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同居生活をチャットやBBSにたとえる


2003-04-29

「家族」や「空間」という視点で見ても面白い小説だ。大学進学時点で一人暮らし(援助受けて)している経験から、家族という概念自体が世間体やら規範などのぼんやりとしたルールとしてあるように思う。別に家族の崩壊だとか、幻想だとかまで広がらなくても、どこかそんな意識はあると思う。

「家族」する。という行為の問題として考えることが出来れば、血縁という繋がりだけに限ったことではないことはあきらかで、そのような「ゆるい共同体」が最近の小説のなかで様々に定義され、その断面がこの作品にも出ているのだろう。

「空間」という意味では、そんな「ゆるい共同体」という現実は、空間がどのようにつくられていようとも存在していくもので、空間をつくるという意識のなかでは考慮されにくい現実であるということだ。建築がつねに現実をスタートにしていない、または出来ていないという限界と、はたしてデザインはどこまで時代に敏感に、また人間の内面に近づけるのだろうかと思わせる作品でもあった。

2003-02-02

何人かの若者が部屋をシェアして楽しげに暮らしている物語。確か少し前に「ルームメイト」という付き合いがマスコミの間でも流行っていたように思う。その「流行った」という思いがすでにこの小説の設定を使い古したネタのように見てしまい、だいぶ前に手にしたものの読むのをやめていた。昨年「パークライフ」を読んで、結構興味がわき、「最後の息子」を読んでこの本も読みたくなった。じわじわと吉田修一ワールドに入り込んでいるようだ。

この作品は僕の中では前途の2つの間に位置づけられる。その基準は「渇き」とでも言おうか。それは都市における人付き合いの度合いのようなものだ。「パークライフ」でも十分にあり得ないと思う展開ながら、それでもあの公園で会う女性との関係へ、渇いたなかに心地よさを感じた。「最後の息子」ではその心地よさが前面に出ていてとても魅力ある作品ばかりだったが(とくにウォーターなど)、その分リアリティーに欠ける気がした。

そしてこの「パレード」には、リアルさと心地よさがほどよくかみ合っていた。「渇き」と言っても別にネガティブなものではない。もともと人間関係とは渇いたものだ。そんな所から僕らは始まっているように思う。むしろ渇いた関係自体に心地よさを見付けているために、いかにそれを成し遂げるかと日々自分を演出しているようにも思うのだ。

世界は自分を中心にマワッテイルことは確かなようだ。けれどお互いの関係性の中にしか自分を位置づけ出来ないことも確かだ。そして「すっぽり」とはまることは心地よさを生み、みんなもその状態を無意識のうちに保つことを望んでいる。

著者の作品はどちらかと言えば「会話」や「科白」が面白い。そして状況や風景の描写はもうひとつピンとこない感じだ。「会話」については僕の好きな大谷健太郎監督の作品を思い出させる。「アベックモンマリ」も「とらばいゆ」も会話が絶妙に楽しい映画だ。スタイリッシュな空間でのドラマや、渇いた感じも近い。けれどこちらの映画は風景も素晴らしい。小津映画の「間」を思わせる、とても映画的な情景だ。

追記トーク/2003-02-22

k.m :同居生活をチャットやBBSにたとえる箇所がありましたね?。あれはなかなか的を得ていて面白い分析だと思いました。この人の現代性ってこうゆう細かな所にさりげなく感じられるよね?。

i.m:そうですね。とてもわかりやすい表現だなぁと思いました。

k.m:ラストの数ページで急に緊張感が出てくるのがちょっと驚きだったけど、あそこまでする必要あったのかな?それともあれはなにかへの警告だったのか。たとえば共同生活でみんなが演じているゴッコにただよう「まったり感」を破壊するような、でもそんなことはもう今の僕らには「出来ないんだよ」、的なものとか?。

i.m:う〜ん、ラストの緊張感は必要なのか?私も思いますね。ただ、あのような出来事があっても、今までと変わらない共同生活をおくる同居人達に、現在の人との関係のつくり方(接し方)が写し出されてもいる様に思われました。これは、「警告」という意味も含んでいるんでしょうね。

k.m:なにかの書評で見かけたけど、この作家はダメな若者を描くのがうまい、それはダメさを描くからといってその作家性までもダメみないな評を批判しているのだと言ってました。うーん。保坂和志の好きな僕としては、色々と考えさせられる小説であることは確かです。2003.02.02 k.m


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カテゴリー小説建築