そんな訳で「バッファロー’66」。 しかしこの映画はもっと、ハードボイルドでカッコイイものかと思っていた。ヴィンセント・ギャロの演出による、パルコのCMでもお馴染み、もはや渋谷系の文化的リードを握っているかのような、長期間上映だった。
描かれていたのは、郊外の空虚さ。 日本における郊外の問題ですら相対化させてしまう、もの悲しさ漂うアメリカ社会。個人主義の国ですが、世間としての共同体はかつて存在していた。社会の複雑化は、それらがフィクションであることを不明確なまま受け取ることを強い、反面なにをシンボルとして取り入れて行けばいいのかを迷わし、さらに日常という薄っぺらい現実と向き合わなけらば行けない寂しさを与える。
あらゆる計画精神的スタンスの導いた社会の歪み。その代表的な存在としての郊外なのか。 そんな社会に彷徨い、ただ安心して包容される空間を求めて行くことが唯一の使命であるかのような、むき出しの生が映像に出ている。
ごく親しい友人達以外はみな意識外の風景でしかないと言われ、友人ですら限定した自分として接することを自ら強いている現代空間。映画に描かれている空虚さに、なにか共通意識を見いださない人は少なかったのではないだろうか。若者の街、渋谷においてのヒットは、単なるカッコよさだけではない。2000.05.06/k.m
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