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ドッグ・ヴィル

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  • 2004、デンマーク映画
  • 監督: ラース・フォン・トリアー
  • 出演: ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー、トム・エディソン・ジュニア

簡素で舞台装置のようなセット。セリフもナレーションも多い。9章に連なっている。この監督は映画に出来ることを貪欲に追求しているようだ。作品を見るたびに新しい見せ方をしている。

重い。映画を見終わったときにではなく、何度もそう思いながら見ていた。しかも長い。3時間だ。これは道徳や倫理といったものを唱えている作品なのだろうか。だとすれば自分の思っていたものと随分と違っている。どこかでそれらは甘美なもの、いや「ゆるい」ものだった。小学校の道徳教育のように、なにかお約束なものを行儀よく受け入れる訓練であるかのように、それは真正面からいつも来るのだ。

ここに描かれていたものはあまりにも惨い姿だ。いまさら道徳が甘美なゆるさでもって語られるとは思わないほどにオトナになっていると自負しているのだが、正直この描写を受け入れるほど世の中を分かっている訳ではなかった。

確かにドラマはあるお約束をなぞってもいた。小さな村社会。あまりにもささやかな世界は日常と政治が平行して存在している。個人の欲望がそのまま政治的な語らいを生んでしまうのだ。その環境において、人はどこまで道徳や倫理を幻想ではない何かとして信じることが出来るのだろうか。これはひとつの実験ではないか。

一人の逃亡者である美しい女性は、あたかもリトマス試験紙のように住民みんなの幻想を暴いた。同時に彼らの生贄としても身を削った。そして最後には審判も下した。

壁もなく床に描かれた書割の装置が世界を表しているように、これらの物語が多くの語りを象徴していることは明らかだ。むしろそこまであからさまに前提を示さなければ描けないほどの惨さを持っていたのだから。言ってみれば、これはシャレですからと、笑いながら人を殺しているような所もある。

けれど、どんなに抽象的な表現をとろうが映画の中へ入り込めてしまう観客を知っているのが監督だとすれば、フィクションではなく本当の「実例」として私たちがこの作品を受け止めてしまうことをむしろ確信犯的に立証するために取った方法だとも言えそうだ。2004-11-14/k.m

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カテゴリー-映画