まだあまり三島由紀夫を読んでいないのだけど、著者の作品へは「耽美的」なイメージがある。そして僕のそんなイメージを押し進めるのに、この小説はとても機能を果たした。
まず主人公である精神分析医・汐見にかかった患者・麗子の病症を、「音楽」と言う一つの象徴に見立てて巡ったドラマであること。その設定はまさに先日観た映画「青い夢の女」そのもので、安楽椅子にくつろいで自らの性癖歴を語る美女、というものが映像の再現のように目に浮かぶようだった。あの映画では「精神分析医とは滑稽な存在だな」という感想が大きく、コミカルさばかりが目立っていたが。
精神分析ものは基本的に好きだ。それは三島の小説の中で出てくる分析という行為が、とても誠実に学術的でありながら、多くの分析書が難解な症例を通じて語るしぐさを解きほどくように、具体的なドラマによって伝わってくるからだ。それはラカンの面白さをサブカルチャーになぞらえて説きほどく東浩紀の面白さにも通じるかもしれない。もちろん、文学的な装飾が個人的に好みだというのも大きい。
二人が交わす医師と患者としてのやり取りは、恋愛模様に重なる。汐見が彼女のへの治療にたいして「勝利」や「敗北」という言葉を使うのも、それらを良くあらわしているし、幾重にも繰り返される患者・麗子のウソと、そのたびに様々な解釈と闘う精神分析医・汐見の奮闘が、したたかな奴隷を演じているしもべのようでもあることとも繋がる。要するに診療の模様全てが、巧みにイマジネーションを抑制した二人の「エロス」を超えていく「激情」の裏返しを見ているようでいて面白い。
分析という「冷静さ」をもってして、男女の肉体的エロスを語り、転移という「恋愛感情」をもって、職業的な言及を続ける姿。それらはどちらもある意味でとてもコミカルで、阿部和重の小説が持つ「妄想」や「自意識過剰」の独走が醸し出す<それ>のように僕のツボにはまった。
物語の終局は、何かおぞましいモノを覗いていくようでもある。「耽美さ」と「おぞましさ」が繰り返し襲ってくるリズムによって、何とも言えない好奇心で満たされていくようだ。ピーター・グリーナウェイの映画に見る魅力とはこんな感じではなかったか?。ホラー映画を怖がって見ていた子供の頃の好奇心を、エロスへのそれに置き換えた感覚に近いのかも知れない。見えざるタブーの深淵に、どんどん身体がはまっていく快感である。
2002-01-19/k.m
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