ひさしぶりにエミール・クストリッツァの作品をみて、そのパワフルさに圧倒された。無音の状態がないくらいに音楽が流れていて、まるで人生もそのようなメロディのなかへ収斂されているかのようだった。
ブラスバンドはやかましいほどで、ボスニア紛争の現実感をも滑稽にしてしまうくらいだ。結局映画はフィクションであって、どれほどシビアに戦争を描いても訴えるものが戦争そのものである限りどこかでそれを正当化しているように思う。
けれどこの作品のように、デカダンスと共に生きる人々へ焦点を合わせると、戦争はまるで社会システムに組み込まれた行事のようでもある。そしてその慣習に命をうばわれ、家族をうばわれ、夢をうばわれる。死ぬことの身近さと生き抜くことの困難さに、日々直面させられる。
そこには論理ではなくむき出しの生=不条理があって、鳴り止まないブラスバンドは、息絶える寸前の状態をトランスさせる最後の装置のようだ。「ヒロシマ以後、論理なんてない」そう主人公は言っていた。2006-06-04/k.m
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