茄子


  • 茄子 (1)、(2)、(3)
  • アフタヌーンKC (272)
  • 黒田硫黄 (著)
  • 524円

ついに読むことができた。まんが喫茶へ行けない(なんか抵抗あって・・)、まんが買う習慣がない(単にしまう場所がない・・)、随分と読んでいない(単に個人的都合)、という三重苦に見舞われ(?)なっかなか読めていなかった話題作。

「アンダルシアの夏」が「茄子」の中に含まれていることすら知らなかった。黒田硫黄の映画批評とかすごく興味あったけど、まんがも読んでいないのに触れることは出来なかった。

と、まあ思いは大きな(?)作品なのだが、実際想像とはまったく違う「おもむき」あるまんがだった。何と言うか、小説を読む感覚にむしろ近いのではないか。もちろん映画的であることは確かで、保坂和志や角田光代が描く、まったりとした共同体像に近い。

ベースになっているオジサン。農業を営む学者くずれのような。この人がかなりいい味を出している。まあ、ちょっとかっこよくて、なんでか若い子にモテて(まるで川上弘美の描くニシノユキヒコのような・・)、いきざまが絵になるような感じの。同様な意味で登場する女性はみなカッコイイし、清々しいのだ。だがそこには周到に排除された性描写によって、ふんだんにエロティシズムが表現されているようにも見えた。

そして合い間へ挿入されるように茄子をテーマにしたエピソードの数々。かなり無理やり感があるが、その「対比」とひとつの「まとまり」として単行本になっていること自体が楽しい。黒田硫黄を相対化出来るほどまんがを読んでいないのでよく分からないが、骨太な構成力は素晴らしいと思った。

ところで絵のタッチだが、一つのストーリーの中でかなりの落差がある。突然「ドスン」と画面いっぱいに劇画タッチなものから、同時多発的・散漫的なセリフの乱れるぼんやりしたものまで幅広い。それは一定のクオリティーから逸脱している。一方を基準にすると、他方はいい加減なようにまで見えてしまう。

これは映画や小説では許容し難い感覚ではないだろうか。しかし「ラフなタッチ」がそのまま読者の気分へ響くというレベルで十分にレトリック的だと思う。キャッチボールやゲームや引っ越しの手伝いという、さりげない日常の空気のような感覚が素直に響いてくる。心地よさとはこのような空気感の表現力に頼るところが大きいのだと思う。2004-03-07/k.m

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最終更新:2008年04月11日 08:13