この本を読んでいると、住宅を考えるときの問題点が、もはや弱者(育児・介護など)を取り入れたときのそれに集約されているのだということに気がつく。それ以外の家族形態については、どのような家にだって生活は可能であり、それについて深く思考することを必要としていないようだ。建築家の作る住宅と言うのは、後者のケースがほとんどで、言い換えれば、どの様な家にだって住める人達のための建築ということになる。
確かにそのような前提があってこそ、純粋に建築としてのたち現れ方、行為という細分化された空間単位に連続性をもってデザインすることの条件が整っているかのようにも見える。社会学的な視点をもって常に批判の対象となる建築とは、そのような前提を元にした表現の技巧を語る作品に多い。
そしてプログラムを語る建築家が多かった一時期に比べ、それはアクティビティーに変わり、さらにマニエリスムともなっているように思う。これは弱者を取り入れた空間を社会的責任のある範疇にとどめ、それらとは乖離した領域で思考を追求しているように見える。もちろんその様な活動はどのような世界にもあって、独自のボキャブラリーを作成する過程には必要な事だと思う。
団塊世代の建築家が世の中を変える契機として、プログラムを語っていた時代から、すっかり内面化された戦後民主主義という規範を前提にデザインをはじめている次の世代。そして団塊を親に持つジュニア世代が今目立つようになってきて、また社会学的な視点がクローズアップされつつあるのだと思う。
僕らはそのような内面化された規範を生き、またすぐ上の世代のように社会に冷めた目を向けることへも飽き、ひとまわりしたような状況に直面している。それは冷戦でもなく、グローバリズムでもない、世界的に不安定な状況ともパラレルだ。
たとえばこの著作で建築家・山本理顕さんが言われているように、「個人というアイデンティティーがあらかじめ確立された上で関係が発生するのではなく、さまざまな関係の交差する中心を個人と呼ぶ」という視点は、活動形態のモデルで言ったら、ネット上のそれは中心すら描ききれないほどの多様化をうんでいないだろうか。
さらに著者・上野千鶴子さんはそれをアイデンティティーのリスク・マネージメントだと言い、ある部分で失敗しても他の部分でアイデンティティーを保つことが出来るようリスクをコントロールしているのだと読んでいる。これなどまさにハンドルネームすら定まらない掲示板での書き込みを見ているようでもある。
このように、社会学的な分析モデルは、いっぽうでネットの世界にとても分かり易い図式を描いてくれる。あそこが、人間関係の完全なモデルに成り得るかは分からないが、少なくても部分であることは確かだろう。
空間はなにかを図式化するところからはじまることが多い。ネット上のモデルはある意味、内面化された規範の根強さを示している。僕らはネットに触れることにより、近代化の流れをあらためて追従しているようでもある。しかしそのような古くささと共に、新しい関係も築いている。ここから得られるモデルを空間へフィードバックした建築も今後出てくるだろう。その時こそ、社会性という命題を新しいカタチで表現した空間の登場ということになるのではないか。2003-05-05/k.m
迷宮旅行社さんでみかけた。
●はてなの日記は、連結がまさに可視化されているので、自分のサイトに書くほど気楽でない。社会的人間になるためのリハビリにもいいかもしれない。
ここで話題の「はてなダイアリー」というものにはまだ触れていないのだけど、
単語の定義を共同で作成していくページがあり、誰でもコメントや書き換えができるのだ。しかも、「はてなダイアリー」で日記を書いているユーザーが、自分の日記に「日本人」という単語を使うと、そこからその「日本人」の定義作成ページへ自動的にリンクされるようにもなっている。
らしい。
ここで作られる定義というのも興味深いが、そのようにして影響を受けあう関係、それが可視化される関係というのは、また新しいモデルを生んでいるのだろうか?。あまりネットの関係モデルを広げて解釈することは危険なのかもしれないが、どうにも興味は尽きません(あえてこのページにメモ)。