マンガと小説の中間。はてしてそのように著作を言っていいものだろうか。既に一番古い「連続テレビ小説ドラエモン」が書かれてから17年もたっている。ドクタースランプやら、キン肉マン、北斗の拳など、ちょうど自分が必死になって読み続けていた小学生の頃、その数年後にこの著作は世に出されている。
当時少年としてリアルタイムでマンガに夢中だった世代である自分が今、この作品を書いた頃の作者に近い年齢となって手にしているのだ。
固有名詞が多いだけに、時間の経過を思い知らされる。ただものすごいスピードで消費されていったこれらのキャラクター達だが、不思議と古くささは感じない。けれど、あらためて相当に歪められた「ある意味現実感のある」生々しい姿で再会させられたことは、それなりにショッキングな事件でもある。
ドクタースランプは2度登場し、連作短編のような構成の軸になっている。既に記憶は曖昧で、ニコチャン大王などの存在すら忘れていた。描かれた人物が限られていることや、活字特有の淡泊さによってか(もっとココについは考えるべきなのだろうけど)、スピルバーグ作品「未知との遭遇」のようにも感じられた。夢遊病のようにさまようペンギン村の住民達は、集団催眠にかかった新興宗教集団のようにも、また世界と隔離した孤島に送られた極刑者達のようにも・・。
家政婦は見た・・ではないが、サザエさんは火曜サスペンスか昼メロの主人公のように登場する。しかし前衛演劇なのか、よく分からないけれどその不可解さが、いらだちとかよりも、かっこいいモノをながめるような感覚につながっていく。
キン肉マン一家を描いたホームドラマは、あたかも小津の描いた世界を逆なでするように、一方でそれを思い出させるのだった。るせえな。んだよ。・・・。ケンシロウのせりふは一発芸よりも、ある種の恐怖感すらともなう緊張を呼び起こさせていた。2003-11-30/k.m
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