演劇入門



劇作家が自らの演劇理論を優しく解説


演劇についての経験も知識もほとんどなく、ただ漠然と映画を見て感じる「演じること」について興味を持っている程度で、平田 オリザがどんな劇団でどんな演出を手がけているのかも知らなかった。ただそれでもこの著作は僕にとって、とても楽しめた。より一般的で普遍的な立場からそれらを語ろうという著者の試みが、幅広い視野を与え、「新書」の位置づけとしても十分な読み応えがある、まとまりを持っているからだろう。


ここで扱われている「リアル」や「コンテクスト」自体が、日頃から興味をそそるテーマであり、時代性という流れにも十分に当てはまる考察である。人と人とが向き合い、その関係性から自らの混沌たる内面を引き出す。こうした他者とのコミュニケーションについては、あらゆる言及が繰り返されている。特に「ツール化」され、「商品化」され様々に相対化させる材料がそろっている現在の「コミュニケーション」には、それ自体を語る場が極端に増えてきていることも興味深い。「対話」のなさから、「繋がり」への貪欲さまで、現代のマスメディアや言論をにぎわすテーマのほとんどに係わっているのだから。


「演劇」という切り口で上記のテーマに係わる。それがこの著作での試みなのだが、実作を論理的に分解していく過程はとても楽しく、「演劇」自体への興味を増幅させられた。それは日頃感じている「演劇」に対する敷居の高さや、テンションの釣り合わなさといった既成概念が「小屋」へ足を運ばせない大きな原因となっていることを、著者自身が自覚していることに、とても共感出来るからだ。作り手自身がそのような問題意識をもっているというラディカルさがこの人の魅力なのだろう。「近代」を批判する「現代」の眼差しには、あらゆる分野を横断していく視野の広さを感じる。それは演劇に限らず、現在活躍している様々にクリエイティブな人達の意識からも感じられることだ。


著者は一貫して問題意識の焦点を、作り手→俳優→観客へと伝わるとき「コンテクストの摺り合わせ」が生じる、そのズレに向かっている。このズレをどう解消して行くかの過程に、この著者の人間性が大きく出ている。もとよりこの3者の完全な同意は無理であろうし、そんなことは誰しも感じられることだろうが、それを強引にねじ伏せてきた演出も多いのだという。確かに3者をみな納得させることは、鋭利なモノを丸くするだけの危険性を感じるし、作り手との対立が新たな創造を生むようにも思う。ただ著者が狙うモノは同意ではなく差異にある。「漠然とした差異」を強引にねじ伏せるのでもなく、丸く納めるのでもなく、その違いの明確な領域を認識するのだ。


こういった問題意識はとても参考になる。建築を作るのだって同じコトだ。一人で建築が出来ないのは自明なことだが、ではどれほどその「コンテクストの摺り合わせ」へ自覚的になっているかと言えば、確かに疑問を感じる。人はある作品なり空間なりに向かうとき、「コンテクストの共有」を感じられることが、その印象を左右する大きな要因ともなる。そのとき、僕が演劇に感じる敷居の高さや、テンションの釣り合わなさといった「既成概念」がコンテクストの共有を妨げて来たように、僕らが作る建築に対する印象にもそのことは言えるではないか。

最近のカフェブームや雑貨ブームのおかげで若手建築家が雑誌に取り上げられるようになった。こうして得られるコンテクストの広がりは大きい。白くてさっぱりとした部屋へ、自らの趣味の装飾で色付けの出来る空間の需要は増えている。そのなかで作り手が狙う「構成の無化」、「文脈の透明化」といった「恣意性の排除」というコンテクストが行いやすい状況も作られているのだ。しかし依然として広がる「既成概念」の壁は存在する。それは作り手自身の存在感でもある。建築を作る様々な問題に対するコンサルティング業務自体に理解を示す人はまだまだ少ないだろう。そこには「大工さん」から「ゼネコン」へ至る日本の建設事情に、「設計者の不在」という社会意識が根強く存在しているからだ。


話しが全くそれたが、上記には僕自身が感じる「演劇」に対する不理解と、僕らが与えているかも知れない「建築」に対する不理解へどこか共通点が見え、それの解決へ著者の問題意識が繋がってもいる、と言う個人的な思い入れがある。「会話」と「対話」の違い一つにしたって、本書から学べることは大きいし、「他者性の不在」という考察には様々な記述の可能性がある。


そんな役に立つ書物です。2002.02.17k.m

カテゴリー-演劇社会


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最終更新:2012年11月25日 00:30