チキン・ハート


  • 2002日本/オフィス北野
  • 監督・脚本:清水浩
  • 製作:森昌行/吉田多喜男
  • 撮影:高瀬比呂志
  • 音楽:鈴木慶一
  • 出演:池内博之/忌野清志郎/松尾スズキ/荒木経惟/岸部一徳/馬渕英里何/春木みさよ

下北沢へ「チキン・ハート」を見に行く。

自転車の空気が少なかったのでまずは「空気入れ」から。外へ出るとあまりの暑さに目がくらんだ。それでもエアコンで冷えた身体には、制限時間内で不快感は抑えられている。急いで駐輪場へ行き、汚れきったマイチャリを引き出す。定期的に抜けていく空気、このタイヤは煩わしく世話のやける存在だ。特にその思いは実際の作業に取りかかる寸前まで付きまとう。もっとも入れてしまえば快適なツーリングで近所を走れるのだし、いつもこんな小さな煩わしさに付き合って生きているわけでもない。民族紛争、政治汚職、住基ネット、さらに煩わしい問題は沢山あるのだ!。それにしても、なぜか何時もゆるんでいるような気のする空気を入れる口。誰かへ意図的にゆるめられているような強迫観念がよぎる。暑さが怒りへと接続されそうな危険性を感じ、さっさと済ませねばと意識を取り戻すよう努める。しかし制限時間を超えて終えたことは、部屋へ戻ったときの汗の量がそれを訴えていた。

ポンプをしまい、いざ出発。すでに出だしから汗ばんでいる。まったく、先が思いやられる気候だ。環7と甲州街道という車の激戦区のような場所。気温は30度代ではすまされないだろう。下北までには坂が一つある。いや、あの街の周辺、その内部にも起伏は多い。さらに人の多さが重なってきっと地獄絵を描いていることだろう。

映画からすっかり遠のいた話になっているが、そんな日常を描いている映画でもあった。「東京・大阪同時公開!!」。そんなチラシに「!」が二つもついている割には、まだまだ渋い興行の日本映画。シネマ・下北沢、ユーロスペースという単館系でも通な劇場での公開。この程度のマニアックさはむしろ東京ではウリになっている。雑誌の細分化と同じくらいに日本映画の採算性も小さなサイクルとなっているのだろうか。あるレベルを越えたマニアックさは、日本映画を見る客層には日常的な光景であって、いっぽ踏み込んだ参加のさせ方を強いるという意味で、下北沢での上映はそれなりに成功しているのではいないか。

オフィス北野の配給で、確かにキタノカラーを感じる作風。バイオレンスを抜いた北野映画といった感じ。ではあの映画から暴力シーンを抜いてどうなるのだろうか。日常を感じるためのコントラストのように挿入される殺人シーン。平凡な画面を、それと認識させるためにはある程度の非日常をも描く必要を感じる。しかしこの作品では徹底した日常感を追求している。森田監督の「の・ようなもの」を思わせる。ただあの映画にも波はあった。団地でのイベントはひとつのエネルギーの抑揚を感じた。

配役もエピソードも面白い。松尾スズキの細かい技を織り交ぜた演出はそれだけでも見物だ。清志朗のぎこちない演技は、かえって存在感の大きさをしめす。池内博之は、現代の倦怠感を体現する等身大な若者という、キタノカラーの象徴のような大役をそつなく演じているのだと思う。終盤の海岸で凧を上げるシーンなど、十分に完成度のある場面なんだと・・。

けれどなにか物足りなさを感じる。バイオレンスを描かないことには賛成だし、抑揚の少ない運びにもかえって魅力を感じた。この物足りなさがそれらから来るのだとしたら、映画が活劇であってエンターテイメントであって、そんなせまい解釈でしか表現の許されない娯楽なんだと認めているようで不満でもある。

もっとなにもない、小さな笑いと、小さな感動が、この世界をとことん寓話的な柔らかさへと見立て、日常という曖昧な括りのなかへ、忘れていた人への愛おしさを感じられる映画。そんな難しいけど魅力的な作品であると期待していた、そう感じて見てもいた。物足りなさは、むしろ唯一の事件、またその後の主人公を描くまとめ方に感じた。愛おしさという憧れは、彼自身へ向けられた欠如の告白のようなものだ。その発見と自覚を与える事件としては大げさすぎ、またその後の覚醒を描くにも、もっと面白味がほしい。いろいろと考えさせられる映画なのだけど・・。

2002.08.11k.m


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最終更新:2008年04月11日 08:05