先日の北野武「座頭市」にちかいものを感じつつ、ちょっと複雑な気分だ。もっとも日本でのスケール感は前者の方が大きい。しかしヨーロッパではどうだろう。いい勝負ではないか。そんなある意味カルト的な所に黒沢監督の存在はあったと思うのだが、この映画ではすっかりメジャー級の作風だ。
不可解なものに対する恐怖心は、そのまま好奇心となり、それを描いてくれる黒沢作品に惹かれてきた。ただ、「カリスマ」あたりまでの作品に感じていた魅力が近年のそれには、少なくなっているようにも思う。不可解さはいまだ健在だ。しかしそれが何か手段ぽくなってはいないだろうか。もはや、「分からないこと」をエンターテイメントにした、とても「分かりやすい」作品ではないか。
あるいは、そんな型にはめられることが生き延びる術なのかも知れないが、思えば「人間合格」や「カリスマ」には、不可解さの中に「切なさ」が含まれていたように思う。恐ろしさは同時に畏怖に近づき、尊い何かを思う気持ちが切なさを呼んでいた。それは映画が終わったそばから、大きな提起となってのしかかるようでもあり、そこから解放されるようでもあった。何かとはうまく言えないが、それらが独特の深みを生み出していたことは確かだ。
しかしこの作品には深みがない。恐怖や笑い、そしてロードムーヴィ的な作風としての深みは多いが、のしかかるような提起はない。見終わったら、それでおしまい。さっぱりとしたものだ。
そういってみたものの、この作品ならではの新しい楽しみも多かった。ユースケの軽薄な腹黒さは、なんとも黒沢作品にはまっていたし、無機質な周辺人物や、意図的にとしか思えない切れ切れなカット割、終盤に向けて物語そのものを放棄していくようなドタバタぶり。ラストはヴェンダースのロードムーヴィのような映像美。
まだまだ追っかけたい監督であって、自分の中では「座頭市」の監督より、はるかに期待をしているのであった。2003-10-04/k.m
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