ロックンロールミシン


  • 新潮文庫
  • 鈴木 清剛著

女性1人に男性2人。この「ドリカム系」とも言える・・そういえばもう3人じゃないんだっけ?、それではこの「エブリ・リトル・シング」・・これも違ったっけ?。そんな訳で必ずしも長く続くことのない(?)この組み合わせによる、建築系で言うと「ユニット系」は、この小説の柱となっている。賢司という刹那的な語り手である主人公への共感という楽しみもあるが、ここではむしろこの「装置」へ注目してみる。

まさに稼働し、そして崩壊していく間を描いたもので、しかしこの組み合わせには事件が付き物だ。やはり3人の中に男女のペアが発生してしまうことが破綻へのキッカケなのだろうか。必ずしもこの小説では「それ」が原因として描かれていないものの、やはりペアは存在していた。ではもっとほかに構造的に見えてくるものはと言えば、それは創作にかかわる「立ち上」げと「挫折感」ではないだろうか。

椿は「確実」な技術力とは裏腹に、凌一の「粗雑」ながらも型破りな姿勢に創作の原点のようなものを見ているし、カツオや凌一も自分に足りないものを他の2人へ見いだし、3人の夢を叶える「装置」として「STOROBO RUSH」を立ち上げたのだろう。そして一度「稼働」し出した装置は、その勢いに任せて進むのだし、それを動かしていく「意志」とのバランスによっては、少しずれたところで動いて行くものだ。

複数の意志を「一つ」の流れとして結合し、おのおの参加している「意志」を満足させることは困難だ。むしろ無理なことだと思う。しかし創造の過程に参加し、一つの意志を「引き受け」て、「自分」の作品として帰属していくことはあると思う。

では何が違うのか?。「前者」には妥協が目的化していく危険性があり、誰の意志によるものでもない、棚上げ感にも近い作品になってしまう構造がある。そして「後者」には、「妥協を許さない」という信念の様なものが、ひとつの「意志」となって、作品そのものの個別性とは違った、やや精神的なレベルでの繋がりを生み出すからではないだろうか。

何れにしろ作品を作り上げる「意志」というものは一つしか存在出来なくて、この物語のように「装置」を稼働し続ける目的のなかに3人が持ち合わせた「それ」が回収されてしまった事への危険性に、「まった」をかけたのが凌一であって、鋏で切り刻む事が破綻への「儀式」でありまさに「リセット」であった。

創作とは本来厳しいものであって、それに立ち向かう勇気を「ユニット」は生んでくれた。そして次へのステップへと向かわせるための「儀式」によって締めくくられた。これ以上充分に「稼働」出来た「装置」はないのではないか。ラストのフリスビーへは、むしろその充実感すら感じてしまう。2002.07.14k.m

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最終更新:2009年03月12日 15:06