映画覚書vol.1


  • 著者:阿部和重
  • 出版:文藝春秋
  • 発売:2004/05
  • 2,500円

自分が「にわか」映画ファンであることを認識することは楽しい。なぜならば、そうしてまた映画好きを一からやり直せるからだ。どうしてそう思うのか。映画は無限にあっていくらでも見たい。けれどそれはとても体力と時間の要る作業なのだ。だから映画を見続けるにはテンションを高め続けなくてはいけない。特に古い映画を見るときにはなおさらそう思う。

監督や役者を時系列的に追ってみる。ある作品群をまとめてみる。どれも根気のいる作業だ。けれどそうしたいと望む限り行動は伴う。そんな気持ちと身体のカイリした状況をうまく繋いでくれるのが「映画本」ではないか。

阿部和重は小説と同じように映画を語る。これは以外だった。以前彼のエッセイ集なるものを読んで、そのグダグダ感に驚き、あまりのつまらなさに少しあきれた。けれど小説家は本業で面白ければよいのだ。なので彼の近況写真とか幼い頃の思い出とか、そんな人間性なんてどうでもよいのだ。

そう思って以来、小説だけに注目していたので、文芸誌で連載されていたこの映画評についてもあまり興味がわかなかった。たまたまシンセミア以降の阿部熱が冷め切らない期間だったせいで手にしたようなものだ。けれどそれが幸運だった。

思えば人が映画について語るとき、それは妄想についてじゃべっているようなものだ。自分のなかで構築されたイメージというものが、これほど共有させにくいものだと分かるのだから。なかば強引な語りになってしまうだろう。

妄想語りといえば阿部和重だ。なのでこの映画評は彼の本領を遺憾なく発揮し、まるでN国・T地方・Y県の通学列車において、不良高校生の些細な喧嘩がヤクザを巻き込む全面抗争にまで暴走した「あの」興奮を思い出すようなスリリングな批評だ。

この映画本で私はロベール・ブレッソンやジョン・カサヴェテスに触れるキッカケをつかみ、中学生以来のジョン・カーペンター作品を見ることになった。それが幸せなことなのかと言えば、正直どうでもよいレベルだろう。けれどそうやって映画に近づいていくことは興奮に値するのだ。そしてこの感情自体、なによりも映画本によって盛り上がってしまったことなのだから。2004-08-01/k.m

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最終更新:2008年04月11日 08:12