HERO


  • 監・案・製・脚:チャン・イーモウ
  • 案・脚:リー・フェンほか
  • 出:ジェット・リー トニー・レオン マギー・チャン チャン・ツィイー
  • 2002中/ワーナー/99分

マトリックスのスタッフが参加しているらしく、ワイヤーアクションがふんだんに使用されていた。だがこのことは、伝統的なカンフーアクションをずいぶんと陳腐なものへしているように見えた。ワイヤーアクションは、スローモーションを持続させ、極小の時間へ幾つもの動きを落とし込む装置として、斬新なアクションシーンを生んで来た。しかしあくまでもリアルと感じられる範囲で時間の引き延ばしが行われ、それは重力の存在をギリギリまで感じさせ、身体の動きの延長として見えることでもあった。

けれどこの映画ではまったく重力は無視されて、妖精のように浮き上がることを可能とし、人間わざにはとうてい感じられない。マトリックスでもそのような意味でのリアルさからはすでに遠ざかっていたが、仮想現実というフレームの範囲で、しかもパロディー感という重要な世界認識の枠組みを通じてそれは機能していたように思う。

いっぽうこの映画では伝説とはいうものの、紀元前という時代設定と、幾千もの弓矢が飛び交う前近代的な戦いのなかで描かれるリアルだ。はげしい剣術のアクションで、不意に浮き上がってしまうのはどうも興ざめではないか。昔のカンフーアクションにはもっと身体のぶつかり合いが、生々しく痛々しく、それでいて華麗に展開していた。

そんな疑問が前半にありつつも、では見終わった所でどうかと言えば、実際にはまとまりのある作品に思えた。思えば色使いはかなりこだわっていて、それはチャン・イーモウの他の作品でも見られる美学だ。北野作品「ドールズ」のようで、あるいはフィリップ・ガレル「内なる傷蹟」のような、ミニマリズムが感じられた。

話が何度も「ラン・ローラ・ラン」の繰り返しを思い出すほどで、その度にテーマ・カラーが変わる。それは監督の美学を研ぎ澄ますための手段であるかのように、もはや話とは直接関係のないレベルに思えた。そう見ると、妖精のようなカンフーアクションも世界観の連続性から言えばむしろ筋が通っていて、特に水の上で戦うシーンの幻想さは素晴らしい。

確かに「意識の中での戦い」という設定だが、今更そんな但し書きなど無くても、すべてが幻の中で繰り広げられているような浮き足だった演出なのだから、素直にシンクロしていくほうが楽しめる。幾千もの弓矢が飛ぶシーンなども、実際に対象物へ突き刺さる場面が来るまで、破壊力ではなく浮遊感だけが強調されているのだ。そのことによって弓矢という存在が、一度意識の中で抽象化されたような姿となる。

ワイヤーアクションという技法が、身体のぶつかり合いを抽象化していく作用のために使われるとするならば、この映画でそれは新たな映像感覚を生んでいるのかもしれない。単一の色に重点を置き、モノクロよりも軽やかな陰影の世界のなかで、浮遊感によって破壊力そのものを意識の内部へ抽象化していく。新しいアクション映画ではないだろうか。2003-08-19/k.m

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最終更新:2008年04月11日 07:56