ディスタンス


  • 監督・脚本:是枝裕和
  • 製作:秋枝正幸
  • 撮影:山崎裕
  • 出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣、浅野忠信、りょう、遠藤憲一

これは今までにあまり見たことのない映画だった。ドラマなのかドキュメントなのか。この監督がドキュメンタリー出であるということを知って納得の作品なのだが、それにしても初めての経験には変わりはない。

カルト宗教の無差別テロ。数千人の被害を出し、その実行犯は教団に殺された。残された遺族の話なのだが、社会的に加害者であり、教団の被害者であるという倒錯した立場を突きつけられた人達といったところか。これは当然あの事件を映画化しているのだとも思うが、そんな説明をしないまでも十分に「リアル」な出来事をドキュメンタリーな演出で撮るというのはどういうことなのだろうか。

キャストに手渡された脚本はそれぞれの出演部分だけで、相手の台詞は書き込まれていない。俳優たちは物語の方向性と人物設定だけを知らされ、脚本には書き込まれていない多くの部分を彼ら自身の感性や言葉で形作っていった。

上記はこの映画のサイトでの引用だが、「彼ら自身の感性や言葉で」というのが本当だとしたら、この作品が言いたいことは、監督の言葉ではなく、社会の、それもメデイアが報じた、「あの事件を感じた我々」を写した映画ということになるのだろうか?。役者の個人的な見解を映画の流れに乗せていくのだから、その役者自身の認識も演技に左右するだろう。僕らがあの事件を見て感じたこと。そして今なおあの教団は活動を続けていること。それを報道で目にすること。カルトということ。教祖ということ。超自然な存在ということ。神という存在のこと。そして日常の、家族の、友人の中に潜むカルト。絶対の真理。真実の姿。

いつも思うことは、平和な時代に存在するカルトなものについてだ。彼らが「絶対」というのと、先日観たフィンチャーのファイト・クラブの自己破壊による「リアリズム」。どちらも今の時代に得難いモノとして同等の作用を促していないだろうか?。そしてそれらを伝えているのだとしたら、この映画も至極現代的な欲望を表現している映画ということになろう。

「ディスタンス」が遺族と実行犯の決定的な距離感を表しているのだとしたら、現代的な欲望による方向性の「違い」にしか感じられない自分は、やはり決定的な距離感をどこか設定してしまっているのだろうか。

ただこの映画がドキュメンタリー風に撮られていながらも、全く作られたものとでしか僕の中では感じられなかったのが、すでにあの出来事ですら、ワイドショーの一消費材料でしかなかったと言う印象から来ているのかも知れない。

2001.06.07k.m


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最終更新:2008年04月11日 08:05