舞伎町なんてあまり入り込んだことないですけどあの賑やかさったらスゴイですね。なんか事件でもあったかのような人混み。 帰りは焼き肉屋で食事をして来たのですけど、歌舞伎町の「牛角」はイマイチ。店員がまったりしすぎ!。もっとしっかり働かんかいって感じです。


新宿東亜興行チェーン。始めてきた歌舞伎町にあるミニシアター。 エレベーターを降りると、マンションの内部廊下のような狭い通路。 ロビーにはサッポロポテトがポップコーンのように「小分け売り」の自販機で売られていたこと。 上映前の数分間に、ハーゲンダッツのお姉さんが、いきなりアイスを売りに来たこと。 またそれが結構売れていたこと。 上映中に、オヤジのイビキが響きわたったこと。 それに怒って、蹴飛ばしに来る観客がいたこと。 ちょっと新鮮な映画館でした。


インターネットは世界と無限に繋がっている。もしかしたらそれは「死」へをも繋がっているのかも知れない。恋愛・コミュニケーション中毒症。携帯端末などを通してのそれらへ、時代の共同体意識への変化を見ること。様々なツールによって、あたかもお互いを繋ぎ止めているかのような感覚に満たされること。すでにそれらへ、虚構間を感じ始めている時期ではないだろうか。

自分を取り巻く環境や世界が、自らの物語として存在している日常生活。いわば自分を中心に世界は動いている、そんな認識に近い感情を、僕らは持っている。同時にそれらは、自分と「関係なく」世界は存在していけること、自分を取り巻く環境も、自分の身の回りのモノですら、自分と関係なく存在していけることを実は知っているのだけれど、「意識の奥へ隠している」ことをも表している。

そんな意識の奥に隠しているモノが「死」の空間ではないか。それは全く遠くの存在ではなく、この日常と表裏の関係で存在するような認識ではないか。

僕らは意識の奥へそれらを隠すことで、日常を支えてきた。ある日突然、ささいなキッカケを通して、それらが目の前に露呈したときに、今までのように存在して行けるのだろうか。


今回の作品には、ホラーというジャンル設定がされていましたが、あまり恐怖感はありませんでした。むしろ、カリスマでの森にとりつかれた、人間達の不可解な行動や、CUREでの静かに転移されていく得体の知れないモノのほうが、はるかに恐ろしかったです。直喩的な表現には、黒沢流の即物的な人間像の恐怖感を減少させてしまう気もしました。


ちょど雑誌「ユリイカ」て特集していた映画「EUREKA」。黒沢監督と青山監督のインタビューを読みました。2人が同じ立教の先輩後輩だったのには驚き。

それにしても、造り手同士の会話には、とても引き込まれる魅力がある。最近の建築家同士のそれを読むのと、同様なことが語られていたようにも思う。もちろん、これらの造り手を動かすモノには、同時代的な共通項があるはずだ。

京都駅をつくった原さんあたりから受け継がれていく、山本さん、隈さん、小島さん、そして塚本さんなどの建築家。現実の社会を支え、動かしているのもが、実は無意識に作動している「フィクション」としてのシステムであるという見方。そこへ「意識的」であることが、これら建築家の活動を支えている理念ではないだろうか。

同時に黒沢、青山両監督の造り込みの根底にある理念にも、同様な社会システムへの「分析」がある。それをシステムと呼ぶか、政治とよぶか、権力とよぶのかは、個人の言葉の差があるのだろうけど。

時としてあらわれる現実の滑稽さへ向ける眼差し。娯楽や芸術の王道がすでに過ぎ去った時代。社会の矛盾が、誰に見ても明らかなように現れているこの時代。しかも、なおそれらを隠蔽していこうと無意識に働く社会システムへの注目。

これら造り手達を駆り出すモノにも、あるシステムが必要だ。それは物語や情熱とも少し違う気がする。もっと乾ききったシステムではないだろうか。冷静な分析と、それらを隠さず社会へ露呈する事への「義務感のようなものを伴って働く」システム。多大な量の決定と関係性の整理。緻密な意志作業には、そのようなシステムの力が必要だ。2001.02.08k.m


カテゴリー-映画